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第1話 黒海から始まる航路

第一部 ユキ編


第1話 黒海から始まる航路



 東の国から遥か離れた黒海では、一人の少女が運命の岐路に立っていた。後に海賊や私掠船と渡り合い、大航海時代を駆け抜ける女商人として名を轟かせる少女、ユキである。だが、この頃の彼女はまだ、自分の運命を知らなかった。


 黒海を見下ろす丘の上で、ユキは港を眺めていた。父から聞かされた香辛料の話も、最近では少しずつ変わり始めている。港に来る商人たちの顔ぶれが変わっていたからだ。

 丘の中腹には交易商人ラウラ・アレクシアの館が建っていた。バラ園と木立に囲まれた館は、この港を見下ろしている。晴れた日には各部屋から黒海が見渡せた。


「おば様、準備が整いました」

「港の様子はどうなの。何か変わった事は無い?」

「特に無いわ」

「最近の港は物騒だと聞いているのよ。気を付けてね」


 港では数日前から、小競り合いが絶えなかった。

 倉庫の前には腕組みした私兵たちが立ち、商人たちは以前より小声で話すようになっていた。


「最近、港が妙に静かすぎるのよ……」

「ところでユキ、今度の航海は長くなるわね……」

「また心配なさっていらっしゃるのですか?」

「港は静かだけれど、交易量が減っている。水面下では皆が奪い合いを始めているわ」


 このままいけばラウラ家が主導する交易も先細りになる事は明らかだ。


「おば様、でも安心して下さい。だからと言って今すぐ日本へ向かおうと言うのではありません」

「…………」


 父安兵衛が語っていた東の国――日本。父の祖国への憧れと、父が時折刀を腰に差していた姿を、ユキは片時も忘れられなかった。


「お前のお父様には借りがあるのよ」

「借り?」

「昔ね、海賊に弟を攫われた事があったの」


 ラウラは窓の外を見た。


「助けてくれたのがお前のお父様だった」


 ラウラは改めてユキの羽織袴姿を眺めた。男とも女とも違う、最初は奇妙に見えたその服も、今ではユキらしいと思うようになっていた。この地方では、既婚女性が髪を布で覆う姿も珍しくなかった。だがユキはそんな事は気にも留めなかった。髪を隠さず自由になびかせる自分が、男達から好奇の目で見られている事も意に介さなかったのだ。


「おば様、お父様はオスマンでも有名だったのでしょう?」

「ええ。あの方は特別な方だったの。剣も強かったし、人を惹きつける何かを持っていたわ」


 だが、その安兵衛の死後すぐに養子として迎えたユキを見つめるラウラは心配でならないのだ。ベネチア商人の娘ラウラはユキに全ての知識を与え育ててきた。もう一人前の交易商ではあるが、冒険心に富む活発なその性格は、ラウラを心配させるには十分すぎるものがあった。


「私は無茶をしたいわけじゃありません。ただ父の見た世界を、この目で見たいだけです」

「でもユキ、何度も言うようだけど、貴女が直接行く事は――」

「おば様、もう決めた事です。それに日本にまで行くと言うのではありません。地中海を出るだけです」

「それでも……」


 ユキは振り返ると、召使に言った。


「お湯を入れて」

「分かりました」


 今準備を進めている航海では、黒海を出て地中海交易をしながら、さらに大西洋を目指す。出航の前夜も、ラウラに準備がほぼ終わった事を報告したユキは、普段と変わりなく湯あみを始める。召使たちが運ぶ湯に入り、石鹸で丁寧に髪と身体を洗った。石鹸はオリーブ油から作られたベネチア産の品だった。泡立ちは良く、船乗りたちが嫌う汗の臭いも残りにくかった。


「船に乗ったらこんな湯あみはもう出来ないわね」


 湯あみを終え、召使の手を借り浅い湯舟から立ち上がったユキの身体は、使用されるほのかな香料の香りが漂っている。父安兵衛の影響から、湯に浸かり身体を洗う事はユキの大事な日課となっていた。その湯上りの湯に好きな香料を垂らしているのだ。

 食卓でラウラと向かい合うユキがワインのグラスを置く。召使が新たに注ごうとするのをユキの手が止めた。重厚な内装の部屋を幾つものローソクの灯りがほのかに照らしている。


 その夜、港の方角から怒号のような声が風に乗って聞こえた。

 ユキは窓辺に立つ。

 黒海の沖に見える灯火が、どこかいつもと違って見えた。

 翌朝、自分の人生が変わるとも知らずに――。


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