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第九十八記録【帰還のターニングポイント】




 DAY7

 九月十三日。

 午前八時。


 シャングリ・ラ ホテル ウランバートルの、最上階スイートルーム。


 分厚い遮光カーテンのわずかな隙間から差し込んだ朝日がやけにまぶしくて、ゆっくりと重い瞼を押し上げた。

 視界に飛び込んでくるのは、昨夜の激戦を物語るように派手に乱れたシーツと、カーテンから覗く細い光の筋。

 

 私は、凪の腕の中にすっぽりと収まった状態で、ふと思い返す。

 昨夜のうちに、朦朧とする意識と気力を振り絞って彼と一緒にお風呂に入った記憶まではあるのだが、そこから先の記憶が綺麗に飛んでいる。


 ……なんせ、その後もベッドの上でめちゃくちゃにされたのだろうから。


 全身の骨がギシギシと軋むような筋肉痛に似た痛みと、心地よい重だるさ。

 そして、身体の内側の奥深くまで、彼の熱でタプタプに満たされたような重い余韻が残っていた。


 ほんと、体力バケモノすぎでしょ……。


 ふと音がしたので小さく身じろぎして視線を上に向ける。

 カチャッ、カチャッ。

 耳元で、硬質な金属音が等間隔で響いていた。


 見上げると、凪はすでに起きており、シーツに立てた肘に頬を預けている。

 もう片方の手で、愛用の銀色のジッポライターの蓋を開け閉めして遊んでいた。


 カチャッ、と最後に蓋を閉じた凪が、愛おしそうに私を見つめ下ろしてくる。

 彼のウルフカットの髪から、ホテルの備え付けシャンプーの甘い残り香がふわりと漂ってきた。


「おはよ、茉莉子さん」


 犬歯を見せた笑い混じりの、甘く掠れた声。


「……おはよう」


 喉が渇ききった掠れた声で返すと、凪は意地悪く目を細めた。


「昨日はすごかったね、茉莉子さん。あんなに激しく乱れて」


「いや、逆逆……凪が想像以上に凄すぎただけだって」


 私はだるくて上がらない右手をシーツの上でフリフリと振り、呆れ顔を作ってゆるくツッコミを入れた。

 凪はジッポライターをナイトテーブルにコトンと置き、空いた手で私の乱れた髪を優しく撫でる。

 

 呆れる私を見て、凪はズリズリとシーツの上で身体を滑らせ、私の頬に自分の頬をすり寄せてきた。


「……ねぇ、なんか朝イチからまたシたくなっちゃったんだけど」


 利口なシベリアンハスキーのように甘えた声。

 それと同時に、彼の手がシーツの下に潜り込み、私の腰のラインを熱を帯びた指先で撫で上げてくる。


「だーめ」


 私はビクッと肩を揺らし、すかさず彼の大胸筋に両手をピタリと当てて、待てと言わんばかりにグッと力強く制止した。


「十四時半の飛行機なんだよ? 空港に向かわないと間に合わないっしょ?」


 言いながら、私はベッドから抜け出し、素早く立ち上がった。

 ヒヤリとした大理石の床の冷たさが、火照った素足の裏から全身を覚醒させてくれる。


 長時間のフライトに備え、私はバスルームの大きな鏡の前に近づき、ブラシで髪をまとめ始めた。

 高めの位置でラフな「無造作なお団子ヘア」に結い上げる。


「ちぇ〜」


 背後のベッドから、凪が子供のように唇を尖らせて膨れる声が聞こえた。

 昨夜、あんなにドSを見せた男と同じ人物とは思えないその可愛い反応。


 私は鏡に向かって背中を向けたまま、たまらなく愛おしいというように、無意識に口元を綻ばせていた。

 


 午前八時二十分。

 大きな鏡の前で、お団子ヘアの後れ毛をヘアピンで留めていると。


 カチッ。


 ピンが髪を留める音に重なるようにして、私の隣の空間に悪魔が現れた。


『おはよう、変態令嬢。昨夜はずいぶんとご堪能だったみたいねぇ』


 明菜は洗面台の縁に優雅に腰掛け、長い指先で一枚のタロットカードをヒラヒラと揺らした。

 描かれているのは、空に浮かぶ巨大な車輪と、それに群がる動物たち。

 【THE WHEEL OF FORTUNE(運命の輪)】の正位置。


 よし、今日の明菜の小言は何かを聞くことにしよう。


 私が鏡越しにニヤリと睨みつけると、明菜はパチンと硬質な音を立ててカードを指で弾き、いつもより真面目なトーンで解説を始めた。


『このカードはね、単なるラッキーカードじゃないの。「避けられない変化」と「ターニングポイント」を意味するわ。……アンタ、日本に帰ったらどうするつもり? これまでみたいに「可愛い年下彼氏(仮)」なんて言い訳、もう通用しなさそうだけど?』


 明菜は艶めく赤色の唇を引き結び、長い足を組み替える。


『この旅行で、アンタと彼の関係(運命)は、完全に次のフェーズに回っちゃったのよ』


 明菜の痛いところを突く言葉に、私の手がピタリと止まる。


 確かにそうだ、彼から向けられる重すぎる独占欲を受け入れてしまった以上、以前のような「ただのタヌキ親父の秘書と社長令嬢」にはもう戻れない。

 だが、まだそんなことで立ち止まっているわけにはいかない!


 明菜、まだまだ私はあと三人と親密な関係にならないとダメなの! わかる?


 私は右手の指で『3』の数字を作り、明菜の目の前に突きつけた。


『そ、そうよね』


 私のあまりにも図太い五股宣言に、悪魔である彼女が珍しく目を丸くして動揺した。


 凪も言ってたけど、問題なし! なんだから、アンタの悪魔的言葉に動揺してオドオドしてるようじゃ、なんのために楽しく婚活してるかわからないでしょ!


 私が胸を張って言い切ると、明菜は数秒ポカンとした後、『アハハハ!』と高らかに笑い声を上げた。


『やっぱりアンタは面白い女ね♡ その通り、アタシが愚問だったわ……』


 明菜は満足げな笑みを浮かべたまま、鏡の中の反射の世界へとダイブし、波紋のように消えていった。

 


 午前十時三十分。

 手早く荷造りを済ませてホテルをチェックアウトした私たちは、空港へ向かう前に、最後にウランバートルを一望できる観光名所「ザイサンの丘」へと立ち寄った。


 私の服装は、旅行初日にも着ていた、凪とお揃いのアースカラーのマウンテンパーカー。

 その下には、袖口が少し汚れた白のロングTシャツと、色褪せたスキニーデニム。足元は土で汚れたトレッキングブーツ。


 そして無造作なお団子ヘアが、吹き抜ける冷たくて強い風に煽られて大きく揺れている。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 三百段近い長い階段をなんとかこうにか登り切り、私は膝に手をついて激しい動悸と荒い息を整えた。

 肺が痛い。しかし、顔を上げて展望台のフェンスの向こうを見た瞬間、その疲れは吹き飛んだ。


 視界のパノラマに広がる、ウランバートルの近代的なビル群と、その奥を囲むように広がる雄大な大自然のコントラスト。

 展望台のフェンスには、永遠の愛を誓う現地の恋人たちが残した色とりどりの「南京錠」が無数に掛けられており、風に揺れてカチャカチャと微かな金属音を鳴らしている。


「わぁ……綺麗! 恋人の聖地って感じだね」


 景色に見惚れて目を輝かせる私の横で。

 黒のロングTシャツに身を包んだ凪は、いつもなら真っ先に構えるはずのカメラを持ったまま下ろし、ただ静かにウランバートルの街並みを見下ろしていた。


 風で乱れた前髪を、無造作な手つきでかき上げる。


「……あーあ。帰りたくないなー」


 ポツリとこぼれ落ちた声。

 それは、完璧なエリート秘書でも、私を組み敷いた狂犬でもなく、ただの一人の年下の男の子としての、純粋で甘えたような本音だった。


「飛行機、飛ばなきゃいいのに」


 凪……。

 恋人の聖地で「帰りたくない」って……!


 そんな捨てられたワンコみたいな顔しないでよ! そんなこと言われたら、こっちまでその気になっちゃうじゃん。


 胸の奥がキュッと締め付けられるのを堪え、私は彼の名残惜しそうな冷えた頬に、そっと手を添えた。


 凪が少しだけ眉を下げて、私の目を真っ直ぐに見つめ返してくる。

 切なげな声の振動が、空気を伝わってくるようだった。


 大自然の中で見せた真剣な顔も、ベッドでの支配欲も。すべてはこの「私と一緒にいたい」という切実な願いの裏返しだったのだ。

 けれど、無情にも帰国の時間は迫っている。


「……バカ言ってないで。パパが首を長くして『最高の秘書』の帰りを待ってるよ」


 私は無理に口角を上げてわざと明るく振る舞い、彼の背中をポンと叩いた。

 

 凪は「だね」と力なく笑い、名残惜しそうに目を伏せると、ウランバートルの空に向けて、最後にもう一度だけカメラのシャッターを切った。

 そして、静かに電源を落とす。


 その様子を、少し離れた展望台の欄干(らんかん)の上から見ていた明菜が、ただ静かに言葉だけを紡いできた。


『フランスの小説家、サン=テグジュペリは言ったわ。「愛するとは見つめ合うことではなく、同じ方向を見ることだ」って。……今のアンタ達なら大丈夫そうね』


 少し冷たさを増した秋の風の匂いの中。


 たまにはしんみりと、いいこと言うじゃん。


 私が明菜に素直に感心して返すと。


『キューピッドな部分もあること、お忘れ?』


 そうだった、そうだった。この悪魔、自称悪魔キューピッドだったわ。


 私は軽くぼやきながら、隣に立つ凪と肩を並べて同じ景色を見つめた。

 二人の間に、甘く、そしてたまらなく名残惜しい空気が、モンゴルの風と共に静かに流れていた。

 


 午後一時。

 ザイサンの丘を後にし、私たちはタクシーで「チンギス・ハーン国際空港」へと到着した。

 近代的なガラス張りの真新しい空港ロビーは、さまざまな国籍の旅行者で賑わい、多言語のアナウンスがひっきりなしに響き渡っている。

 

 チェックインカウンターで荷物を預け、二人分の搭乗券を手にする。

 

 いよいよ、この非日常の世界が終わってしまうという現実が、一枚の紙きれとなって容赦なく突きつけられた。


「本当に、あっという間の一週間だったね」


 搭乗ゲートに向かう直前、私がぽつりとこぼす。

 私は両手で、自分の搭乗券を大切そうにギュッと握りしめていた。


「うん。……でも、最高の旅だったね、茉莉子さん」


 凪が真っ直ぐに私の目を見て、柔らかく微笑んでくる。

 最高に美しい、屈託のない笑顔。そこには重い独占欲はなく、ただ愛する人と過ごせた満足感だけが溢れていた。


「……うん。最高の旅だった。凪のおかげだよ、ありがとう」


 私も、心からの感謝を込めて笑い返した。


 本当に最高の旅行だった。

 凪の好感度、これ以上上がらないってくらいカンストしてるよ。


 私たちは正式な恋人ではない。私が五股をしているという歪な関係は、日本に帰ればまた続いていく。

 それでも。このモンゴルの大自然の中で、彼と共有した時間と熱は、絶対に消えない本物だった。

 


 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・現在のステータス

  ・魅力:S(凪からの好感度カンストによりオーラ増幅)

  ・メンタル:A(五股の罪悪感を「あと三人落とす」という謎の使命感でカバーする図太さを獲得)

  ・状態:モンゴル旅行終了。運命の輪が回り、ただの秘書と令嬢から「共犯者」へと関係性がアップデート。


 新規獲得アイテム

 ・【運命のターニングポイント】:後戻りできない関係性の変化を示すキーアイテム。

 ・【狂犬の純情】:狂気と暴力の底にある、ただの年下の男の子としての切実な願い。


 【明菜の分析ログ】


 ついにモンゴル旅行もフィナーレね。

 五股を宣言して「残り三人と親密になる」なんて胸を張る図太さ、さすがアタシが見込んだ悪女ヒロインだわ。


 サン=テグジュペリの言う通り、同じ方向を見て愛を深めた二人だけど……日本に帰れば、また残りのターゲットたちとの血で血を洗う五股生活が待ってるのよ?


 カンストした狂犬の好感度が、今後どういう形でアンタの首を絞めることになるか。

 ……悪魔キューピットちゃんは楽しみにしてるわ♡

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