第109話「これは催涙弾だ」
家康はこの戦の約一年後に亡くなる。ならば、この戦いは家康にとって最後の大勝負になる。やはり彼は先を急いでいたのか。
「幸村、皆を集めろ。勝永殿にも主だった家臣達を連れて来てもらえ」
「はっ」
(トキ)
(なあに)
(この秀頼はずっと幸村って言ってるけど、真田信繁なんだろ)
(そうね)
しかし秀頼から何故か急に幸村と呼ばれるようになっても、この武将は素直に返事をしていた。今回の戦さで幸村と並んで攻撃に参加する重要な武将が毛利勝永だ。息子の勝家と共に大阪城に入った。
まだ日は上っていない。茶臼山のなだらかな丘に、幸村と勝永らの家臣団が集結した。
「全員にフンドシを配れ」
「分かりました」
(やっぱりフンドシ)
(…………)
(おれは一体何を考えているのだ)
目の前に居る秀頼は自分であって自分ではない。ユイトはこの世界に転生した自分の考えがさっぱり分からなかった。
集まった皆はフンドシを顔に巻くように言われ戸惑っている。それはそうだろう。急所を締めるフンドシを、よりによって顔に巻き付けろと言われたのだ。
ざわついている皆に構わず、秀頼は一本の缶を、持参した大型の袋から取り出した。その袋は明らかにリュックだ。
(なんだ?)
「これは唐辛子である」
(はあっ、唐辛子?)
おれは思わず秀頼の手元を見た。
どう見ても、ただのスプレー缶だ。
「正確には、唐辛子の成分を噴射する道具だ」
秀頼ユイトが持ち込んだのは市販の唐辛子スプレーであった。
秀頼は手に持つスプレー缶の噴出レバーを押し、ストッパーを掛け前に投げる。もちろん辺りはとんでもない騒動となった。
ガスを浴びた者は目がやられ、涙、鼻水は止まらず、胸や喉が痛くなる。それはまさに唐辛子の粉末ガスであった。
もちろん使用する側も影響を受ける。ガスの被害を防ぐにはゴーグルとマスクは必須なのだが、秀頼は代わりの手を考えたようだ。
「肌はなるべく晒さない方がいい。だからフンドシ、いや布で顔をグルグル巻きにしてカバーするんだ、早くしろ」
布を水で濡らすなどすれば、より効果があるかもしれない。目に入るガスの成分は洗い流す。だから水隊を編成して、いつでも何処でも水を補給出来るようにしておいてある。
「早くフンドシを顔に巻け!」
その言葉を聞くまでもなく、皆はフンドシに頼った。それでも地面に這いつくばり苦しがる者が続出して、このスプレー効果は証明された。
ただフンドシに水程度では、さほど唐辛子の被害を防ぐ効果は無い。それでも事情を分かって仕掛ける側と、いきなりガスを浴びせられる側とでは混乱の度合いが違い過ぎるだろう。
その後はスプレー缶の取り扱い方法を教えている。
「やり方は簡単だ。ここをカチッと音がするまで押せば良い」
幸いこの世界の住人でないおれユイトには唐辛子スプレーの害は及んでこない。
「ガスの噴射口を触ってはならぬぞ」
スプレー缶を矢の先に縛り付けさせている。
(これは催涙弾だ)
やがて日が高くなって来る。勝永らは渡された半数の催涙弾を携えて持ち場に戻り、ついに実戦で試す時が来た。前進した射手が弓を引き絞ると、傍にいた者がスプレーの噴出レバーを押し、ストッパーを素早くかける。
「撃て!」
三発の催涙弾が怪しげな煙を吹き出しながら、弧を描いて飛んでいく。
(始まった。だけど、やっぱりこれはおれが知っている大坂夏の陣じゃない)
この日、風はあまり無い。催涙弾は徳川方前線に落ち、辺りに動揺が広がっている様子が、離れた位置からでも見て取れる。
「進め!」
秀頼の馬印を掲げた真田隊が遂に先行突撃を開始した。史実とは真逆の戦闘が始まった。
(トキ)
(なあに)
(あの、ちょっと確認しておきたいんだけど)
(…………)
(この世界ではおれが秀頼に転生した、と言う事はだよ、それってトキの力によるんだよね)
(……そうね)
(ていう事は、トキはこの事を知っていた)
(それはちょっと微妙なんだけど、確かに知らなかった事ではないわ)
(…………)
トキの返事そのものも微妙だった。
(ユイトもこの時代の自分が何を考えているか、はっきりとは分からないでしょ。それと同じなの)
(なるほど、そういう事か)




