エピローグ 最終進捗確認、異常なし
エピローグ 最終進捗確認、異常なし
春だった。
迷宮都市グランゼルに吹く風は柔らかく、石畳の隙間から小さな草が顔を出している。市場には果物の甘い匂いが漂い、パン屋からは焼きたての小麦の香りが流れてきた。
昔は血と酒の臭いしかしなかったこの街も、少し変わった。
「はい次ー! 報告書出した奴から飯行っていいぞー!」
「おいガルガ、インク飛ばすな!」
「うるせぇ!!」
朝の『鋼鉄の牙』は今日もうるさい。
だが、その騒がしさは以前とは違った。
怒号ではなく活気。
殺気ではなく笑い声。
ロビー中央の進捗管理ボードには大量の札が並び、その横には新しく花まで飾られている。
「誰だこれ置いたの」
「セリアさん」
「女子力あるだろ」
「うるさいわね」
セリアが薬草を仕分けながら睨む。
ガルガは大剣を磨きつつ笑った。
「でもよ、前よりマシだろ」
「……まあね」
その時。
ギルドの扉が勢いよく開いた。
「ケイ!!」
ヴィクトリアだった。
豪華なマントを翻しながら飛び込んでくる。
以前より表情が柔らかい。
目の下の隈も消えた。
ちゃんと寝ている顔だ。
「王城から追加書類が来た!! あと視察団!! あとなんか知らんが記念式典!!」
「確認します」
ケイは淡々と紙束を受け取る。
ぱらぱらとページをめくる音。
「……なるほど」
「どうだ!?」
「面倒ですね」
「即答!!」
ロビーに笑いが広がる。
ケイは少し考えたあと、新しい札を作った。
『王城対応班』
「増えた!?」
「担当分散します」
「便利すぎるだろそのボード!」
ヴィクトリアは笑いながら、ふとケイを見た。
最初に会った頃と変わらない。
相変わらず死んだ魚みたいな目。
感情が薄い。
だが最近、少しだけ違う。
たまに。
本当にたまにだが。
柔らかい顔をするようになった。
「……ケイ」
「はい」
「ちゃんと寝てるか?」
「六時間です」
「前より増えたな」
「改善活動の成果です」
「お前、自分にも適用するようになったんだな」
ケイは少し黙った。
窓から春風が吹き込む。
紙が揺れる。
誰かがスープを運び、香草の匂いが広がった。
「以前は」
ケイがぽつりと言う。
「休むと壊れると思っていました」
「……」
「止まったら終わる、と」
ヴィクトリアは何も言わなかった。
ただ静かに聞く。
「でも」
ケイは進捗ボードを見る。
依頼札。
休憩札。
『相談中』
新しく増えた『新人教育中』の札。
その全部が、ちゃんと動いている。
「今は、止まっても回るので」
その言葉は小さかった。
だがヴィクトリアには、なぜか泣きそうなくらい大事に聞こえた。
「……そうか」
その時だった。
「ケイさん!!」
新人冒険者が駆け込んでくる。
「大変です!!」
「どうしました」
「依頼札の順番間違えました!!」
「修正してください」
「はい!!」
新人が飛んでいく。
ガルガが笑った。
「新人まで管理されてやがる」
「良いことだろ」
「まあな」
セリアがふっと息を吐く。
「……でもほんと変わったわよね」
「何がだ」
「このギルド」
彼女はロビーを見回した。
以前は荒れていた。
机は壊れ、酒瓶が転がり、誰かが怒鳴り、誰かが泣いていた。
皆、疲れていた。
でも今は違う。
疲れても休める。
失敗しても相談できる。
怒鳴る前に報告できる。
ちゃんと人間でいられる。
「まるで別の場所みたい」
「違いますよ」
ケイが静かに言った。
「同じ場所です」
「え?」
「少し、壊れにくくしただけです」
ロビーが少し静かになる。
その時。
奥の厨房からいい匂いが漂ってきた。
「飯できたぞー!!」
歓声が上がる。
「休憩班先だぞ!」
「順番守れ!」
「ガルガ並ぶな押すな!!」
「押してねぇ!!」
騒がしい。
でも暖かい。
ケイはその光景を見ていた。
前世では見られなかった景色。
壊れない職場。
笑っている人間。
帰ってこられる場所。
胸の奥が少しだけ熱い。
その感覚に、まだ慣れない。
「ケイ」
ヴィクトリアが隣へ立つ。
「なんでしょう」
「……ありがとう」
まっすぐな声だった。
ケイは少し黙る。
そして。
「業務の一環ですので」
「そこで照れ隠しするな!!」
ヴィクトリアが叫ぶ。
ロビーが爆笑した。
ケイは静かに息を吐く。
春風が吹く。
進捗ボードの札が、かたん、と小さく揺れた。
その一番端。
誰かが新しく貼った紙がある。
『本日の目標』
その下には、丸っこい字でこう書かれていた。
『ちゃんと帰って、ちゃんと寝る』
ケイはしばらくその文字を見ていた。
そして。
本当に小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「……進捗、良好ですね」




