Record: 05:恋心という名の『未知の適性』
フローラから容赦なく叩き落とされた二文字によって、フェンリルの心は跡形もなく粉砕されていた。
つい先ほどまで人材の適性やキャリア形成について熱弁を振るっていた男が、今は長机の向こうで魂を抜かれたように黙り込み、虚ろな目で一点を見つめている。
そんな上司を横目に、ヴェルナーは小さく溜息をついた。どうやらこのまま待っていても復旧する見込みはなさそうだと判断し、面接官補佐であるはずの彼が代わりに応募書類を手に取る。
「あー……えっと、フローラさん? 志望理由とか聞いていいっスかね?」
「理由、ですか?」
フローラは少し考えるように首を傾げたあと、自分自身を示すように軽く両手を広げた。
「私の見た目に釣られて酒場に男が集まるって設定、ファンタジーならあるあるですよね? 私、その辺の立ち位置が一番適役だと思ってるんで」
「なるほど。自分の容姿も含めて、客観的に自己分析した結果ってわけか」
「まあ、そんなところです」
ヴェルナーは納得したように頷き、書類へ何事かを書き込んでいく。
確かに、そこに上昇志向と呼べるものはない。しかし、すべての登場人物が物語の中心を目指す必要があるわけでもない。
主人公たちが立ち寄る酒場で客を迎え、その場に人を集め、時には何気ない会話から物語を動かす。そうした名もなき登場人物たちが世界に息づいているからこそ、主役たちの物語もまた輪郭を持つ。
少なくともヴェルナーには、フローラが何も考えずに楽な役を選んでいるようには見えなかった。
「途中で勇者とか旅人に助けられて、ちょっとチヤホヤされるくらいならいいですけど。運命に翻弄される役とか、囚われの美女とか、そういうの重いし」
フローラはまるで今日の夕食でも決めるかのような気軽さで、自身が思い描く今後のキャリアについて語っていく。その言葉を聞くうちに、魂を抜かれたように黙り込んでいたフェンリルの瞳へ、徐々に光が戻り始めた。
「し、しかし!」
ようやく復旧したかと思えば、フェンリルは勢いよく身を乗り出した。
「物語上、重要な役割を担えば、給与はより安定する。実績としても評価され、お主の今後のキャリアにも箔がつくであろう。それに……!」
「そんな肩書き、興味ないです」
フェンリルの口が、半端に開いたまま止まった。
勇者となり、仲間とともに世界を救い、やがて英雄としてその名を後世へ刻む。それこそがキャラクターとして華々しい人生を謳歌する方法だと、フェンリルは疑ったことすらなかった。
ところが目の前の少女は、そんなものには興味がないと言い切った。
「さっきから思ってたんですけど」
フローラはそんな彼の衝撃など気にも留めず、訝しげに眉を寄せる。
「アンタみたいな、人の話を聞かない面接官が、この編纂局で働いてていいんですか?」
「……っ、な、何だと……!?」
『うざい』に続き、今度は面接官としての資質そのものを真正面から否定され、フェンリルの顔が引き攣った。
「だって、そうでしょ。私は『酒場の女Aになりたい』って言ってるのに、さっきからアンタが話してるのって、アンタが私にやらせたい役のことばっかりじゃないですか」
「そ、それは……お主の将来を考えればこそ……」
「それを決めるの、私ですよね?」
「…………っ」
机の上に置かれたフェンリルの拳が、わなわなと震え始める。
隣で成り行きを見守っていたヴェルナーは、嫌な予感を覚えた。
フローラの言っていることは至極もっともなのだが、よりにもよって彼女は今、数百年にわたって魔界の頂点に君臨してきた男のプライドを、的確に一枚ずつ剥がしている。
「相手のことを理解しようとしない人事なんて、いない方がいいと思いますけど」
「あ、フローラさん。待って。それ以上は」
ヴェルナーが慌てて制止しようとした時には、すでに遅かった。
俯いたフェンリルの肩が、小刻みに震えている。やがてその身体から、抑えきれなくなった黒紫色の瘴気が、ゆらりと漏れ始めた。
「……フローラと申したか、その者」
地の底から響くような低い声に、ヴェルナーの背筋を冷たいものが走った。
フェンリルがゆっくりと顔を上げる。その表情からは狼狽も赤面も消え失せ、紫紺の瞳には、魔界を統べる王としての威厳が戻っていた。
「数百年にわたり魔界を統治し、改革を続けてきた余に、そのような発言をするとは……」
「フェンリル様、落ち着いてください。ここで暗黒魔法はさすがにヤバいですって」
ヴェルナーが慌てて身を乗り出す。
いつの間にか、編纂局の窓から差し込んでいた光が消えていた。
晴れ渡っていたはずの空は分厚い暗雲に覆われ、遠くでは低い雷鳴が轟き始めている。吹きつける風が急激に勢いを増し、壁に嵌め込まれたステンドグラスをカタカタと震わせた。
それでもフローラは怯える様子もなく、フェンリルを真っ直ぐに見返している。
「……余の面接官としての在り方を、根本から否定するというのか」
「フェンリル様。相手に悪気はないんですから、どうか抑えて──」
ヴェルナーがいつでも飛び出せるよう身構える。
その直後、フェンリルは静かに目を閉じ、大きく息を吐いた。
「…………完敗だ」
「は?」
ヴェルナーの間の抜けた声とともに、遠くで轟いていた雷鳴が止んだ。
「余の気づかなかった盲点を、臆することなく指摘するその胆力。……実に良い」
「……フェンリル様?」
空を覆っていた暗雲が嘘のように晴れていく中、フローラは呆気に取られた顔でフェンリルを見つめた。
『恋は盲目』という言葉があるが、今のフェンリルはまさにそれを体現している。
自らの非を認めたからなのか、それとも惚れた女に厳しい言葉を浴びせられたことさえ好意的に解釈し始めたのか。もはやヴェルナーにも判断がつかない。
フェンリルはそれ以上何も語らず、書類へ目を落とす。そして迷うことなく採用の印章を手に取ると、荒くれ志望へ押したものとは正反対の二文字を、力強く押しつけた。
──採用。
「フローラよ」
「何ですか?」
「これから配属される酒場なのだが……」
そこでなぜか、フェンリルの声が急に小さくなった。
数百年にわたる魔界統治の実績を堂々と語っていた男が、わずかに目を泳がせ、落ち着かない様子で指先を組み直す。
「その……余も、たまに顔を出してよいか?」
突然の申し出に、フローラが怪訝そうに眉根を寄せた。
「……アンタが?」
「む、無論、私的な理由ではない!」
聞かれてもいないのに、フェンリルは即座に否定する。
「お、お主のような女子が、酒場という場所でどのように客と接し、物語へ関わっていくのか。余は、お主を採用した面接官として、その後の働きぶりを継続的に評価する必要がある!」
もっともらしく弁明してはいるものの、その私情は隠すどころか盛大に漏れ出していた。相変わらず照れが収まらないのか、フェンリルの頭上では黒い蒸気がシュウシュウと音を立てながら立ち昇っている。
「……まあ、客として来るなら別にいいですけど」
「ほ、本当か!?」
「酒場なんだから、来る客を断る理由もないでしょ」
「う、うむ。そうであるな。当然だ」
努めて冷静に頷いてみせるものの、緩みかけた口元までは隠しきれていない。
やがて採用通知を受け取ったフローラが面接室を後にし、扉が閉まる。その姿が完全に見えなくなってからも、フェンリルはしばらく同じ方向を見つめ続けていた。
「……フェンリル様」
「何だ」
ヴェルナーは呆れ果てた顔で、いまだ頬を赤く染めている上司を見下ろした。
「業務に私情は禁物っスよ。コンプライアンスに抵触します」
「ヴェルナー、よく聞け」
フェンリルはようやく扉から目を離すと、いかにも重大な話をするかのように表情を引き締めた。
「余は面接官として、物語へ配置されたキャラクターたちが、その世界できちんと職務を遂行しているか、確かめる必要がある」
「へえ」
「採用した人材が配属先で十分に能力を発揮できているか。何か困難を抱えてはいないか。必要であれば適切な支援を行う。それもまた、人事を預かる者の責務であろう」
もっともらしいことを述べてはいる。述べてはいるのだが、その目つきはどう見ても人材の将来を案じる面接官のものではない。
完全に、恋する青年のそれだった。
「まあ……俺たち魔族が恋愛しようが、それは確かに自由でいいと思いますけどね」
「れ、恋愛など、そのような下俗なものではない! これは面接官としての当然の責務であって……!」
フェンリルは即座に否定したものの、その勢いとは裏腹に、カラカラに乾いた喉から発せられる声は情けないほど掠れていた。
ヴェルナーは何も言わない。ただ、長年仕えてきた主を生温かい目で見つめている。
「…………」
「…………」
しばし、気まずい沈黙が面接室を支配した。
やがてフェンリルが、何かを決意したように僅かに顔を上げる。
「……ヴェルナーよ」
「何スか?」
「…………酒場に会いに行くには、どのような服が良いだろうか」
蚊の鳴くような声が、室内にこだまする。
魔界を数百年にわたって統治してきた実績を堂々と語っていた男が、今はすっかり自信を失い、救いを求めるような眼差しで側近を見上げている。
ヴェルナーはしばらく黙っていた。やがて上司の狼狽えも、頭上で鳴り続けている黒い蒸気も、すべてを受け入れたかのように、気怠げな眼差しを戻す。
「フェンリル様」
「……何だ」
「フェンリル様の今の状態異常。それを世間では、恋っていうんですよ」
「こ、これが……恋、だと!?」
フェンリルは愕然と目を見開いた。
数百年を生き、幾度となく戦場へ立ち、魔界という巨大な組織を統治してきた彼にとっても、それは初めて経験する感覚だった。
「ヴェルナーよ……ひとつ、頼みがある」
「何スか」
フェンリルは僅かに身を乗り出すと、誰かに聞かれていないか確かめるように周囲を見回した。
「余がこのような気持ちを人間に抱くなど……四天王には、絶対に内緒だぞ」
「はいはい」
気のない返事をするヴェルナーの隣で、フェンリルはまだ熱の引かない頬を押さえながら、フローラが出ていった扉を見つめていた。
勇者になるため、人間という存在を知るために足を踏み入れた世界構築編纂局で、フェンリルは思いがけず、これまで知らなかった感情と出会ってしまった。
そしてこの時の彼は、まだ知らない。
魔王として数百年を生きてきた経験も、経営者として培ってきた判断力も、恋という未知の領域においては、ほとんど何の役にも立たないということを。




