王宮女官に戻らなければならないなんて思い出したくもない
王太子パズアドラ様の婚約者であるルーレンディア様の乳母になった私はザボン公爵家に通うことになりました。
初めて会ったルーレンディア様は赤い髪が可愛らしく巻いていて、美しい緑色の瞳には知性すら感じさせますし白い肌に散らされた薔薇色は耳朶も頬も唇も甘そうで、この少女はもしかしたら天から誤って地上に落ちてしまったのではないかと思うような美しさでした。
「よろしくお願いいたします」
「よろちく、おねぎゃー、いたしゅましゅ」
ルーレンディア様の舌足らずな挨拶に癒されますが、私は乳母になりはしたもののルーレンディア様は既に4歳、私のすることなど一緒に遊ぶ程度しかないと思っておりました。
そしてルーレンディア様の側に王家より派遣された家庭教師が常に張り付いておりました。
「ユブンズ、ザボン公爵令嬢はお食事しながら見苦しい所作をしないよう学んでおられる最中なので邪魔しないでください」
とても幼児の家庭教師と思えない冷たい目をした女がルーレンディア様のお食事を持って来た私を排除しようとしてきました。
職業婦人は旧姓(私の場合はコナッティ)で呼ぶのが慣例の筈です、それなのに夫の姓で呼んでくるのも私を下に見ていて腹立たしい。
食事介助が必要な4歳の幼児に食事が嫌いになりそうな厳しい教育を施す……物申そうとした時です、ルーレンディア様が困ったように眉を下げられたので私は引き下がりました。
お仕えする方の意思が最優先とはいえ、この時に感じた家庭教師への不信感を一年も放置してしまったことを何度も後悔しました。
私はポンコツ王妃が選んだ家庭教師を信用してはいけなかったのです、今でも自分の至らなさに腹が立ちます。
後悔の日はルーレンディア様の泣き叫ぶ声からでした。
「ウエーン!」
「何事ですか?!」
扉を開けると右手の甲を腫らしたルーレンディア様が家庭教師に拘束されているせいで息ができないのでしょう、顔色を失くしてしまっておりました。
「ルーレンディア様ッ!」
すぐさま家庭教師の髪を鷲掴んでルーレンディア様から引き剥がして確保します。
騒ぎを聞きつけたザボン公爵夫人・エレーヌ様は失神されているルーレンディア様の状態に動揺しておりましたが、私はエレーヌ様に家庭教師を取り押さえる男手と、知らせてもどういう対処をすればいいのか分からないパメラ様ではなくフィンチ女官長様かプロスタン宰相様への知らせを頼みました。
ポンコツ王妃はポンコツ王妃だからこそ利用できるものです。
家庭教師が普段からルーレンディア様へ厳しい教育を行っていたせいでルーレンディア様が子供らしくない影の薄い子供と化していたのを伝えると、パメラ様が泣きながら「許せないわ~」と言い出したのでパメラ様を泣かせた家庭教師はアズール様によって直々に鉄槌を下されていました。
私も今回ばかりはアズール様の対処を褒め称えねばなりません。
子供を利用して自分の名声を高めておきながら、鞭で型に押し込んで人形にしてしまう犯罪者は社会的に抹殺されるのが似合いなのですッ。
ベッドに横たわるルーレンディア様は窶れていらして子供らしいふっくらした頬も輝きを失っています。
「私が付いていながらあの女の所業に気付かず申し訳ございませんでした。」
ルーレンディア様の小さな手を握るとギュッと握り返してきました。
公爵家ともなると父親も母親も3歳差の兄上であっても忙しいもの、ルーレンディア様はまだ5歳、人のぬくもりを求めるのは当たり前です。
私は少しだけ職権乱用して、ルーレンディア様の護衛として王宮騎士の夫・トーマスも引き込むことにしました。
仮母だけではなく仮父がいてもいいでしょう、もちろん私達はザボン公爵家の内情に踏み込む気はありません、ですが幼子を見守る眼が必要だと判断しました。
私達はルーレンディア様と共にお茶をしたり畑仕事をしたり牛馬の世話をしたりと、「ハテ?どこの田舎で過ごしているのかしら?」という毎日を過ごしました。
少しだけ語りましょう。
それは、お茶の時間でした。
「マーサさんはあのコナッティ伯爵家の方ですよね」
「はい、そうです」
返事をすると、なぜかルーレンディア様の瞳が輝き出しました。
「あのビュンタン湖があるコナッティ領ですよね」
「はい、そうです」
平静に返事をしつつ心の中では驚いていました、ビュンタン湖が有名過ぎてコナッティ領と結び付けられない方が多いのです。
コナッティと聞けば大抵は「遠くからいらしたのね、大変だったでしょう」ですもの。
「ビュンタン湖が凍結しなくなるとは思いませんでしたが、神は見ていますから救いはありますよ」
「そう……ですね、そうだといいです」
この時の私は静かにお茶を口に含んでルーレンディア様との会話を終了させました。
私は小さなルーレンディア様に大人げなく「貴女に何が分かるのか」と思っていました。
その時の自分の大人げない対処に後悔もあったのでしょう、私はルーレンディア様の妙に確信めいた言葉が何年経っても忘れられませんでした。
そして聖女様が発見され、暑い季節にあった聖女様の結婚式で降らせた雪の恩恵か、その年からビュンタン湖は完全凍結するようになりました。
コナッティ伯爵となった兄からの手紙でそのことを知った時、私が涙したのは嬉し涙ではなくルーレンディア様とのお茶の時間を思い出したせいなのは夫にナイショです。
だってそれは、二人だけの思い出ですもの。
その後、プロスタン宰相様とフィンチ女官長様に選ばれた新しい家庭教師のヘンパル伯爵夫人は「いかにも」な優しい方でしたのでやはり選出者が考えなしだったと思うのです。
そして、新しい家庭教師のヘンパル伯爵夫人は所作も美しく、国内の領地について深く知る御方でしたのでルーレンディア様も積極的に質問され楽しく勉強できているようでした。
ですが、いくら王太子様の婚約者とはいえルーレンディア様の御年齢で貴婦人教育や国内外の情勢といった勉強ばかりではいけません。
なのでルーレンディア様の御希望に添いヘンパル伯爵夫人と共にザボン公爵家の農地や家畜の世話をするのも日課です。
「ルーレンディア様は何をなされたいですか?」
「今日は畑の草引きをしなければなりません」
ザボン公爵家の兵士という名の農夫達から聞いた予定をキリッとした顔でルーレンディア様が仰います、とても愛らしいです。
不思議なことにルーレンディア様がポンコツ王妃パメラ様と同じ様に外に駆けて行かれても愛らしさは消えません。
「ルーレンディア様、帽子を被ってくださいませ」
声掛けするとルーレンディア様が止まられたので手に持っているつばの広い帽子を被せました。
「風に飛ばされないようにスカーフを上からこう……こんなもので日焼け対策になりますかしら。ヘチマ水は日焼けに効く?んだっけ???」
「日焼けが気になるのでしたら畑の草引きは止めて部屋に入りますか?」
「いたしゅます!アッ、噛んでしまいました(……屈辱、14+5歳なのに)」
「何か仰いましたか?」
「いえッ……独り言です「手強い雑草ですこと」と」
ルーレンディア様も8歳になり、王太子であるパズアドラ様の誕生日パーティーにて初対面が決まりました。
私は王家よりザボン公爵家の乳母に派遣されているのですから私の上司になるフィンチ女官長様に日報報告していましたが、今日は口頭で報告すべくザボン公爵家の皆様と行動を共にしました。
私はルーレンディア様の乳母ですので誕生日パーティーの最中はザボン公爵家の方々の後ろに待機していました。
この日のルーレンディア様は古着を着ていらっしゃいました。
ですがザボン公爵家の素晴らしいアンティークドレスだけでもルーレンディア様の愛らしさを引き立てているのに、ザボン公爵夫人・エレーヌ様が刺された美しい刺繍がルーレンディア様の高貴さに一役買っておりました、更に……といったように私の絶賛する言葉が止まらないほどこの日のルーレンディア様は天使のようでした。
パズアドラ様が奥歯を噛んだ顔をしておりますから、キリッとした凛々しい少年を保ってルーレンディア様に好印象を残そうとしているのだなと微笑ましく思っておりました。
が、誕生日パーティーが終了し、ザボン公爵家の皆様もお見送りし、王家の皆様が部屋に戻るなり余計なことを言い出した輩がおりました。
「ねぇ、ねぇ~、アズールゥ、ルーレンディアちゃんってイジワルそうじゃない?」
「確かにな、我の意向で横に座らせているパメラに嫉妬して「お席はそちらではありません」だの「扇はお持ちではありませんの」だの言ってきた、顔と家柄しか取り柄のない王女や公爵令嬢にソックリだ」
お二人の発言にパズアドラ様が戸惑われています。
戸惑うのは、王女が訪れている外交の席なのに王太子が隣に男爵令嬢を配置することや、令嬢の嗜みとして持ち歩くべき扇を持ち歩かない方であって欲しいです。
間違ってもパメラ様が他の令嬢達から虐められた過去があるという「可哀想なア・タ・シ」酔いを真に受けないで欲しいのです。
私達は会場で不備がないように働いていたので知っております……パメラ様は王女様や公爵令嬢から貴族の常識を幼子でも分かるように優しく教えてもらっていただけです。
「でしょでしょ。でもアズールは酷いわ~、私達と違って好きな人と結ばれないパドが可哀想……ウッ」
「パメラ泣くな。どうか泣かないでくれ、どうしたらいいのか分からなくなってしまう」
私とフィンチ女官長様はパズアドラ様と共に静かに部屋から退出しました。
パズアドラ様の私室への廊下を進みながら、フィンチ女官長様がパズアドラ様に当時のパメラ様が貴族令嬢としてどれだけ非常識だったのか切々と語っていらしたのが印象的でした。




