Record: 08:何者になるか、ではなく
編纂局の片隅。
すでに大半の職員が帰宅した執務室には、書類をめくる音も、窓口から聞こえていた騒がしい声もない。天井から吊るされた古びた照明だけが、等間隔に並ぶ机を淡く照らしていた。
その一角で、フェンリルは与えられた小さなデスクに向かい、始末書を書き進めていた。ペン先が紙を擦る音だけが、静まり返った室内に響いている。
規定外のスキル使用。配属先のシナリオへの無断介入。本来登場するはずだった冒険者の役割を奪い、物語の進行に混乱を生じさせたこと。
書面へ記すべき内容は、いくらでもあった。
しかし、文字を書き連ねるたび、脳裏に浮かぶのは規則違反の事実よりも、今日一日の出来事だった。
早朝から服を選び、贈り物を用意し、慣れない酒場へ足を運んだ。フローラに名前を覚えられていなかった時の衝撃も、席を勧められた時の喜びも、今となっては遠い出来事のように感じられる。
あれほど胸を高鳴らせた一日だったはずなのに、振り返ってみれば、自分の姿ばかりがひどく滑稽に思えた。
「余は……自分の気持ちを貫くことばかりで、フローラの気持ちを蔑ろにしていたな」
フェンリルはペンを止め、書きかけの始末書へ目を落とした。
思えば、最初からそうだった。
面接の時も、フローラが望んでいた『村の酒場の女A』という役を認めようとせず、より華々しい役へ進むべきだと、自分の価値観を一方的に押しつけた。そして今日もまた、彼女が与えられた役割を果たそうとしていたにもかかわらず、その場面へ割って入り、自分の感情を優先した。
山賊に掴まれた彼女の手首。
耳に飛び込んできた悲鳴。
あの瞬間、考えるより先に身体が動いていた。
守りたいと思った。彼女が傷つくところなど、見たくなかった。
けれど結果として、自分が守ったはずの少女から、彼女自身が果たすはずだった役目を奪ってしまった。
「……目の前の少女すら救えず、何が勇者なのだ」
吐き出した言葉は、誰もいない机の上へ静かに落ちた。
フェンリルはしばらく身じろぎひとつせず、やがて手にしていたペンをそっと置いた。
勇者とは何なのだろう。
聖剣を携え、仲間と旅をし、世界を救う。人々から称えられ、その名を伝説として後世に残す。そうした華々しい生き方に憧れ、幾度となく配属転換の申請を繰り返してきた。
しかし今、目を閉じて思い浮かべるのは、聖剣でも、勇者として称えられる自分の姿でもない。
辺境の小さな酒場で、客の間を忙しなく行き来するフローラの笑顔だった。
「フェンリル様。……大丈夫ですか?」
背後から聞こえた声に、フェンリルはゆっくりと顔を上げた。
いつの間に来ていたのか、ヴェルナーが少し離れた場所に立っている。彼は机に積まれた書類と、書きかけの始末書を見比べると、近くの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「この程度で心が折れる余ではない。しかし、ヴェルナーよ。今になって、分からなくなった」
「何がっスか?」
「余は……勇者という職業の、何に憧れていたのだろうか」
ヴェルナーはすぐには答えず、眠たげな目を僅かに細めた。
「……世界を平和に導くとか、人々に感謝されるとか。そういうのじゃないっスか?」
「そうなのだろうな」
フェンリルは椅子の背へ身体を預け、天井を見上げた。
「我々は創作者の描いたシナリオに沿って動かされ、その中で善悪すら決められる。魔王として生み出された余は悪を担い、勇者として生み出された者は正義を担う」
天井の照明が、淡くその横顔を照らしていた。
「だが、余は今日、初めて考えたのだ。……この世界に生み出された一人の存在として、余自身は何を望み、何を成したいのか、と」
ヴェルナーは机に肘をつき、黙って主の言葉を聞いていた。いつものように軽口を叩くことも、無理に励ますこともしない。
「ヴェルナーよ。主は、今の生き方の先に何を求めている」
「……そんなこと、考えたこともないですよ。言ったじゃないスか」
ヴェルナーは肩を竦め、ほんの少しだけ口角を上げた。
「俺は、波に呑まれず、波に乗る。そういう生き方が合ってるんです。何かを求めたり、探したり、肩肘張って生きるのは御免です」
「……虚しくならないのか」
「求めて、手に入らなかった時の方が、よっぽど虚しいでしょう」
あまりにあっさり返され、フェンリルは僅かに眉を寄せた。
「……主は、いつもそうだな」
「何がっスか?」
「余とは、まるで違うものの見方をする」
ヴェルナーは小さく笑った。
「そりゃ、俺とアンタは別人ですからね。全員がフェンリル様みたいだったら、魔界なんて一週間で改革案に埋もれちまいますよ」
「……それほどか」
「それほどっス」
フェンリルは思わず口元を綻ばせたが、ヴェルナーは特に気にした様子もなく、机の上に置かれた書類を一枚手に取った。
「まあ、今いる場所でそれなりに面白いことを見つけて、生きていけりゃ十分ですよ。俺は魔界でアンタの側近やってるの、嫌いじゃないですし」
「……そうか」
フェンリルはヴェルナーの横顔をしばらく眺め、やがて深く頷いた。
「主が長年、余の側近であり続けてくれたこと。感謝するぞ、ヴェルナー」
「やめてくださいよ、フェンリル様。むず痒くて仕方ねえ」
ヴェルナーは照れ隠しのように鼻を鳴らすと、手にしていた書類を机へ戻した。フェンリルも小さく笑い、止まっていたペンを取り上げる。
執務室には再び紙を擦る音が響き始めたが、先ほどまでの重苦しい沈黙とは、どこか違っていた。
ヴェルナーはその様子をしばらく見守った後、椅子から立ち上がる。
「じゃ、俺は先に帰りますよ。あんま根詰めすぎないでくださいね」
「うむ。主もゆっくり休むがよい」
扉が閉まる音を聞き届け、フェンリルは始末書の続きを書き進めた。
窓の外では夜が深まり、執務室の照明が一つ、また一つと落とされていく。それでも彼は、最後の一文字まで丁寧に書き終え、署名を記すと、ようやくペンを置いた。
◇◇◇
翌朝。
フェンリルは予想していた通り、朝一番で局長室へ呼び出された。
重厚な扉の向こうでは、部屋の主であるレオンハルトが、相変わらず穏やかな微笑みを湛えながら葉巻を燻らせている。
昨夜あれほど悩みながら書き上げた始末書は、すでに彼の机の上へ置かれていた。
「局長よ。其方が言いたいことは承知している」
「ふむ。私はまだ何も言っていないが」
少し離れた場所では、付き添いでやって来たヴェルナーが壁際に控え、二人のやり取りを黙って見守っていた。
「始末書は読んだよ」
「……申し訳ない」
「で、君は何を学んだ?」
叱責でも、失望でもない。いつもと変わらぬ穏やかな声だった。
フェンリルは膝の上に置いた両手を一度握り締め、正面からレオンハルトを見返した。
「余には、勇者としての適性がない」
「ふむ」
「……此度の一件で、ようやく分かった。余が求めていたものは、勇者という肩書きそのものではなかったのだ」
レオンハルトは何も答えず、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
部屋の隅に置かれた蓄音機へ歩み寄り、慣れた手つきで針を落とす。やがて静かな旋律が室内へ流れ始めると、彼はその音に耳を傾けながら、どこか懐かしそうに目を細めた。
「以前、勇者として生み出されながら、その勇者という席を自ら蹴った男がいてね」
「……何故だ」
「彼にとって、勇者であることより、自分であることの方が大事だったからだよ」
フェンリルは顔を上げ、レオンハルトを見つめた。
「……その男は、どうなった」
「さあね。今頃、どこかで自分の物語を生きているのではないかな」
レオンハルトは穏やかに微笑んだ。
「君も今回、それを感じたのではないかね?」
「……余は、勇者になることが夢であった。しかし今、その夢を抱いた理由が分からなくなっている」
フェンリルは自分の膝元へ目を落とし、暫く沈黙した。
魔王として生み出され、幾度となく勇者と対峙してきた。敵として相まみえるたびに、彼らが手にしている聖剣や、仲間たちとともに歩む姿を羨ましく思っていた。
けれど今は、同じ未来を思い描こうとしても、どうしても別の光景が浮かんでしまう。
「……余は、勇者でなくともよいのだろうか」
その問いに、レオンハルトは静かに笑った。
「それを私に聞くのかね?」
「…………」
フェンリルは言葉を詰まらせた。
レオンハルトは蓄音機の傍らに立ったまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「適性というものは、君が何に向いているかを示すことはできる。だが――君が何を望んで生きるかまでは、決めてくれないよ」
フェンリルは俯いたまま、その言葉を聞いていた。
蓄音機から流れる旋律が一節を終え、次の旋律へ移る。レオンハルトはそれ以上語ることなく、葉巻の煙を静かに吐き出した。
「さて。フェンリル君」
「……何だ」
「君はこれから、どうしたい?」
その問いを受け、フェンリルは目を閉じた。
浮かんだのは、辺境の小さな酒場だった。
窓から差し込む陽光の中、フローラがジョッキを抱え、忙しなく客の間を行き来している。誰かに呼ばれれば振り返り、時には呆れた顔で客をたしなめ、それでも楽しそうに笑っている。
その光景の片隅に、自分の姿があった。
聖剣も、王冠もない。誰から称えられるわけでもなく、ただ彼女のいる場所で、穏やかな時間を過ごしている。
フェンリルはゆっくりと瞳を開いた。
「局長よ。余は、面接官を経験して気付いたことがある」
「ふむ。何かね?」
「物語を形成するのは、勇者やヒロインといった花形だけではない。荒くれも、酒場の店主も……そこで働く女も。様々な登場人物がいてこそ、ひとつの世界は成り立つ」
面接室で自分に怒鳴り返した荒くれの顔が浮かぶ。
あの男は、自分が望む暮らしを選んでいた。少なくとも、フェンリルが思い描く勇者の人生を羨んではいなかった。
続いて思い出したのは、「そんな肩書き、興味ない」と言い切ったフローラの姿だった。
「……余は、あの者たちの言葉に耳を傾けようともせず、自分の考えを押しつけていたのだな」
フェンリルは僅かに苦笑した。
「魔界の経営者ともあろう者が、こんなことにも気付かずにいたとは。情けないことだ」
レオンハルトはその言葉を聞き、満足そうに頷いた。しかし、もう助言を重ねることはなかった。
フェンリルはしばらく黙っていたが、やがて背筋を伸ばし、真っ直ぐにレオンハルトを見据えた。
「……局長よ」
「何かね?」
フェンリルは一度だけ息を吸い込んだ。
「村の青年という役に、空きはあるか」




