Record: 06:職場訪問に私情はありません
フェンリルが統治する魔界に聳える、魔王の城。
玉座の間の奥に設けられた広大な衣装部屋には、フェンリルがこれまで数多の物語で勇者を迎え撃つために纏ってきた衣装が、壁一面に整然と並べられている。
その衣装部屋では早朝から、地の底から響くような低い唸り声が幾度となく轟き、静まり返った城内を不穏に震わせていた。
「…………いや。やはり、こちらの配色が適切であろうか」
唸り声の主は、紛れもなくこの城の主、フェンリル・エクリプスである。
巨大な姿見の前には、すでに何着もの衣装が持ち出されていた。その中心でフェンリルは一着を身体に合わせては首を傾げ、また別の一着へ手を伸ばすという行為を、飽きることなく繰り返している。
「こちらの濡羽色か? いや、しかし、この黒橡も捨てがたい……」
いつまで経っても鳴り止まない地響きに叩き起こされたのか、側近であるヴェルナー・インフェルノが、眠たい目をこすりながら衣装部屋へ足を踏み入れた。
「……フェンリル様。朝っぱらから何やってんスか?」
「おお……っ! いいところに来てくれた、ヴェルナー! これを見よ!」
ヴェルナーの姿を認めた途端、フェンリルは水を得た魚のように勢いを取り戻して振り返った。その両手には、それぞれ一着ずつ、仕立ての良い衣装が掲げられている。
「……忌憚のない意見をくれぬか」
「はあ……」
「この二着……どちらが酒場に相応しい?」
いまだ状況を呑み込めないまま、ヴェルナーはフェンリルの右手に掲げられた衣装へ目を向け、続いて左手を見る。眠気の残る目を細めながら見比べてみたものの、彼にはそこまで大きな違いがあるようには思えなかった。
「どっちも黒っスよ」
「そうではない!!」
フェンリルの一喝が衣装部屋いっぱいに響き渡り、ヴェルナーの眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「こちらは濡羽色! 深みのある艶によって落ち着いた気品を演出できる。一方、こちらの黒橡は僅かに褐色を含んでいるがゆえ、濡羽色より柔らかな印象を与えられるのだ!」
「んなモン、知らねえっスよ……」
どうでもよさそうに返され、フェンリルの眉間に深い皺が刻まれる。これほど重大な問題を前にして、なぜこの男はこうも無関心でいられるのか。理解できないと言わんばかりに鋭い牙を覗かせ、二着の衣装を握り締めた。
「今日は初めての職場訪問であるぞ! 失礼のないよう、それ相応の品格を持ち合わせた服装が必要であろう!」
「……ああ」
そこでようやく、ヴェルナーの思考回路が動き始めたらしい。
改めて二着の衣装へ目をやり、次いで、早朝から城中に地響きを轟かせるほど身なりに悩んでいる主の顔を見る。昨日の出来事を思い返せば、その理由など一つしかなかった。
「なるほど。フローラに会いに行くための服っスね」
「…………失敗は、決して許されぬ」
フェンリルは否定しなかった。
それどころか急に神妙な顔つきになると、二着の衣装を胸元へ引き寄せ、これから国家の存亡でも左右する重大な決断を下すかのように姿見へ向き直った。
「よいか、ヴェルナー。メラビアンの法則において、人間は情報が矛盾している際、声や話の内容よりも視覚から得られる情報に強く影響される。つまり服装もまた、余の品格を伝える上で決して軽視できぬ要素ということだ」
「いや、この間の最悪な面接で、もう一発で印象決まってるはずですよ」
滔々と続いていたフェンリルの口が止まった。
姿見の中で、魔族の頂点に君臨する麗しい顔が、見る見るうちに痛ましいほど歪んでいく。
「『うざい』って言われてましたし」
「…………ヴェルナーよ」
「何スか?」
「それ以上、余の古傷を抉るな……」
牙を剥いていた威勢はどこへやら、フェンリルは消え入りそうな声を漏らし、二着の衣装を抱えたまま肩を落とした。
巨大な姿見に映っているのは、数百年にわたり魔界の頂点へ君臨し、幾多の勇者を迎え撃ってきた最強魔王……のはずだった。ところが今、その面影は見る影もない。好きな女に会いに行くための服一枚すら決められず、途方に暮れる一人の青年が立っている。
「……フェンリル様」
ヴェルナーはそんな主の背中を眺めながら深い溜息を吐くと、諦めたように腰へ手を当てた。
昨日、初めて恋という感情を自覚したばかりなのだ。本人がどう取り繕おうと、数百年分の経験が一夜にして身につくはずもない。ここまで来てしまった以上、長年仕えてきた側近として放り出すわけにもいかなかった。
「分かりましたよ。早く服選んで、プレゼントも考えましょう」
「……プレゼント?」
肩を落としていたフェンリルが、ゆっくりと振り返る。
「女は贈り物に弱い。この間の最悪な印象も、それで多少は挽回できるかもしれません」
「…………!!」
フェンリルの紫紺の瞳が、見る見るうちに輝き始めた。
「……お、おおお……! なるほど、その手があったか!」
先ほどまでの落ち込みが嘘のように背筋を伸ばすと、二着の衣装を放り出さんばかりの勢いでヴェルナーへ詰め寄る。
「ヴェルナーよ、やはり主は頼りになる! では早速、フローラに相応しい贈り物を選定するとしよう!」
「はいはい。普通のでいいんスよ、普通ので」
「無論だ。余とてその程度の常識は弁えている」
胸を張って断言するフェンリルを前に、ヴェルナーは特に疑うこともなく頷いた。
──もっとも。
数百年にわたり魔界の頂点に君臨してきた男と、その側近が考える『普通』が、人間の娘にとっても同じ意味を持つとは限らない。
そのことに二人が気づくのは、もう少し後のことである。
◇◇◇
魔界から遠く離れた、人間界の辺境にある小さな村。
その中心部に建つ酒場では、昼間から多くの客が酒を酌み交わし、店内のあちこちから陽気な笑い声が響いていた。
「いらっしゃーい!」
賑わう店内を忙しなく行き来しているのは、先日の面接で見事『村の酒場の女A』の役を勝ち取ったフローラである。
片手にいくつもの木製ジョッキを抱え、空いた皿を回収しながら次の注文を聞いて回る。その手際は働き始めたばかりとは思えないほどよく、持ち前の人当たりの良さもあって、すでに客たちの視線を集めていた。
「姉ちゃんよぉ、最近働き始めたのか? ずいぶん良い女じゃねえか」
「はいはい。口動かしてないで飲んでくださいね。追加注文するなら聞きますけど?」
「おお、するする! 姉ちゃんが持ってきてくれるなら何杯でも頼むぜ!」
男たちが鼻の下を伸ばして笑うのを軽くあしらいながら、フローラは空になったジョッキを手際よく回収していく。
もっとも、今日のフローラには、ただ酒を運んで客をもてなすだけではない役目が与えられている。
この村を訪れる一行の冒険者が、旅の途中で情報を求めて酒場へ立ち寄ることになっていた。そこで彼らは、酔った山賊一味に絡まれている酒場の女を助ける。
助けられた女は礼として、冒険者たちが探している場所へ繋がる重要な情報と、物語を先へ進めるためのキーアイテムを手渡す──それが、この酒場に用意された今日のシナリオだった。
そして、その『酒場の女』こそがフローラである。
「……さて、と」
空になったジョッキをカウンターへ置き、フローラは店内を見渡した。あとは予定通り冒険者たちが現れ、自分に与えられた役目を果たせばいい。
本来ならば、それだけで終わるはずだった。
ギィ、と重たい扉が開いた。
フローラがいつもの調子で振り返る。
「いらっしゃ──」
言葉が止まった。
そこに立っていたのは、冒険者ではない。
濡羽色の衣装に身を包み、見るからに場違いなほど端正な身なりを整えたフェンリル・エクリプスが、異様に緊張した面持ちで立っていた。
「ご、ごご、ごきげんよう、フローラ!」
華麗に挨拶を交わし、用意してきた煌びやかな贈り物をさりげなく手渡す。そして余裕のある笑みとともに、自然な流れで席へ案内される。
酒場の扉を開く直前まで、フェンリルの頭の中では完璧なシミュレーションが出来上がっていた。
しかし、忙しなく店内を行き来していたフローラが足を止め、その青い瞳と目が合った瞬間、それらは跡形もなく吹き飛んだ。
「……誰だっけ」
「なっ!?」
フェンリルの顔から、一瞬にして血の気が引いた。思わず身を乗り出した拍子に、抱えていた贈り物がずるりと腕から滑り落ちそうになり、慌てて抱え直す。
彼にとって、あの面接は運命の出会いだった。しかし、フローラにとっては違う。
希望していた役へ配属されるために受けた、数ある選考のひとつ。しかも目の前の男は、そこで散々ヒロインになるよう勧めてきた、少々面倒な面接官に過ぎない。
「余を……余を忘れたと申すか!?」
「お客さんの顔なんて、いちいち覚えてないです」
「面接! 面接をしたであろう! 余はその面接官であるぞ!」
フローラは眉根を寄せたまま、記憶を辿るように視線を泳がせる。やがて何かに思い至ったらしく、その青い瞳が再びフェンリルを捉えた。
「…………ああ」
フェンリルの表情がぱっと明るくなる。
「あの、うざい人」
「何故そこから思い出すのだ!?」
必死に食い下がるフェンリルをあしらうように、フローラは店の奥にあるカウンターの一角を指差した。
「本当に来たのね。そこ座って。突っ立ってると邪魔」
「…………!」
これ以上ないほどの、塩対応だった。
少し離れた場所で変装して控えていたヴェルナーも、あまりの扱われように、すっかり小さくなった主の背中へ同情の眼差しを送る。
ところが、ゆっくりと振り返ったその顔を見たヴェルナーは、一瞬言葉を失った。
頬は赤く染まり、紫紺の瞳はこれ以上ないほど輝いている。口元には抑えようとしても抑えきれない喜びが滲み、まるで主人から褒美をもらった犬のような顔で、ヴェルナーを見つめていた。
──見たか、ヴェルナー。
声に出さずとも、何を訴えているのかは嫌というほど伝わってくる。
「……よかったっスね」
ヴェルナーは、それだけ返した。
邪魔だから座れと言われただけなのだが、当のフェンリルにとっては違ったらしい。フローラに自ら席を勧められ、客として迎え入れてもらえた。その一点だけで、彼の中ではすでに都合のよい解釈が完成していた。
ヴェルナーは呆れたように肩を竦めながらも、どこか微笑ましそうに主の背中を見送った。
数百年を生きてきた最強魔王にとって、これは生まれて初めての恋である。
どうやら今のフェンリルには、フローラの傍にいられるというだけで、それ以上は何も必要ないらしい。




