Record: 03:転職希望者が採用担当になりまして
「なるほど。実に素晴らしい」
「当然だ。経営者たる者、常に統治世界における従業員満足度と顧客満足度を最大限考慮するのは、最低限の資質と言えよう」
レオンハルトから賞賛を受けて気を良くしたらしい。フェンリルは革張りの椅子に深く腰掛けたまま、長年にわたり魔界を統制──もとい、経営してきた者としての自負を滔々と語り始めた。
「創作世界の向こう側では、AIなるものが業務効率化に大きく貢献しているという。余はそうした最先端技術を積極的に取り入れ、時代に即した組織改革を続けてきた。その結果、前年度、転職情報サイト『キャリアクエスト』において、魔界は口コミ件数第一位、総合評価4.8を獲得しているのだぞ」
フェンリルは肘掛けに片腕を預け、誇らしげに顎を上げた。勇者への転職を願い出ていたはずの男が、今ではすっかり魔界の経営者としての顔になっている。
「ちなみに、キャリアクエストの『転職者が選ぶ働きたい異世界ランキング』において、堂々の三年連続首位。……殿堂入りまであと一歩というところだ」
「……それだけ職場環境いいのに、トップが転職しようとしてんの何なんスか」
隣で黙って聞いていたヴェルナーが、とうとう堪えきれずに口を挟んだ。
しかし、その声にもフェンリルは動じず、片手を軽く上げて制する。
「ヴェルナーよ。それ以上言うな。余は今、レオンハルト殿に一経営者として提言をしている」
やがて熱弁がひと段落すると、それまで黙って耳を傾けていたレオンハルトが、満足そうに何度か頷いた。
「ええ。よく分かりました」
「うむ」
「これほどの統治実績に、優れた経営手腕。時代の変化を見極め、新たな技術を積極的に取り入れる柔軟性まで備えている」
「そうであろう」
フェンリルは深く頷き、脚を組み直した。
レオンハルトは、にこやかな笑みを崩さないまま告げる。
「これほどまでに……魔王に適した人材も、そうはいないでしょう」
「…………何?」
フェンリルの眉間に深い皺が刻まれ、肘掛けに置かれた指がぴくりと動いた。
しかし、レオンハルトはその変化を意に介することもなく、穏やかな口調のまま続ける。
「貴方ほど有能な統治者が魔界を離れれば、たちまち現地の統制に支障をきたし、その影響はいずれ人間界にも及ぶでしょう。私もこの編纂局を預かる者として、ぜひ今後も魔界でその手腕を振るっていただきたいところですな」
「……貴様」
押し殺した声とともに、局長室の床が微かに震え始めた。
振動は次第に強まり、机の上の書類がかすかにずれ、棚に飾られた花瓶がかたかたと音を立てる。壁には細い亀裂が走り、天井から舞い落ちた埃が、窓から差し込む光の中を漂った。
それでもレオンハルトは笑みを崩さず、葉巻の置かれた灰皿を静かに手元へ引き寄せただけだった。
対するフェンリルは、椅子の肘掛けを掴み、怒りに満ちた瞳で彼を睨みつける。
「余の転職希望を根こそぎ否定するその物言い……それが経営者としての姿勢か! 転職希望者ひとりひとりのキャリア形成に耳を傾けぬ組織など、それではこの編纂局の離職率は高まるばかりだぞ!」
「いや、なんで経営の話なんだよ。転職の話だろうが」
隣から飛んできたヴェルナーの突っ込みにも、フェンリルは振り返らなかった。
「では、私からひとつ、提案いたしましょうか」
レオンハルトは傍らの葉巻を手に取り、ゆっくりと火をつけた。先端から細い煙が立ち昇り、彼がひと息吸い込むと、白い煙が天井へ向かって静かに流れていく。
「有期雇用という形で、この編纂局で働いてみてはいかがでしょう」
「……何?」
「日々、職員たちがどのように働き、転職を希望するキャラクターがどのような経緯で物語へ配属されていくのか。貴方には経営者としての視点から、その実態を見ていただきたい。その上で──」
レオンハルトは机の上で両手を組むと、フェンリルを真っ直ぐに見据えた。
「ここを訪れる転職希望者の、面接官を担当していただく」
「……余が、面接官だと?」
「ええ。編纂局の人事として実績を積みながら、人間界の様々なキャラクターと直接触れ合う。貴方にとっても、この世界を知る非常に良い機会になると思いますが」
フェンリルの眉間から、刻まれていた深い皺が消えていく。彼は顎へ手を添えると、何やら真剣に思案し始めた。
その様子に嫌な予感を覚えたヴェルナーが、すかさず口を挟む。
「いや、この人そもそも勇者への転職希望で来てるんで、そういう的外れな提案は……」
「乗ろう」
「いやなんでだよ!」
あまりにも迷いのない返答だった。
ヴェルナーは思わず主の横顔を二度見し、椅子から腰を浮かせる。
「ここで実績を積みつつ、人間界における人事の仕組みを理解する上では、避けて通れぬ道と判断した」
「いや、そこは避けましょうよ。アンタ転職しに来たんでしょ。なんで経営判断する立場になろうとしてんの」
しかし、フェンリルに撤回する意思など微塵もないらしい。
その返答を聞くなり、レオンハルトは待っていましたと言わんばかりの笑みを浮かべ、部屋の隅に控えていた事務員を呼び寄せた。
「書面を」
たった一言で、事務員が契約書を携えてやって来る。重厚な紋章が施された羊皮紙には、すでに必要な項目が整然と並んでいた。
あまりにも準備がいい。
ヴェルナーがその手際に眉をひそめる間にも、レオンハルトは象牙で作られた印章を取り出し、慣れた手つきで契約書へ押印した。
「では本日より、この世界構築編纂局における面接官として、しっかり働いていただきましょう。ただし、勤務中は魔王としてのスキルを使用しないこと。そして編纂局の一員として、物語を構築するために粉骨砕身していただきたい」
「承知した」
フェンリルは差し出された契約書を受け取ると、そこに記された内容へ素早く目を通し、迷うことなく署名を記した。
「余の観察眼をもって、この世界の人事制度を最適化し、魔界にも劣らぬ働き方改革を成し遂げてみせようではないか」
「うむ。期待しているよ、フェンリル君」
勇者への転職相談だったはずが、いつの間にか世界構築編纂局への入職手続きへと変わっている。
あまりにもとんとん拍子に話が進んでいく中、ヴェルナーだけがフェンリルの斜め後ろで胃の腑を押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。
「……誰か、俺にダークポーションをくれ……」
かくして、勇者への転職を希望して世界構築編纂局を訪れたはずの魔王フェンリル・エクリプスは、なぜかその日のうちに面接官として、新たなキャリアをスタートさせることとなった。
◇◇◇
就職が決まるや否や、フェンリルは早速、世界構築編纂局の制服へと袖を通していた。
先ほどまで魔王としての威厳を存分に振り撒いていた男が、何の抵抗もなく支給された制服へ着替えていく。その背中を、ヴェルナーは未だ状況を呑み込めないまま、不信に満ちた眼差しで見つめていた。
「……フェンリル様」
「ヴェルナー。この時間の私語は禁止だ。着替えの時間も勤務時間に含まれている以上、迅速に済ませる必要がある」
「いや、なんで俺まで転職させられてんスか」
もっともな疑問だった。
局長室で交わされた契約の際、なぜかヴェルナーまで『面接官補佐』という役職を与えられていたのである。
本人が了承した記憶はない。
「ヴェルナーよ。主は余が最も信頼を置く側近だ。余が判断に迷った時、誰よりも的確な進言をしてきた主に、余は全幅の信頼を寄せている」
「……ったく。なんで俺までこんな趣味の悪い服を――」
ぶつぶつと文句を漏らしながらも、ヴェルナーは結局、支給された制服へ腕を通していく。
そんな側近を一瞥し、フェンリルは襟元を整えながら厳かに口を開いた。
「ヴェルナーよ。とある国の偉人の言葉に、『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず』とある」
「……今度は何の話っスか」
「この人間界における人事制度を内側から学び、その経験を魔界へ持ち帰る。それによって我らの組織運営は、さらに盤石なものとなろう」
フェンリルは姿見の前に立ち、初めて身につけた編纂局の制服に乱れがないことを確かめると、満足そうに頷いた。
「主がこの経験を魔界で活かすことで、『転職者が選ぶ働きたい異世界ランキング』──殿堂入りへの道も、より確実なものとなる」
「アンタ、勇者になるためにここへ来たんじゃなかったんスか?」
ヴェルナーの問いをよそに、フェンリルは鏡へ映る自分の姿を改めて眺めた。
容貌には高等魔族の特徴が色濃く残っている。それでも、編纂局の制服に身を包んでしまえば、その整った顔立ちも相まって、本人にはすっかり職員らしく見えているようだった。
「うむ。完璧に擬態できたな」
「……もう好きにしろよ」
満足げな主を横目に、ヴェルナーは早くも諦めたような溜息を漏らした。
それから間もなく、フェンリルは支給された人事マニュアルを手に取ると、先ほどまでの騒動などなかったかのように頁を捲り始めた。
最初の一頁から順に目を通し、重要と思われる箇所では手を止め、時折何かを確かめるように前の頁へ戻る。その読み方には、初めて任された仕事だからといって、僅かな知識不足も放置するつもりはないという几帳面さが表れていた。
ヴェルナーは制服の袖を整えながら、そんな主の姿をしばらく眺めていた。
魔界で新たな制度を導入する時も、フェンリルは同じように膨大な資料へ目を通していた。部下から報告を受けるだけで済ませず、自ら内容を確かめ、納得のいくまで検討する。今、目の前でマニュアルを読み込んでいる姿は、あの頃と何も変わらない。
「……いいですか、フェンリル様」
「……む。何だ、ヴェルナー。余は今、マニュアルを精査しているところだ。雑談ならば後にしろ」
「一生懸命なのは、アンタの良いところですけどね」
ヴェルナーの声から、いつもの気怠げな調子が僅かに消えた。
「猪突猛進になって、大局を見失わないようにしてくださいよ」
フェンリルは頁を捲ろうとしていた手を止めた。
しばらくヴェルナーを見つめていたが、やがて開いていたマニュアルを閉じ、机の上へ丁寧に置いた。
「……ヴェルナーよ。主が側にいてくれて、本当に良かった」
あまりにも素直な言葉に、ヴェルナーは一瞬だけ面食らったような顔をした。しかしすぐに視線を逸らし、口元を僅かに綻ばせる。
「……長い付き合いですからね。こうなったら、とことん付き合いますよ」
「うむ」
フェンリルは満足そうに頷くと、再びマニュアルを開いた。
「ところでヴェルナー。この紙媒体のマニュアルだが、クラウド管理へ移行すれば経年劣化を防ぎ、紛失のリスクも軽減できる。改訂時のコストも削減できると思うのだが、どうだ」
「…………」
ヴェルナーは開きかけた口を閉じ、やがて額へ手を当てた。
つい先ほど、猪突猛進になるなと忠告したばかりである。それなのに主の頭の中では、初仕事を迎えるより先に編纂局の文書管理システムを改革する計画が、すでに動き始めているらしい。
新たな制服の袖を引っ張りながら、ヴェルナーは長い溜息を吐いた。
──面接官補佐としての初日を迎える彼の胸には、期待よりも遥かに大きな不安だけが残った。




