第105話 ネイサン・ロスチャイルドを出し抜いてやる
結局王妃さまからはオーストリアもしばしの平和が戻っているとの連絡が有った。
そして何よりトキから突然のコンタクトが衝撃であった。ある日、おれはまだトキと話せるのか試してみた。
「あの、トキ……」
「なあに」
わあ、話せた!
「あの、えっと、この前は有難う、助かったよ」
「…………」
「それで、あの……トキは今どこに居るの?」
「それは答えるのがちょっと難しいわね」
「…………」
結局トキはこの宇宙で時空を超えた存在であり、地球上の三次元空間に居るおれの想像では理解しがたいだろうとの返事だった。
そして王妃さまからまた連絡があり、ナポレオンの脅威が去っていないとの不安を話してこれられた。
「王妃さま、ナポレオンは今が頂点で、やがて彼の権勢は衰退し、フランスは苦境に陥るはずです。オーストリアが無理に出ていく必要はありません」
と伝えた。
この時代、ヨーロッパの金融界で大きな力を持っていたのが、五人兄弟のロスチャイルド家であった。そして起きたワーテルローの戦い。この戦いでネイサンは莫大な富を得ることになる。ロスチャイルドのネイサン達、イギリス国債を保有している人々は勿論ワーテルロー戦の行方を注目をしていた。イギリスは勝のか、負けるのか。
「王妃さま、オーストリアの戦後復興には大変なお金が入用でしょう。その算段にひとつのアイディアが有ります」
おれは王妃さまにある提案をしたのだ。
「いまオーストリアが出来る最大限の資金を用意して、後はイギリスで信頼のおける国債の仲介人を何人か探して下さい」
王妃さまからは、おれを信用しているので指示通りに動いているとの連絡が有った。
「何を考えているの?」
結菜さんがドーナツをもぐもぐと食べながらおれに聞いて来た。カレーライスを食べた後の甘いドーナツは最高なのだ。
「ネイサン・ロスチャイルドの一歩先を行くのさ」
「それって仕手戦をやるっていう事なの?」
相場の話をおれから少し聞いている結菜さんは、そう思ったようだ。
「仕手戦なんて、そんな大げさな事じゃないよ」
「…………」
「ただ、ネイサンよりもちょっとだけ先回りをするだけさ」
この介入でおれはネイサン・ロスチャイルドを出し抜いてやる。ロスチャイルド家に一泡吹かせてやるのだ。
ロスチャイルド家は確かに情報網を持っていたし、ワーテルローで利益を得た可能性はある。しかし暴落させて買い占めたという有名な逸話の証拠は弱い。だがユイトがそう信じている。
「王妃さま、ネイサンの代理人はイギリス国債を一旦売って、下がり切ったところで買い戻し始めるはずです」
「…………」
「ですから王妃さま側の代理人は、その少し前あたりから、相手に悟られないように買い始めて下さい」
おれはナポレオンがワーテルローの戦いで負けるはずだと王妃さまに知って頂き、ネイサンの裏をかくと伝えた。彼は国債を一旦暴落させておいて、とんでもない安値で買い戻すつもりでいるだろうと。
場の立ち合いが始まると、ネイサンの代理人が次々と売り注文を出した。
勿論それを見た周囲の投資家達は誰もかれもがそれに続いた。国債の価格はすぐに落ち始め、やがてパニックになるほどの売り注文で場はごった返した。
誰もが怒鳴り声を上げ、売り注文を約定させようとして、両手を振る人の波が場内を渦巻き出している。
こうなると国債価格下落の流れは止まらない。もう暴落どころではない。誰も買おうとしないから、どんなに指値を下げようと値が付かないのだ。ついに成り行きで(幾らでもいいから買い手の言い値で)売ると言い始めた。
「今だ、王妃さま、少しづつ買い始めて下さい」
「分かりました」
場を離れた席からそって見ていたおれは、傍に居た王妃さまに言って代理人に合図を送って頂いた。
勿論王妃の代理人が一声「買う」と声を上げると。とんでもない売り注文が殺到して、まとまった単位の投げ売りで決済される。その買い注文がしばらく続くと、暴落が少し止まったかに見えた。
この状況にネイサン側の代理人は首を傾げた。おかしい、どんどん暴落するはずなのになぜ止まるのだと。勿論ネイサンからは、買う前に徹底的な暴落を演出せよとの指示が出されている。そこでさらに売り注文を加速させた。これで再び暴落が始まる。
おれはさらに買い注文を出すように指示した。ついにネイサン側の代理人はあらん限りの国債を売り始めたのだった。
「よし、どんどん買ってしまえ!」
「ユイト、そんなに買って、このままでは資金が足りません」
「まだ買うんです」
「分かりました。私を信じなさいと仰るのですね」
なんとか暴落させようと夢中で投げ売っていたネイサン側の代理人が気づいた時は、かなりの国債が何者かによって買い取られてしまっている。
「おかしい、これは誰かワーテルローの結果を知ってる者が……、買え、買うんだ!」
「ネイサンは代理人に伝達した」
売りは取りやめて買うんだと、夢中で伝達する。売り買いが交錯す事態になる。
ここでついに戦場からの知らせが届いた。ナポレオンが負けたと言うのだ。
国債の取引場内は再びパニックに襲われる。買い戻し注文が殺到し始めた。
ところが今度は誰も売る者が現れない。価格の気配だけがどんどん上がり、ついに元の値段を越してしまう。
「よし、いいだろう、少しだけ売ってやろうではないか」
おれは何割かの国債を少しづつ売るようにと指示した。
王妃さまは莫大な利益を得た。しかしネイサンも完全に敗北した訳ではない。失ったのは財産の一部であり、それでもなおヨーロッパ有数の金融家であり続けた。
歴史上は本当にネイサンがそうしたのか分からない。しかしユイトはそう信じて介入した事によって、本当にネイサンがそう動いてしまった。
ロスチャイルド家マイアーの三男ネイサンは、ロンドンの国債取引場に併設されているサロンでたったひとり椅子に座っている。これ以上変わりようも無いだろうと思われるほどの青白い表情をうかべ、虚な目を辺りに投げかけ、ただそうやって無為に時間を過ごしていた。
そう、この男はたった今、半日にも満たない時間のイギリス国債取引で、莫大な財産を失ったばかりなのだ。ヨーロッパの王族達を手玉に取る程の手腕を誇ってきた彼にとってこの失態は、自分の心臓をえぐり取られたに等しい打撃だっただろう。それを防げなかったのだ。
「私より先に買った者がいる……」
ネイサンは呟いた。
「ワーテルローの結果を知っていた者だ」
彼はゆっくりと立ち上がった。
「だが、そんなことが出来る人間がいるはずがない」
しばらく考えた後、ネイサンは初めて笑った。
「面白い……私を出し抜いた相手が誰なのか、必ず探し出してやる」
そして、結菜さんと一緒にコーヒーを飲むユイトが居る。
「ネイサン・ロスチャイルドを出し抜いてやった!」
ドーナツをパクと口にした。




