Record: 10:いつもの席に、いつもの幸せ
人間界の辺境にある、小さな村。
穏やかな陽光が石畳を照らす昼下がり、村の中心部に建つ酒場の前に、一人の青年が立っていた。
晴れて転職を果たし、村での生活を始めた、フェンリル・エクリプスである。
その両手には、村の花売りから買い求めた、小さな花束が大切そうに抱えられていた。かつて魔王として築き上げた莫大な財産は、すべて魔界へ置いてきた。今の彼にとって、それは村で働いて得た僅かな給料から工面した、精一杯の贈り物だった。
以前ならば、魔界の財宝庫から最高級の宝飾品を選び出すことも造作はなかっただろう。しかし今、手元にあるのは、名も知らぬ野の花を束ねた素朴な花束だけである。
フェンリルは花を潰さぬよう抱え直すと、酒場の扉へ目を向けた。
中からは客たちの賑やかな笑い声が聞こえてくる。時折、聞き覚えのある少女の声も混じっていた。
ただ扉を開け、客として店に入ればいい。それだけのことなのに、取っ手へ伸ばしかけた手は小刻みに震え、額にはじっとりと汗が滲んでいる。
魔王としての権限も、恐るべき暗黒魔法も、今はすべて封じられていた。
かつて幾多の勇者を迎え撃ち、魔界の頂点に君臨していた男は、もうここにはいない。今の彼はただ、フローラという一人の少女に恋をしている、ごく普通の青年だった。
「……何を恐れている。余は、魔界の王・フェンリル・エクリプスであるぞ」
自らに言い聞かせるように呟き、フェンリルは背筋を伸ばした。しかし、扉の向こうにいるフローラの大きな青い瞳を思い浮かべた途端、かつての威厳を取り戻そうとする虚勢は、あっけなく霧散してしまう。
ドアノブへ手を伸ばしては引っ込め、花束を抱え直しては深呼吸を繰り返す。そんなことを何度も繰り返しているうちに、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「ったく。いつまでモジモジ迷ってるんスか」
「そ、その声は……!」
慌てて振り返ったフェンリルの目に飛び込んできたのは、質素な村人の服に身を包んだ、赤髪の青年だった。
ヴェルナー・インフェルノ。
長年にわたり魔界の経営を支えてきた側近は、豪奢な装束を脱ぎ捨て、今ではどこにでもいる村の青年と大差ない格好をしていた。
「お主、何故……」
「言ったでしょ。とことん付き合いますって」
ヴェルナーはいつもの気怠げな笑みを浮かべると、フェンリルの隣へ並んだ。
「しかし、お主まで魔界を離れては……」
「アンタと俺で数百年かけて作り上げた組織です。トップが二人抜けたところで、簡単に破綻なんかしませんよ」
まるで明日の天気でも話すような気軽さだった。
フェンリルはしばらく言葉を失い、隣に立つ青年を見つめていた。いつも少し眠たげな目も、何かにつけて頭を掻く癖も、魔界でともに過ごしてきた頃と何ひとつ変わっていない。
ヴェルナーはそんな視線に気づくと、呆れたように肩を竦めた。
「……それに、俺も自分で選んだんです。村の青年Bって役をね」
フェンリルの胸の奥が熱くなった。口こそ不遜だが、長年、自分を陰で支えてくれた側近は、今もこうして隣に立っている。
「かたじけない。礼を言う」
素直に頭を下げると、ヴェルナーは片方の口角を上げた。
「別に、そんなんじゃないっスよ。あの髭局長、俺に元・勇者が抜けた後のシュレッダー係を勧めてきやがったんで」
腕を組み、思い出したように眉をひそめる。しかし、すぐにいつもの気怠げな表情へ戻った。
「俺は、俺がやりたいように生きる。アンタみたいな荒波のそばで、程よく波乗りしてる方が、俺らしくいられるんスよ」
「……そうか」
フェンリルはそれだけ言うと、酒場の扉へ向き直り、そっと押し開けた。隙間から、むせ返るような酒の匂いと、客たちの賑やかな笑い声が漏れ出す。
「よぉ、フローラ! こっちにもつまみ頼むぜ!」
「はーい」
フローラは相変わらず、男たちの絡みつくような視線を気にも留めず、てきぱきと注文を捌いていた。
「フローラ、こっちも注文!」
「もう、わかってるってば! 順番!」
急かす客に言い返しながらも、その手も足も止まらない。
フェンリルは意を決し、彼女のいるカウンターへ歩み寄った。
「フ、フローラ!!」
「え?」
フローラの手が止まった。
その青い瞳の先にいたのは、魔族の角も豪奢な衣装もなくした、一人の青年だった。
「……こ、こ、これを!!」
差し出されたのは、花売りから買い求めた小さな花束。しかし、長いこと握りしめていたせいか、花はすっかりくたびれ、うつむいていた。
フローラは花束と青年の顔を見比べた。
少しの間、視線を泳がせてから、静かに口を開く。
「……フェンリル?」
その呼びかけに、フェンリルの胸は喜びで高鳴り、瞳にはじわじわと涙が滲み始めた。
「……お、覚えていたのか。余のことを」
「さすがに覚えるわよ。ねえ、それ」
フローラは彼の手元に視線を落とすと、いつもの少し素っ気ない口調で言った。
「お花。萎れちゃって可哀想。貸して。水に挿したら、元気になるから」
返事を待つこともなく、フローラは花束を受け取った。近くにあった空のジョッキに手際よく水を注ぎ、その中へ花を挿していく。
その姿を見るなり、フェンリルはまるで主人に褒められた大型犬のような顔で、ヴェルナーの方へ振り向いた。
見えない尻尾をぶんぶんと振り、溢れる喜びを全身で伝えてくるフェンリルに、ヴェルナーは呆れたように溜息をついた。それでも、その口元は自然と緩んでいた。
(……何百年も傍にいたが、あんな顔は初めてだな)
魔王として、そして魔界の経営者として、どんな困難にも臆することなく立ち向かってきた男が、今では少女に名前を覚えてもらい、花束を受け取ってもらっただけで、子供のように目を輝かせている。
恋とは、これほどまでに人を変えるものなのか。
ヴェルナーは呆れ半分、感心半分で、その幸せそうな横顔を眺めていた。
その時、ズボンのポケットで小さな振動が起こった。
取り出したのは、魔界からこっそり持ち出した業務連絡用のタブレットだった。画面を点灯させると、見慣れたSlackの通知が次々と表示されている。
『Slack 未読メッセージ:4件』
『魔界ワークスペース / #まおうとゆかいなしてんのう』
『ぞろあすたあ @ゔぇるなあ 例の案件、無事に片付きました。あざっす! また相談に乗ってください。あ、あと気になってたショットバー、いつ行きます?w』
『りっち @まおうさま 転職ってマジですか。さっき知って、ガチで白目向いてます。あ、お前、骸骨だろってツッコミは無しですよ(笑)』
『すると @まおうさま ちょっとぉ!! 魔界チェスの勝負、まだついてないんですけどぉ!!』
『メデューサ @ゔぇるなあ 【至急】この間の飲み代、未払いなんだけど。今からでもPayPayで払って。さもなくば石化だから』
どうやら魔界の四天王たちは、二人が揃って転職した後も、普段と変わらぬ調子で業務連絡用のチャンネルを使い続けているらしい。
数百年かけて築き上げた組織は、どうやら今日も平常運転のようだった。
ヴェルナーは込み上げる笑いを堪えながら、手早く返信を打ち込んだ。
『ゔぇるなあ @channel 急に悪いな。そのうちまた会おうぜ。
@メデューサ 転職したら金が無え。ツケで頼むわ』
送信するなり、タブレットが立て続けに震え始めた。ヴェルナーは画面を確かめることなく通知を切り、ポケットへ戻す。
視線の先では、フェンリルが相変わらず、フローラの一挙手一投足に目を輝かせていた。
ヴェルナーは小さく笑うと、二人から少し離れた席へ腰を下ろした。今度は側近としてではなく、一人の友人として、その恋の行方を見守っていくつもりだった。
◇◇◇
それからの日々というもの、フェンリルは持ち前の知性とひたむきさを発揮し、ほどなく村の役場を取り仕切る管理職に抜擢された。その端正な容姿と見事な仕事ぶりは村中の評判となり、ひと目見ようと、若い女性たちが毎日のように役場へ詰めかける始末だった。
一方のヴェルナーは、村の若者たちから兄貴分として慕われながら、日々の力仕事に汗を流していた。
魔界で過ごした頃に比べれば、刺激もなく、あまりに素朴な毎日だった。それでも、これまで知らなかった人々との触れ合いや、ささやかな交流を重ねるうちに、二人は少しずつ村での暮らしに馴染んでいった。
かつての魔王と側近は、今では互いに気兼ねなく笑い合える、気の置けない友人として、それぞれが選んだ道を歩んでいた。
そしてフェンリルはというと、飽きることなく毎日のように酒場へ通い、フローラの働く姿を目に焼き付けていた。
その日もヴェルナーを伴い、いつもの酒場の前に立っている。
「よいか、ヴェルナー。今宵こそ、余はフローラをデートに誘う」
「へえ。誘い文句は決まってるんですか?」
「昨日の夜、寝ずに考えた。シミュレーション上は完璧だ」
そう豪語する一方で、ドアノブを握るフェンリルの手は、この店へ通い始めた頃と何ら変わらず、小刻みに震えていた。かつてのように頭から黒い蒸気が噴き出すことこそないものの、額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「……気楽に行けばいいじゃないですか。一度や二度フラれたくらいで、アンタめげないでしょ」
「よ、よし! ……いざ、尋常に参る!!」
「何に勝負かけてんスか」
扉を開けると、いつもと変わらず忙しなく動き回るフローラの姿があった。
その姿を目にした途端、フェンリルは己の致命的な失態に気づいた。
(……何という失態!! デートの誘いであるというのに、花束を忘れてきた!!)
徹夜で考えた誘い文句にばかり気を取られていたせいだろうか。みるみる青ざめていくフェンリルに、カウンターの向こうからフローラが目を向けた。
「あ、いや、その、出直してきても良いだろうか! 余としたことが、忘れ物をしてきてしまってな!!」
どうにか花束を買い、万全の態勢で出直さねばならない。フェンリルは身振り手振りを交えながら、必死に取り繕おうとした。
「……それ、忘れたら今すぐ死ぬの?」
「いや、決してそんなことは……っ」
「じゃあ、そこ座って」
フローラが指差した先には、いつものカウンター席があった。そこには小さな木製のプレートが置かれており、可愛らしい手書きの文字で『予約席』と記されていた。
「……フローラ、これは」
「ほら。早く座って」
促されるまま椅子へ腰を下ろしたフェンリルは、目の前のプレートから視線を離せなかった。花束のことも、徹夜で考え抜いた誘い文句も、すっかり頭から抜け落ちている。
そんな彼を見ながら、フローラはいつもの素っ気ない口調で、けれど以前よりもほんの少し柔らかな声で尋ねた。
「……いつもので良い?」
思いがけない問いかけに、フェンリルは目を見開いた。
胸の奥にじんわりと温かなものが広がり、思わず頬が緩む。
「……うむ。いつものを頼む」
フェンリルはヴェルナーへ嬉しそうに目を向けた。そんな友人の姿に、ヴェルナーもまた、穏やかな笑みを浮かべる。
こうして、かつて最強と謳われた魔王の、ささやかで幸福な日々は続いていく。
【── 完 ──】




