第九十七記録【大いなる支配者】
DAY6
九月十二日。
午後一時。
近代的なウランバートル市内の中心部にそびえ立つ、巨大な「チンギス・ハーン博物館」。
冷ややかな空調が完璧に効いた館内は、外の強い日差しと喧騒が嘘のように静まり返っていた。
照明を落とした空間に、ガラスケースに入った黄金の馬具や、繊細な装飾が施された武具が浮かび上がるように展示されている。
大理石の床を歩く私たちの靴音が、コツン、コツンと硬く静かに響いた。
「チンギス・ハーンって、ただの残虐な征服者かと思ってたけど……実力主義で、宗教の自由も認めてたんだね」
展示パネルに書かれた英語の解説文を読みながら、私は素直に感嘆の声を漏らした。
横を歩く凪が、ガラスケースに視線を落としたまま「そうだね」と短く頷く。
「幼い頃に父親を毒殺されて部族から追放されたどん底から、ユーラシア大陸を統一したカリスマだからね。……まぁ、俺としては少し親近感湧くかも」
「親近感?」
私が不思議に思って足を止め、彼を見上げると。
凪はポケットに片手を入れたまま、何でもない日常の出来事を語るように、サラリと口にした。
「俺もさ、学生時代は地元でかなり荒れてて。周りの不良どもを喧嘩で全部ねじ伏せて、一帯を統一してた時期があったんだよね」
「……え? 統一? 凪が?」
あまりにも漫画みたいな過去の告白。
私は目を見開いて、隣に立つ彼をまじまじと二度見してしまった。
不良のトップで地元統一って……完全にアウトロー系主人公の設定じゃん!
パパの秘書、マジでどうなってんの!? 人事部の採用基準、絶対バグってるって!
私が内心で全力のツッコミを入れていると、凪は「若気の至りってやつ?」と、いつもの無邪気な犬歯を見せて笑い、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
その屈託のない笑顔の裏に潜む暴力の気配に、私は背筋に冷たいものを感じ、やっぱり狂犬ナギじゃん! と密かに戦慄した。
「でもさ、そんなに荒れてたのに、高校の時は三年間ずっと同じ女の子と付き合ってたんだよ。意外と一途でしょ?」
さらに投下された、初出しの恋愛エピソード。
三年間ずっと同じ女の子。
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓がドクン、と嫌な音を立てて跳ねた。
「……ふーん。三年間もね」
無意識のうちに、声のトーンが急激に下がってしまう。
平静を装いながら、私は展示ケースのガラスに顔を向け、少しだけ探りを入れた。
「ちなみに、凪の好きな女の子ってどんなタイプなのー?」
「うーん……茉莉子さんみたいな人」
「ちゃんと答えなさい」
適当すぎる返しに、私はすかさず彼の頭にペチッと軽いチョップを落とした。
凪は低く笑いながら、嬉しそうに自分の頭を撫でる。
「冗談。……誠実で、わりとおしとやかな人かな」
「私、誠実でもないしおしとやかでもないと思いますけど」
私がジト目で睨むと、凪は楽しそうに目を細め、私の横顔を覗き込んできた。
「確かに。誠実じゃないし、おしとやかでもないポンコツお姉さんだもんね」
「じゃあ私に惚れる意味がわかんないんだけど」
唇を尖らせる私に、凪は不意に真面目な、優しい声色を落とした。
「でも、仕事では誠実じゃん? 正直最初はそう思わなかったけど、ブライダル企画もサマーフェスもやり切れたのは凄いことだよ」
「……あれは、皆が手伝ってくれたからじゃん」
思いがけないストレートな褒め言葉。
カァッと一気に顔の温度が上昇し、耳の先まで熱くなるのが自分でもわかった。
私は照れ隠しに視線を泳がせ、彼から逃げるように足早に前を歩き始めた。
照れて早歩きになる私の横に、ふわりと浮かんだ明菜が並んだ。
『一生遊ぶために婿探ししてるだけの悪女なのに、誠実ですって〜? 笑えちゃうわね』
明菜がプププと口元に手を当て、小馬鹿にするように笑いながら歩幅を合わせてくる。
そうですよー、私は一生遊ぶために婿探ししてるだけの悪女ですよーだ。
私が明菜に向かって言い返していると。
突然、背後から大きな身体がドサッと覆い被さってきた。
「うわっ!?」
凪が後ろから私の肩をすっぽりと抱き込み、耳元に顔を寄せてくる。
背中を包み込む、彼の広い胸板の圧倒的な熱。
そして、耳元に吹きかかる吐息のくすぐったさと、微かに漂うタバコと香水の大人の匂い。
「結局、タイプなんてただの条件、そんなに気にしないで。……俺は、どんな茉莉子さんも大好きだから」
ズッキューン!!
脳みそを強大な弓矢で真正面から撃ち抜かれたような、強烈な衝撃。
なんなんだ、この可愛い元ヤン人狼は。破壊力高すぎでしょ。
無理だ、私も大好きだ。
完全に理性がノックアウトされた私は、凪の腕の中でくるりと振り返り、至近距離で彼を見上げて上目遣いで囁いた。
「じゃあ、今日の夜も私のこと可愛がってね」
無自覚な、でも確信犯的な挑発。
その言葉を聞いた瞬間。凪の瞳孔がスッと細く収縮し、一瞬で「オス」の色へとドロリと濁るのを見た。
ゴクリ、と彼が息を呑む音が、静かな展示室に小さく響いた。
午後二時。
博物館を出た私たちは、近くのパン屋でサンドイッチを買い、木漏れ日が落ちる公園のベンチに座って遅めのランチをとっていた。
新鮮なレタスとハムのサンドイッチをかじりながら、他愛ない談笑をする。
公園の木々を揺らす風の音が心地よい。
ふと、私の頭に一つの疑問が浮かんだ。
地元を統一するほど荒れていた学生時代の彼を、一体どうやって自分の父親が拾い上げ、エリート秘書にしたのか。
「ねぇ、一つ質問していい?」
「どうぞ。なんでも答えるよ」
凪が紙パックのアイスコーヒーを飲みながら答える。
「凪って、どうやってうちの会社(九条グローバル)に来たの? 確か今、二十一歳だよね?」
「うん、合ってるよ」
「もしかしてパパも、元ヤン……いやもしかたらヤバいヤクザとかだったりして……」
真剣な顔で身を乗り出す私を見て、凪は「アハハハ!」と耐えきれないように声を上げて笑い出し、目尻に涙を浮かべた。
「なわけないじゃん」
「なんで笑うのよ!」
「いや、俺が社長に拾ってもらったの、すっごく単純な話だから」
凪はベンチの背もたれに深く寄りかかり、ポケットからタバコを取り出してくわえた。
シュボッ、と硬質な音を立てて火をつける。
「あの人がたまたまチンピラに絡まれてたから、俺が助けたんだ。そしたら社長がさ、『君! 僕の秘書にならないかい!? こんなに強くてイケメンな秘書を探してたんだよー!』ってその場でスカウトしてきて。最初は断ったんだけど……まぁ、成り行きってやつ?」
は?
採用理由が「強くてイケメンだから」って……!
うちの会社のコンプライアンス、マジでどうなってんの!? 人事部息してないじゃん!
細く空に向かってタバコの煙を吐き出す凪を見ながら、私は呆れて息を吐いた。
なんとも感動もクソもない、父・壮一郎らしいノリの軽すぎるエピソード。
「……やっぱり私、あのタヌキ親父の血をしっかり引いてるわ」
私も結局、彼の顔に惹かれているのだから。
そう自嘲して、私は残りのサンドイッチを口に放り込んだ。
その後もウランバートルの街をぐるぐると散策したり、夕食を済ませた私たちは、旅行最終日の宿である「シャングリ・ラ ホテル ウランバートル」へと到着した。
最上階に位置する最高級のスイートルーム。
重厚な扉を開けると、部屋中に高級ホテル特有の、深く落ち着いたアロマの香りが漂っている。
広大なリビングの向こうの大きな窓からは、ウランバートルの美しい夜景が宝石箱をひっくり返したように一望できた。
「ひゃっほぉぉ!!」
中に入るやいなや、私は歓声を上げて寝室へと走り込み、ふかふかのキングサイズのベッドに向かって思い切りダイブした。
ボスンッ!
身体が最高級のスプリングとシーツに深く沈み込む。
これこれ! 私の生存区はこういう華やかなとこに限ります!
ゴロゴロとベッドの上を転がり、シーツに顔を擦り付けながら、ニヤケが止まらない。
最上級のセーブポイントに到達! HPもMPも全回復する最高のベッド!
やっぱ大自然より、課金アイテム(最高級ホテル)は裏切らないわー!
「荷物置いとくね。俺、先にお風呂見てくる」
呆れたように笑いながらリュックを壁際に置いた凪が、バスルームの方へ消えていった。
午後八時十分。
私がベッドでゴロゴロしていると、頭上から『すっかりご満悦ね、ポンコツ令嬢』と聞き慣れた声がした。
見上げると、明菜がベッドのヘッドボードに腰掛け、長い脚を組んでいる。
『凪の過去の話、聞いたわよ。……どこかチンギス・ハーンみたいなところがあるわよね、彼』
「チンギス・ハーン? どこらへんが?」
私が首を傾げると、明菜はニヤリと笑い、指の間にタロットカードを扇状に広げて見せた。
シュッ、という乾いた摩擦音。
浮かび上がったのは、玉座に座る屈強な男を描いた【THE EMPEROR(皇帝)】と、骸骨が鎌を持つ【DEATH(死神)】のカードだ。
『そうねぇ、自分のテリトリーを支配する強さとか……敵対する者への残虐性とか? 人を殺めるほどの残虐性はないと思うけれど、さっき話してた「三年付き合ってた一途な彼女」と、どうして別れたのかしらね? もしかしたら、彼のこんな暗い部分が原因かもよ?』
明菜が二枚の禍々しいカードをヒラヒラと揺らして茶化してくる。
確かに、どうして別れたんだろう。
ホテルの静かな空調の音だけが響く中、なんだかやけにそのことが心に引っかかった。
「なーぎ」
思わず、バスルームの方へ視線を向けて彼の名前を呼んでいた。
「呼んだ?」
バスルームのドアが開き、凪が姿を現した。
下は黒のワイドパンツのままだが、上半身は服を脱ぎ捨てた完全な半裸状態。
間接照明に照らされた、引き締まった腹筋と男らしい広い肩幅。
その暴力的なまでの「悩殺エロエロスキン」に、私の心臓がドキンと高鳴る。
「浴槽にお湯張ってたんだ。どしたの? なにかあった?」
凪はそのままベッドに近づき、私の膝の上に、滑り込むようにごろんと無造作に自分の頭を乗せてきた。
彼の甘い香りがふわりと鼻をくすぐり、半裸の背中から感じる体温がデニム越しに伝わってくる。
「いや、別になにもないけど……」
「えー嘘だー。なになに? 知りたいな」
下からじっと見上げてくるフォレストグリーンの瞳に負け、私は正直に口を開いた。
「さっきさ、彼女がいたって話してくれたじゃん? ……どうしてその彼女と別れたのかなって、ちょっと気になって」
すると。
凪の表情から、スッと無邪気な笑顔が完全に消え失せた。
「普通に、俺の友達と浮気してたからだよ」
一切の温度がない、冷たく突きつけるような声。
「……最低じゃん、その子」
「でしょ。だから、その友達と一緒に山に埋めてやったんだ」
え?
私の思考が、一瞬完全に停止した。
下から私を見上げる彼の真顔が、あまりにも本気で、本物の殺気を帯びていたからだ。
「山に埋めた」と言った瞬間、彼の瞳孔が爬虫類のように細く収縮したのを、私ははっきりと見た。
「え……? ガチ……?」
冗談を言った瞬間の、部屋の空気が完全に凍りつくような冷たさ。
数秒の、永遠にも似た間の後。
凪の口角が、フッと悪戯っぽく吊り上がった。
「なわけないじゃん。……俺の女に手を出した友達はボコボコにして病院送りにしたけど、彼女とはそこから一度も会ってないよ」
心臓止まるかと思った!! 目がマジだったじゃん!
友達病院送りにしてる時点で、十分サイコパス属性入ってるからね!?
もしかして、社内で五股してるこの私、九条茉莉子もいつか山に埋められ……いぎゃぁぁぁ!
とりあえず動揺してるのがバレまいと、私が「あはは……」と引き笑いをしていると、少し離れたソファの方から声がした。
『あーっはっはっは!』
明菜が腹を抱えて笑い転げている。
笑うな悪魔。
『人狼君の冗談にホントにビビるなんて、茉莉子ほど素直な女なかなかいないわよ! チンギス・ハーンは言ったわ。「恐れるべきは敵ではなく、己の迷いである」ってね。……彼、やるときはやる男かもよ?』
うるさーい! 一瞬怖かったんだから仕方ないでしょー!
私が明菜に向かって文句を言っていると、いつの間にか起き上がった凪の顔が、鼻先が触れるほどの至近距離に迫っていた。
ビクリと肩が跳ねる。
「さっきの話、信じちゃった?」
「ちょっとね……だって、元ヤンだし」
凪は低く笑い、そのまま私の身体を強く、逃がさないように抱きしめた。
胸板が押し付けられる感触と重みが、全身を支配する。
「大丈夫。茉莉子さんが好きなあとの四人には、そんなことしないよ。……けど傷つけるとしたら、茉莉子さんを傷つけたときかな」
「みんなを傷つけてるのは、私のほうだって……」
五股という最低な事実を自嘲気味に呟く私に、凪は首を横に振った。
「茉莉子さんが傷つけるのいいよ。俺もふくめて傷つくなら」
すべてを許容し、一緒に地獄に落ちてもいいと言わんばかりの重すぎる愛。
彼はそのまま、私の唇に自分の唇を深く重ねた。
一度離れ、熱を持った瞳で至近距離で見つめ合う。
「お風呂入る前に……茉莉子さんがほしい」
許しを請うような、それでいて逃げ道を完全に塞ぐような甘い声。
凪が私の後頭部に大きな手を添え、逃げられないようにホールドする。
再び重なった唇は、今度は息をする隙間も与えないほど、深く、激しく私の内側へと侵入してきた。
交わるキスの水音と、熱で互いがドロドロに溶け合うような感覚。
私は完全に陥落し、彼の背中に腕を回して、最高級のシーツをギュッと握りしめた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:フェンリルの見せた本物の殺気に戦慄するも、その重すぎる愛の前に完全に理性を手放し、ご都合主義の甘い地獄へと落ちていく。
新規獲得アイテム
・【山に埋める(冗談)】:冗談に聞こえないほどの殺気を放つ、狂犬特有のブラフ。
・【共依存の免罪符】:「こっち側が傷つくならいい」という、五股女に対する究極の全肯定デバフ。
【明菜の分析ログ】
ついに狂犬の牙がチラ見えしたわね。友達を病院送りにして「山に埋める」なんて、冗談のトーンじゃなかったわよ?
でも、そんなサイコパスな一面を見せられても、結局「一緒に地獄に落ちる」っていう重い愛に絆されちゃうんだから、アンタも相当な毒婦ね。五股を許容するフリをして、確実にアンタの退路を断ちに来てる。
最高級のスイートルームでの極上の夜。
せいぜい、彼が牙を剥くその日まで、この甘いご都合主義を楽しんで。




