Record: 09:勇者適性ゼロ、村人適性は未知数
「フェンリル様。……ちょっと!」
局長室を後にしたフェンリルは、足を止めることなく第七窓口へ向かっていた。その背中を追い、ヴェルナーが慌てて駆け寄る。
「なんだ、ヴェルナー。余の気持ちはもう決まっているぞ」
「アンタ、急にそんなこと言って……魔界はどうするんですか」
フェンリルは歩みを緩めることなく、隣へ並んだヴェルナーへ視線を向けた。
「余が一人離職したところで、今まで築き上げてきた体制が簡単に崩れることはない」
「いや、そういう問題じゃ」
「余とて、あの世界を構成する役割のひとつでしかないぞ」
あまりにも迷いのない言葉に、ヴェルナーの足が僅かに鈍った。
「四天王がいる。各部署を任せられる者も育ててきた。余がいなくなった途端に立ち行かなくなるようでは、それこそ経営者として失格であろう」
「そ、そりゃそうですけど、いくら何でも突然過ぎますって」
長い廊下に、二人分の足音が規則正しく響く。編纂局の高い窓から差し込む朝の光が、先を行くフェンリルの黒い制服を照らしていた。
「ヴェルナー、よく聞け。かの有名な偉人の言葉に、兵は拙速を尊ぶとある。経営者とは、判断も迅速であらねばならぬ。常日頃から準備を重ねておけば、何ら恐れる必要はない」
「……アンタ、こういう時だけ妙に筋通ってんだよな」
ヴェルナーは額を押さえながら、半歩遅れてその背中を追った。
やがて第七窓口へ続く角を目前にして、フェンリルが不意に足を止めた。追いつきかけていたヴェルナーも、つられるように立ち止まる。
フェンリルは振り返らなかった。ただ、正面に伸びる廊下を見据えたまま、静かに口を開く。
「……ヴェルナーよ。余が魔界を離れた後は、頼むぞ」
「…………」
返事を待つこともなく、フェンリルは再び歩き出した。
角を曲がり、その黒い背中が第七窓口の向こうへ消えていくまで、ヴェルナーはその場から動かなかった。
やがて乱暴に赤い髪を掻き上げ、深く息を吐きながら天井を仰ぐと、荘厳な天井画に描かれた天使と、ふと目が合った。慈愛に満ちた微笑みを向けてくる天使を、しばらく無言で見つめ返す。
「……ったく。世話が焼けるな」
そう零した口元には、呆れとも諦めともつかない、ごく薄い笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
第七窓口へ辿り着いたフェンリルは、配属転換の申請書を受け取るため受付へ向かった。しかし、窓口には見覚えのある後ろ姿があり、周囲の職員たちは早くも辟易した様子でその男を遠巻きに眺めていた。
「なあ、頼むって! いい加減俺を勇者にアサインしてくれ! 動画配信で『勇者と旅する猫様』っていうネタでバズり散らかしてえんだよ!!」
「お客様。大変恐縮ですが、私的な目的のために当局が配属決定をすることは、規約違反となりますので……」
受付嬢を相手に必死に食い下がっているのは、以前にもこの窓口で騒動を起こしていた無双おじさんだった。
今日も身体にぴったりと張りついた『下僕』のシャツを着込み、腰には自慢の『はがねのつるぎ』。猫好きを売りにするための努力だけは、どうやら今も怠っていないらしい。
「いつまでも古臭い決まりで俺たちを縛り付けんなよ! バズっちまえば、あとは視聴者からのスパチャで食っていけるんだ! なぁ、頼むって!!」
受付嬢は業務用の笑顔を保とうとしているものの、その口元は引き攣り、手元の書類を握る指にも疲労が滲んでいた。周囲の職員たちも、また始まったと言わんばかりに冷めた眼差しを向けている。
そんな騒ぎを横目に、フェンリルは空いていた記入台から申請書を一枚取り、羽根ペンを走らせた。以前なら迷うことなく『勇者』と書き込んでいた希望配属先の欄にも、今はまるで躊躇いがない。必要事項を埋め終えると、書類を手に受付へと向かう。
「配属転換を希望する」
「は、はい。確認いたします」
ようやく無双おじさんの相手から解放された受付嬢は、受け取った書類へ目を通した。ところが希望配属先の欄を認めた途端、不思議そうに顔を上げる。
灰色の髪に、高等魔族特有の角。整った顔立ちには、相変わらず魔王としての威厳が色濃く残っている。
「……『村の青年A』のご希望ですね。配置転換にあたり、外観に変化が起こる可能性がございますが、ご了承いただけますでしょうか」
「うむ。構わぬ」
「かしこまりました。現在の空き状況を確認いたしますので、お待ちくださいませ」
受付嬢が奥へ引っ込むのを見届け、フェンリルは窓際の長椅子へ腰を下ろした。すると、先ほどまで受付に詰め寄っていた無双おじさんが、不服そうな顔で隣へやって来た。
「おいおい、ちょっと待てよ! なんでそっちの兄ちゃんは、そんな簡単に申請できるんだよ! 俺なんか何度申請しても不採用だぞ! 勇者になって猫と旅して、その動画で一発当てようっていう、ちゃんとした計画もあるのによ!」
「……ふむ」
フェンリルは男の姿を上から下まで眺め、やがて顎へ手を添えた。
「主の志には、一理ある。しかし、事業計画としては甚だ甘い」
「……は?」
「一過性の話題性に収益を依存するなど、経営者として感心できぬ。そもそも、勇者となることと動画配信で成功することは、必ずしも同義ではあるまい」
「い、いや、でもバズれば──」
「だが」
フェンリルはおじさんの反論を遮ると、何かを閃いたように目を輝かせた。
「既存の勇者像に囚われず、新たな収益構造を模索するその発想。実に素晴らしい」
「……お、おう?」
「主のような柔軟な考えを持つ者こそ、むしろ魔界に相応しい」
突然の言葉に、おじさんが目を丸くする。
「……魔界?」
「うむ。余が長年統治してきた魔界では、種族の垣根を越えた人材登用を積極的に行っておる。主ほどの向上心と発想力があれば、魔界において存分にその才を発揮できよう」
フェンリルは自信に満ちた笑みを浮かべ、さらに言葉を続けた。
「余の配下には、優秀な四天王がいる。彼らの指導を受ければ、主もいずれ立派な魔族として成長できるはずだ。何なら、余が直々に推薦状を書いてやろう。どうだ?」
「ちょ、ちょっと待て! 俺、人間だぞ!?」
「案ずるな。魔界の採用制度において、出自は重要ではない。必要なのは、組織に貢献する意欲と柔軟な発想力だ」
「いや、そういう問題じゃねえだろ!?」
勇者として魔王を倒すつもりだった男が、なぜか魔王軍への就職を勧められている。しかも目の前の男は、冗談などではなく、本気で自分を推薦するつもりらしい。
無双おじさんはフェンリルの表情をしばらく窺っていたが、やがて何かを思いついたように身を乗り出した。
「……ちなみに、魔界って給料いいのか?」
「無論だ。福利厚生も充実しておる。キャリアクエストにおける総合評価は4.8、働きたい異世界ランキング三年連続首位だぞ」
「……マジで?」
途端におじさんの態度が変わった。あれほど勇者へのこだわりを見せていた男が、今ではフェンリルの話に興味津々といった様子である。
「……猫、連れてっていい?」
「無論。使い魔として登録すれば、扶養手当の対象にもなろう。使い魔との同居可能物件も、敷金・礼金は不要だ。更新料も発生せぬ。地震や火災についても、魔界では日常的に発生する災害ゆえ、保険料は全額組織負担としている」
「……え、何それ。めっちゃホワイトじゃん」
その一言を聞いた途端、フェンリルの口元に満足げな笑みが浮かんだ。椅子の背へゆったりと身体を預け、誇らしげに胸を張る。
「当然であろう。余が数百年の歳月をかけて築き上げた魔界の労働環境を、侮ってもらっては困る。従業員満足度の向上なくして、組織の繁栄などあり得ぬからな」
数百年にわたって組織改革を推し進めてきた経営者としての自負が、その堂々たる佇まいから滲み出ている。フローラを前に黒い蒸気を噴き出していた男と同一人物とは、とても思えなかった。
「……なあ、魔界って今、人手足りてる?」
「優秀な人材であれば、いつでも歓迎するぞ」
「……魔界、ちょっとアリかもしれねえな」
おじさんは顎に手を当ててしばらく考え込むと、受付嬢から新たな申請書を受け取った。その姿を満足そうに見届け、フェンリルは深く頷く。
「うむ。主の新たな挑戦を、余は歓迎しよう」
「フェンリル・エクリプス様」
受付の奥から名前を呼ばれ、フェンリルは長椅子から立ち上がった。
「お待たせいたしました。ご希望の『村の青年A』につきまして、現在一枠の空きが確認できましたので、正式に配属転換のお手続きを進めさせていただきます」
「うむ。頼む」
「なお、配属後は既存のシナリオに支障をきたさぬよう、役割の範囲内で生活していただくことになります。魔王としての権限や能力も、原則として行使できなくなりますが、よろしいでしょうか」
「承知しておる」
フェンリルは差し出された書類へ素早く目を通すと、所定の欄に署名を記した。受付嬢が契約内容を改めて確認し、書類を丁寧に揃えて印章を押すと、乾いた音が窓口に響いた。
──配属決定。
「おめでとうございます。これより、村の青年Aとしての新たな人生が始まります」
受付嬢から返された書類には、何度も目にしてきた『不採用』ではなく、『配属決定』の文字が刻まれている。
かつて魔界の玉座に座り、幾多の勇者を迎え撃ってきた男が、今は一枚の書類を前に、これまでとはまったく異なる人生を歩み始めようとしていた。
何百回と申請を繰り返してきた勇者の座ではない。物語の中心に立つことも、世界を救う英雄として称えられることもない、ごくありふれた村の青年という役である。
それでもフェンリルの胸には、落胆よりも、これから始まる暮らしへの期待が大きく膨らんでいた。
「……世話になったな」
受付嬢へ丁寧に一礼すると、フェンリルは書類を手に窓口を後にした。高い窓から差し込む陽光が磨き上げられた床を白く照らし、その上を職員や転職希望者たちが忙しなく行き交っている。
彼らの間を抜けながら、フェンリルの頭には、これから暮らすことになる辺境の小さな村の光景が浮かんでいた。
まずは住む場所を探し、それから仕事を見つける。魔王として数百年も組織を統治してきた経験があれば、村の仕事など造作もないはずだ。仕事を終えた後はあの酒場へ足を運び、フローラが忙しなく働く姿を眺めながら、ゆっくりと葡萄酒でも楽しもう。
扉を開ければ、彼女はきっといつものように客の間を行き来しているだろう。呼び止められれば振り返り、注文を聞き、時には呆れたような顔で誰かをたしなめる。そんな何気ない光景の中に、自分も一人の客として加わることができる。
その未来を思い描いた途端、フェンリルの口元が自然と綻んだ。
「……ふ」
次に酒場を訪れた時には、彼女は自分のことを覚えていてくれるだろうか。あの青い瞳が自分を捉え、名前を呼んでくれたなら──そんなことを考えているうちに、頬へじわじわと熱が集まり始める。
フェンリルは慌てて口元を引き締めたが、胸の内で膨らんでいく期待までは抑えきれなかった。
勇者になることを夢見て、何度もこの編纂局へ足を運んだ。けれど今、彼が思い描いているのは、世界を救う英雄としての未来ではない。
ただ、一人の少女が働く酒場へ、何の気兼ねもなく足を運べる日々だった。




