第107話 マクシミリアン恐怖政治からのマリー・アントワネット
十八世紀半ばからイギリスで起こった産業革命は、石炭利用とそれにともなう社会の変革のことである。この新しい世界では前倒しで早くも始まっている。おれが鶴松に転生して以来、数々の時空移転が歴史に様々な影響を与えているようだ。
ここはロンドン・ロスチャイルド家の執務室である。口出しはしないと言っていたはずなのだが、ネイサンと向かい合って座わる王妃さまの提案がしっかり続いている。
「イギリスではこれから産業革命が起こり、鉄の需要が高まりますから、製鉄事業に乗り出すべきです」
「…………!」
「また戦争の混乱によりドイツでは綿製品が不足して価格が高騰すると思われます。ですからイギリスで大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送れば莫大な利益を上げるでしょう」
背後におれの情報があるなどとは思いもしないネイサンは、王妃さまの提案に驚きの表情を浮かべる。
この時点までネイサンは、この王妃はお菓子を食べながら宮廷でおしゃべりをするだけの、世間知らずだと思い込んでいた。マリー・アントワネットから話があった当初は、自分がリーダーシップを握ればこの王妃などどうにでも支配出来るとふんでの事だったのだ。
情報源の追及に血道をあげるネイサンの執拗な質問をかわしているらしい王妃さまであったが、
「ユイト、貴方にお願いがあります」
スターバックスの席で、王妃さまは言葉を改めるようにしておれに話し掛けてきた。
必要
「私には復讐しなければならない者が居るんです」
「えっ!」
スプーンを置いた王妃様の口から、復讐などと穏やかでない言葉が出てきたのだ。
マクシミリアン・ロベスピエール、それが王妃さまの復讐する相手だと分かる。この世界ではルイ十六世をギロチン台に送った男だった。
「あれ、ロベスピエールってワーテルローの随分前に彼自身がギロチン送りにされているけど、この時代では……」
「えっ」
そう言った王妃さまがおれを見ている。
「いえ、こちらの話です」
「……これは私の復讐の為だけではありません。フランス人民の為にもあの男の暴走を止めなくてはならないんです」
王妃さまは固い決意をあらわにしたのだった。
誰も彼もが処刑されるのは既に恐怖政治の末期症状だ。だから国民はもう恐怖政治に嫌気が差すようになっていた。
しかしロベスピエールが国民公会に姿を見せると、さらに議員達を震え上がらせる発言をする。
「粛清されなければならない議員が此処にいる」
「――――!」
「誰だそれは?」
議員達は皆その名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員はギロチンの恐怖に沈黙するしかない。もう同志もなにも無い、ロベスピエールの気分次第で仲間の誰もがギロチン送りになる可能性を秘めている。
「ユイト、これを国民公会のテーブルに置いて欲しいんだけど、出来るかしら」
それは王妃さまが書かれたもので、ロベスピエールが逮捕されるべき人物としている議員達のリストだった。
「トキ頼むよ」
「いいわよ」
おれはトキに頼んで、議員達に気づかれないように、そのリストを国民公会のテーブルの上に置いてきてもらった。もちろんこれは捏造だが、そのリストを回し読みし、自分の名前を見た議員達は驚愕する。同志タリアンの名前もあるではないか。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。
翌日、ロベスピエールらは国民公会に臨んだ。そこでロベスピエール擁護の演説を始めると、突如タリアンが立ち上がり激しく野次った。
「昨日同じように孤高を気取っていた奴がいたはずだ。黒幕を切り裂け!」
「そうだ!」
「そうだ」
突然の野次にロベスピエール擁護の演説は止まってしまう。さらに議長は繰り返し発言を求めるロベスピエールらを阻止。議場から他の野次が次々と上がった。
「暴君を倒せ」
「奴は暴君だ!」
「暴君は誰だ」
鳴りやまない野次と怒号が飛び交う中、タリアンはロベスピエール達の逮捕を要求した。採決が求められると、ロベスピエール擁護の声は反対派の怒号にかき消され、議長は全会一致だと宣言。プロスクリプティオ(特定の人物を国家の敵として、法の保護の外に置く措置)が決議された。
恐怖政治も凄いが、法の外に置くと言うのも無茶だろう。そう決めつけられた者は何をされても文句は言えないというわけだ。
その後、パリ市のコミューンが蜂起し、その混乱に紛れてロベスピエールらは市庁舎に逃げ込む。そこにまだロベスピエールを支持する四十人前後の兵士や、武器を手にした暴徒が集結して来たのだ。
王妃さまはおれと共に移転してもらったが、数十人の殺気立ったロベスピエール支持者達を前に困惑していた。
「ユイト、どうしましよう」
「王妃さま、後ろをご覧になって下さい」
雨に濡れて黒く光る石畳のパリ市庁舎前で、王妃さまにおれは声を掛けた。
周囲に甲高い蹄の音が満ちている。
「――――!」
「バルク隊長です」
フランス革命が起こった直後に、マリー・アントワネット王妃の脱出を支援した、タタール人傭兵騎馬軍団がいつの間にかそこに来て居た。それを見た王妃さまは、歓喜の笑みを浮かべたが、おれは肝心な事を言った。
「私は後ろにいますから、軍団の指揮をお願いします。これは王妃さまの戦いです」
「分かりました」
王妃さまが進み出る。軍団の先頭で騎乗しているバルク隊長は、少々大げさなそぶりで会釈をすると声を掛けた。
「王妃さま、御命令を」
王妃に率いられた軍団が一斉に剣を抜くと、その後はあっけない展開だった。対抗する兵士は銃を手にしているのだが、暴徒達は剣を振りかざして向かって来るプロ戦闘集団の迫力に後退りを始める。
さらにバルク隊長の一喝と、初めて見るタタール人騎馬軍団に圧倒された兵士と暴徒達は、ついに無抵抗で引き上げ、軍団はやすやすと市庁舎を占領したのだ。逃げていた議員の中には諦めてピストル自殺をする者もいたが、ロベスピエールは後から来た国民公会の率いる軍に逮捕される。
バルク隊長の騎馬軍団はいつの間にか居なくなっていた。その後、ロベスピエールらは牢獄に連行されて短い最後の夜を過ごした。
恐怖政治を終わらせたマリー・アントワネットの噂も、パリ市民は皆聞いていた。あのオーストリア女、贅沢三昧の浪費家と評判の悪かった王妃が、なんと騎馬軍団を率いてロベスピエールを追い詰めたのだ。
王政復古の可能性は流動的であったが、戦争に疲れて平和を求める世論に押されて戦勝国も妥結した。
そしてマリー・アントワネットはついにフランスの宮廷に戻って来た。
戦後フランスは七億フランの賠償金の支払を課せられ、その国境は縮小された。ワーテルローの戦いの後、最終的には約二十万の兵が占領するとされ、賠償金に加えて占領軍の駐留経費負担の支払が課せられた。
「ユイト、私は宝石の全てを売る事にしました」
「えっ」
「そんな物が無くっても生きていけるでしょ。それよりも、カレーライスのレシピを教えて」
「はっ?」
王妃さまは宝石を売った代金を賠償金返済の一部に当てると言うのだ、もちろんロスチャイルドの件で手に入れた資金もある。そして戦争で疲弊した市民たちの生活を支援するプロジェクトを立ち上げると、その一環としてカレーライスを作って庶民に食べさせたのだった。
王妃さまの計画は、即刻国民公会の議員達に知らされる事となった。
マリー・アントワネットは宮廷に戻って来たが、ルイ十六世は処刑されて跡継ぎも居ない今、フランスに残された王族はマリー・アントワネットしかいなかった。
「結菜さん、ルイシャルルって知ってる?」
「ルイシャルル、それってマリー・アントワネット王妃さまの次男でしょ」
「そう」
おれと結菜さんもそうだが、王妃さまもその話題を出すことは決して無かった。なるべく避けてきたのだ。
史実でルイ十七世は不衛生極まりない独房で衰弱死している。
この当時のヨーロッパ外交において、ルイ十七世は見捨てられた存在であった。
マリー・アントワネットの子供が生存している。タンプル塔にいるのは別の子供であり、ルイ十七世は逃亡した。そんな噂が流れていた。そのためブルボン家の財産を目当てに、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが多数出没。牢番がかごに入れ脱走させた、などという噂が次々と流れ、皆が振り回された。
史実でマリー・アントワネットは王子に「愛のキャベツ」とあだ名をつけ、愛情を注いでいた。パリでの軟禁状態から移動の際、馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けたという。
そして
やがて王子は王室を汚い言葉で罵る靴屋の元で使用人として給仕や雑用を行わせられた。
そしてついにタンプル塔に幽閉され、便器も無く床で用を足すことになる。着替えも出来ず、下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は一日二回、汚れたパンとスープだけ鉄格子から入れられた。立たされたまま長々と罵倒を受けた。それが終わるまではパンは受け取れなかったのだ。そして蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。
「ルイ十七世は生きているらしい」
「えっ!」
「トキに頼んで、やっと正確な場所を探し当てたんだ」
おれはその事を王妃さまに話した。しばらく声が出なかった王妃さまだが、もちろん直ぐにも助けに行きたいとおっしゃる。
「結翔さん、王子さまでしょ!」
飛び出していきそうな結菜さんを、おれは引き留めた。
「結菜さん、待って。そっとしておこうよ」
これ以上おれたちが出ていったら、フランスの歴史がめちゃくちゃになりかねない。独房には王妃さま一人で行って頂いたが、多分タイムマシンもトキによる時空移転も違いが分かってないんじゃないかな。
独房の空間が歪んだのは、もちろん王妃さまが事情を知って直ぐだった。
ルイ十七世は独房の壁をこすって「ママ、僕は…」という書きかけの言葉と花の絵を残していた。花が好きな母のためにと、母の名前の横に花の絵が描かれていたのだ。
再び出会えた驚愕と抱擁の後、壁の絵と文字を見たマリー・アントワネットは息子の前にひざまずき、「国王陛下」と深くこうべを垂れた。その目には涙が溢れていた。
こうしてルイ十七世はおよそ二年ぶりに、日の光を浴びる事になった。だが、ウィーンの宮廷に空間移動され、何が起こったのか分からず、声も出ない息子に王妃は、
「神の思し召です」と答えたのだった。
やがてルイ十七と共にバルコニーに出たマリー・アントワネットを見た民衆の誰かが叫んだ。
「マリー・アントワネットさま万歳!」
ここは宮廷とはほど遠い我がアパートだ。食事をカレーライスにしようかと話し会っていた、ある日の事だった。また結菜さんが歓声を上げた。
「キャー!」
「どうしたの?」
「王妃さまからメールよ」
メールにはマリー・アントワネット王妃さまからの短いメッセージが書かれていた。
「お願い、またカレーライスを食べさせて。それから後でストロベリー・フラペチーノもね。マリーより」




