Record: 07:守ったものと、奪ったもの
フェンリルは、酒場を忙しなく行き来するフローラの姿をじっと目で追っていた。
客に呼ばれて振り返る仕草も、注文を聞きながら浮かべる笑顔も、その変化ひとつとして見逃すまいと、アメジスト色の瞳が彼女を追い続けている。
かつて魔族の頂点に立ち、数多の勇者から畏怖されてきた男が、今では一人の女の何気ない仕草に胸を躍らせている。
少し離れた席に座るヴェルナーは、そんな主の変わり果てた姿を複雑な面持ちで見守っていた。
フローラの笑顔に惹かれているのは、フェンリルだけではない。彼女目当ての客から次々と注文が入り、店内を行き交う酒や料理の数は目に見えて増えていた。
その様子を眺めていたフェンリルも、ふと何かを思いついたように顔を上げる。
「フ、フローラ! 余も、注文をするぞ!」
「はーい」
呼び止められたフローラは、他の客にするのと何ら変わらない調子でフェンリルのもとへやって来た。
「何にする?」
「…………っ」
フローラがの、大きな青い瞳が、自分だけを見ている。
ただそれだけでフェンリルの顔は見る見るうちに紅潮し、頭上からは再び黒い蒸気がシュウシュウと音を立てて漏れ始めた。
「あ、あのっ……!」
全身から汗を流し、何度も口を開いては閉じる。そんな主の姿を、ヴェルナーは固唾を呑んで見守っていた。
やがてフェンリルは意を決し、腹の底から声を絞り出した。
「に、人魚の、生き血を、頼む!!」
「……は?」
フェンリルの背後で、ヴェルナーが椅子から転げ落ちる鈍い音がした。
二人きりで交わす最初のまともな会話。恋愛小説であれば、読者が最も胸を高鳴らせる場面のひとつである。
しかしフェンリルの口から飛び出したのは、甘い言葉でも気の利いた冗談でもなく、あまりにも物騒な一言だった。
一瞬、周囲の空気まで凍りつく。
「……そんな物騒なもの、あるわけないでしょ? もっと普通のにしてよ」
「ふ、普通とは……!?」
「アンタ、ここに何しに来たの?」
フローラは少し機嫌を損ねたように、ぷくりと口を尖らせた。
しかしフェンリルにとっては、その仕草すら愛らしく見えてしまうらしい。頭上から立ち昇っていた黒い蒸気は、むしろ勢いを増していた。
そんな主を見かねたヴェルナーが、背後からそっと身を寄せる。
(フェンリル様! とりあえず葡萄酒!)
その囁きに、フェンリルの目が見開かれた。
「ぶ、葡萄酒を頼む!」
「赤? 白?」
「赤だ!」
今度こそ無事に注文が通り、フローラは小さく肩を竦めながらカウンターの奥へと戻っていく。やがて彼女は、赤い葡萄酒の注がれたグラスを片手に、再びフェンリルの前へ戻ってきた。
「はい。他に注文は? つまみとか」
「そ、そうだな。では、フローラに任せても良いだろうか」
「いいけど。お金は払ってよね」
「もちろんだ! フローラが選ぶのであれば、幾らでもかまわん!」
妙に力強く言い切るフェンリルの姿は、もはや職場を視察する面接官というより、推しに貢ぐことへ一切の迷いを持たない、熱心な廃課金オタクそのものである。
少し離れた席では、ヴェルナーが無言で額を押さえていた。
「はい。これ、今日の前菜ね。タパスの盛り合わせ」
「お、おおお……! こ、これがフローラの手料理か!?」
「え、違う。盛り付けただけ」
目の前に並べられた料理を前に、フェンリルはそれでも感動を損なうことなく目を輝かせた。
深紅の葡萄酒をひと口煽り、その勢いのまま、皿の上に並んだ一品へ手を伸ばす。
しかし、その瞬間、何かを察したヴェルナーが、勢いよく椅子から立ち上がる。
「ちょ……っ、フェンリル様、待った!」
制止はわずかに遅かった。
フェンリルはすでに料理を口いっぱいに頬張っている。
次の瞬間、満足げだった表情が硬直し、見る見るうちにその顔から血の気が引いていった。
「ぐ、お……っ! ガハッ!!」
「フェンリル様! それ、ガーリックトースト! ニンニク!!」
慌てて駆け寄ろうとしたヴェルナーを、フェンリルが鋭い眼差しで制した。
「……ヴェルナーよ。これは、おそらくフローラによる試練だ。余の気持ちがニンニクに打ち勝てるか否か。……余の愛の力が試されている」
「いや、ちげーよ!!」
口元からは、先ほど煽った葡萄酒が赤い筋となって滴っている。銀髪に角、漆黒の衣装、そこへ深紅の液体まで加わった姿は、まるで生き血を啜った魔族そのものだった。
「え? 何? アンタ、ニンニク駄目なの? 嫌いなら最初に言ってよ」
「き、嫌いというか……種族的にだな……」
フェンリルが何とか体勢を立て直そうとした、その時だった。
酒場の入口で、扉が荒々しく蹴り開けられる音が響いた。
店内のざわめきが一瞬にして止まり、客たちが一斉に振り返る。そこに立っていたのは、すでに相当な量の酒を煽ってきたのか、頬を赤く染め、足取りも覚束ない山賊風の男たちだった。
「おうおう、なんだか盛り上がってるじゃねえか。俺たちも混ぜてくれよ」
酒場の主人が顔を強張らせながら、慌てて彼らのもとへ駆け寄る。
「お、お客さん、困りますよぉ。騒ぎを起こされちゃ……」
「うるせえ! これ以上騒がれたくなかったら、有り金全部寄越しな!」
ドカドカと酒場へ乱入した山賊たちは、真っ先にカウンター席へ目を向けた。
そこには、見るからに仕立ての良い黒衣を纏い、銀灰色の髪を揺らす男が一人。身なりだけ見れば、金を持っていそうだと判断するのも無理はない。
「よお、そこのキザな兄ちゃん! ずいぶん身なりがいいじゃねえか! テメェが持ってる金、全部寄越しな!」
威勢よくフェンリルを煽る山賊。
もちろん、これは与えられた役に沿った演技である。
しかし、当のフェンリルは山賊の存在などまるで意に介していなかった。
「ぐ、おおお……!」
青ざめた顔で俯き、目の前のガーリックトーストと命懸けで向き合っている。
「だから言わんこっちゃない! 無理なもんは無理なんだから!」
隣ではヴェルナーが、半ば呆れながら主の背中をさすっていた。
「おい、テメェら! この俺様を無視すんじゃねえ!!」
これでもかというほど大声を張り上げても、なお相手にされない。とうとう山賊のこめかみに青筋が浮かび、腰に携えていた巨大なサーベルへ手が伸びる。
「聞いてんのか、この野郎!」
鞘から引き抜かれた刃が鈍く光った、その時だった。
「ちょっと!」
見かねたフローラが、カウンターの奥から声を上げた。
「アンタ達! いきなり入ってきてなんなのよ! 暴れるなら出て行って!」
フローラは、与えられた役──『村の酒場の女A』を忠実にこなしていた。そして、向かい合う山賊もまた、自らに与えられた役を完璧に遂行する。
「何だとぉ? 女! 俺様に楯突くか!?」
荒々しく声を張り上げると、その大きな手がフローラの華奢な手首を掴んだ。
「きゃああっ!!」
その悲鳴が耳に届いた瞬間、フェンリルの中で何かが切り替わった。
「……その手を離せ。この、愚物が!!」
次の瞬間には、ニンニク相手に死にかけていた男の姿はどこにもなかった。
フェンリルは一息で間合いを詰めると、細身の体格からは想像もつかない力で山賊の胸ぐらを掴み上げ、そのまま軽々と宙へ持ち上げた。
「ぐえっ……! ちょ、待て! 俺、シナリオ通りにやってるだけ……!!」
悲鳴混じりの弁明が、静まり返った酒場に虚しく響いた。
「フェンリル様、ちょ、待てって!! ここでスキル使っちゃ……!!」
「問答無用!!」
ヴェルナーの制止など耳に入っていない。
フェンリルのアメジスト色の瞳が怪しく光り、掴み上げられた山賊の身体を黒紫の光が包み込む。
「ぎゃああぁぁ!! 何でだあああ!!」
次の瞬間、山賊の姿は悲鳴ごとその場から掻き消え、異空間の彼方へと弾き飛ばされていた。
「ひ、ひいぃっ!! なんかシナリオと違うぞ!!」
「逃げろ!! こいつヤベえ!!」
残された山賊たちは一斉に顔色を変えると、蜘蛛の子を散らすように酒場から逃げ出していった。
あとには倒れた椅子と散乱したジョッキ、そして何事もなかったかのように静まり返る酒場だけが残された。
「……フローラよ。怪我はないか」
「あ……えっと」
通常であれば、ここで助けられた娘と、それを救った者との間に、少しくらいロマンチックな空気が流れてもよさそうなものだった。
しかし現実は、そんな甘い展開を許してはくれない。
当初のシナリオを完全に無視し、さらには使用を禁じられていたスキルまで発動させたフェンリルの暴挙に、ついにヴェルナーの堪忍袋の緒が切れた。
「フェンリル様! アンタ、いい加減にしろ!」
「……ヴェルナーよ。分かっておる」
フェンリルは静かに目を伏せた。
「禁忌とされたスキルを使い、シナリオを捻じ曲げた。全ての責任は、余にある」
「ちょ、ちょっと……フェンリル様」
「ヴェルナーよ。後は頼む」
それだけ言うと、フェンリルは乱れた黒衣を整え、ゆっくりと酒場の出口へ向かって歩き出した。
「……余は編纂局へ戻り、始末書を書いてくる」
トボトボと酒場を後にするフェンリルの背中を見送り、ヴェルナーは小さく溜息を吐いた。そして、いまだ状況を呑み込めずにいるフローラへと向き直る。
「すまねえな。アンタの役どころ、潰しちまって」
「……何なの、アイツ」
フローラは閉じかけた扉の向こうを見つめながら、呆れたように呟いた。
「……魔王様っスよ」
「は? アイツが?」
「ま、ここじゃアンタに惚れただけの、ポンコツ童貞だったけどな」
「…………」
ヴェルナーは少しだけ苦笑すると、フェンリルが消えていった扉へ目を向けた。
「でも、あの人なりに真剣だったんだぜ」
フローラはそれ以上何も言わず、散らかった店内を見渡した。倒れた椅子を起こし、床に転がったジョッキを拾い上げてから、先ほどまでフェンリルが座っていた席へ向かう。
そこで、椅子の脇に置かれた小さな黒い箱に気づいた。
「……何これ」
手に取って蓋を開けると、黒いベルベットの上に、一つの指輪が収められていた。
漆黒の台座には禍々しい紋様が刻まれ、中央には血のように赤い宝石が嵌め込まれている。その奥では、得体の知れない何かが、ゆっくりと蠢いていた。
どう見ても、触れてはいけない類の代物である。
「…………」
フローラは無言で蓋を閉じた。
そして何事もなかったかのように箱をカウンターの隅へ押しやると、次の客の注文を取りに戻っていった。
ヴェルナーもその様子を見届け、主の後を追うように酒場を後にした。
◇◇◇
「……余の想いは、ひとりよがりだったのか……」
編纂局へ戻るフェンリルの足取りは、どこまでも重かった。
人事評価の暴落は、もはや避けられない。それ以上に堪えているのは、自分の暴走によって、フローラが与えられていた役どころそのものを奪ってしまったことだった。
「守りたいと思っただけなのだがな……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その足元では、フェンリルの沈みに呼応するように草が萎れ、土からゆっくりと色が失われていった。




