第九十四記録【どんな君見せてくれるの?】
午後九時。
ヒュオォォォ、ヒュルルルゥゥ。
獣の遠吠えのような風の音が、テントの分厚い布を間断なく揺らしている。
日中の暖かさが嘘のように、モンゴルの夜は容赦なく牙を剥いていた。
私たちが今夜の宿として案内されたのは、遊牧民の移動式住居「ゲル」。
円形の室内の中央には薪ストーブが置かれ、チロチロとオレンジ色の火が燃えている。
そこから漂ってくる微かな薪の燃える匂いが、唯一の文明的な慰めだった。
しかし、フェルト生地の隙間から這い寄ってくる冷気は、ストーブの熱をあっさりと相殺していく。
「さっむ……っ! モンゴルさっむ!」
用意された分厚い羊毛の毛布に包まり、私はガチガチと歯の根を鳴らしていた。
パジャマ代わりに着込んだ厚手のスウェット越しでも、体温がみるみるうちに奪われていくのがわかる。
毛布を鼻の頭までギュッと引き上げ、ミノムシのように膝を抱え込んで身体を丸め込んだ。
はぁーっ、と小さく吐き出した息が、薄暗いランプの光に照らされて真っ白に染まる。
防寒装備のレアリティ絶対足りてないって!
初期装備の布の服で雪山エリアに放り出されたようなもんじゃん。寒い寒い寒い!
寒さという継続ダメージでジリジリとHPが削られていく感覚。
震えを止めるために奥歯を噛み締め、じっと耐え忍んでいると。
『あらぁ〜、ポンコツ勇者さん。ちょっと失礼♡』
不意に、私の顔のすぐ横、毛布のわずかな隙間から、スルリと冷たい何かが滑り込んできた。
それが私の腕の素肌に触れた瞬間、ゾクッ、と氷を押し当てられたような悪寒が走る。
「ひゃんっ!? 冷たっ!?」
飛び上がらんばかりに驚き、ビクッと肩を跳ねさせて横を向く。
そこには、紫の超ミニスカスーツ姿の明菜が、私の毛布の中にちゃっかりと入り込み、長い脚を器用に折りたたんで寝そべっていた。
冷気の大元はお前か!
「寒いって!」
寒さと驚きでジト目になり、至近距離の悪魔を睨みつける。
明菜はふふっと妖艶な笑みを浮かべ、長い指先で一枚のタロットカードをヒラヒラと揺らして見せた。
天使が二つの杯の間で水を移し替えている絵柄。
『【THE TEMPERANCE(節制)】の正位置。バランスと調整、そして異なる要素の融合を意味するカードよ』
優雅にカードを宙に消すと、明菜は長い睫毛を伏せて芝居がかったため息をつく。
『シェイクスピアは言ったわ。「期待はあらゆる苦悩の元である。……でも、最高のスパイスでもあるわね」って』
「は……? 意味わかんないし、いいから出てって! シッシッ!」
私は毛布の中から片手を出し、空気を払う動作をして彼女を追い払おうとする。
『フフッ、スパイスの効きすぎには注意ってこと』
明菜はパチンと片目でウインクを残し立ち上がった。
『おやすみ〜♡』
硬いヒールの音を響かせながら、ゲルの低い木製扉を幽霊のようにすり抜けて消えていく。
何が言いたかったのかほんとわからんし……。
ていうかあの格好、ミニスカートとか絶対寒くないのかよ……。
文句を垂れながら、再び毛布の中に首まで潜り込んだ、その直後だった。
「ちょっ! 明菜マジでやめてって!」
またしても冷たい風が毛布の隙間から舞い込んできて、私は反射的に声を荒らげた。
しかし、振り返った先の扉の前に立っていたのは、紫の悪魔ではなかった。
「……ん? 茉莉子さん、誰と話してるの?」
外の暗闇を背負うようにして立っていた長身のシルエット。
現地の遊牧民と話していた凪が、冷たい夜の空気と一緒にゲルの中へと入ってきたのだ。
風で少し乱れたウルフカットの黒髪。寒さでほんのりと赤みを帯びた白い頬。
そして、鼻腔をくすぐる、彼が外から持ち込んだ微かなタバコの煙の匂いと、清潔な男の体臭。
「な、凪……ううん、独り言! それより早く閉めて、死ぬ、凍死する!」
慌てて毛布の端をギュッと握りしめ、顔だけを出して必死に訴える。
凪は「ごめんごめん」と無邪気な犬歯を覗かせて笑い、背手のまま素早くゲルの扉を閉めた。
バタン、と木がぶつかる音がして、再び室内は風の音を遠くに聞く静寂に包まれる。
寒そうに自分の両腕をさすりながら、凪がゆっくりと私の寝床へ近づいてくる。
ストーブの明かりが、彼の高い鼻梁と彫りの深い顔立ちに濃い影を落としていた。
ニヤニヤしながら近づいてくるその顔を見て、私の脳内の危険信号が微かに点滅する。
でも……ついついカッコいいなぁって見惚れちゃうんだよね、この年下人狼。
「外、マジで寒いね。……ねぇ、茉莉子さんの毛布、俺も入れてよ」
言うが早いか。
凪は私の返事すら待たずに、ズリズリと強引に、私が丸まっている一つの毛布の中へ身体を滑り込ませてきた。
「ちょ、ちょっと凪! 狭いってば!」
私が慌てて身をよじって抗議するのも虚しく、凪の長い手足が毛布の限られた空間で私の身体に絡みついてくる。
「ひゃっ」
冷え切っていた彼の長い指先が、不意に私の首筋に触れた。
変な声が漏れて肩をすくませる。
しかし、その冷たさに驚いたのはほんの一瞬だった。
背中側に回り込んだ彼の広い胸板が、私の背中にピタリと密着する。
分厚いパーカー越しからでもダイレクトに伝わってくる、驚くほど高い「雄の熱量」。
ドクン、ドクンという彼の規則正しい心音が、私の背骨を伝わって直接内臓を揺らすように響いてきた。
「いいじゃん、茉莉子さん、ガタガタ震えてたし」
凪が私の腰に両腕を回し、自分の身体の方へとギュッと引き寄せる。
彼の顔が私の肩口に埋められ、ウルフカットの毛先がチクチクと首筋をくすぐった。
「あったかーい……」
無意識のうちに、強張っていた全身の力が抜け、ホッと深い息を吐き出していた。
「でしょ? 俺、体温高いから。……茉莉子さんも、すっごい柔らかくてあったかいよ」
耳元で囁かれる、低く甘い声の振動。
ただ暖を取っているだけのはずなのに、彼の吐息が耳の裏にかかるたび、私の心拍数が急激な右肩上がりを始めていた。
そして最初はただの「暖取り」だったはずの毛布の中の空気が、徐々に粘度を増していく。
腰に回された凪の腕の力が微かに強まり、彼の手のひらがパーカー越しに私の腹部をゆっくりと、確かめるように撫で始めた。
「茉莉子さ〜ん」
先ほどまでの無邪気なトーンから一段落ちた、掠れた男の声。
背後にいたはずの彼が身体をずらし、私の肩を押して仰向けにさせ、そのまま上から覆い被さるような体勢をとった。
ランプの薄明かりの中、至近距離で見下ろしてくるフォレストグリーンの瞳。
そこには、もう誤魔化しきれない濃密な熱と、捕食者の飢えがはっきりと揺らめいていた。
「な、なに……?」
乾いた唇を舐め、震える声で問い返す。
「寒いときこそ暖まらないとね♡」
答えを聞く間も与えられなかった。
凪の顔がスッと傾き、チュッ、と触れるだけの軽いキスが私の唇に落ちる。
水滴が弾けるような微かな水音。
驚いて目を瞬かせる私を真っ直ぐに射抜きながら、今度はゆっくりと、深く、すべての隙間を埋め尽くすような濃厚なキスが重なった。
「んっ……なぎ、ぁ……」
唇が割られ、彼の熱い舌が容赦なく侵入してくる。
口内を一瞬で満たす、微かなタバコの苦味とミントの清涼感が混ざった味。
覆い被さる彼の身体の重みと、毛布の中に充満する逃げ場のない熱気。
息継ぎの合間、彼の大きな親指が私の顎のラインをなぞるように撫で上げる。
私は反射的に両手を伸ばし、彼の胸倉をギュッと力強く握りしめた。
極寒のゲルの中だというのに、彼の触れる場所から火が点いたように身体中が熱くなっていく。
脳がジンジンと痺れ、思考回路が完全にショート寸前だった。
外で吹き荒れる風の音は、もはや私の耳には届いていなかった。
ゲルの凍てつく空気と、毛布の中の異常なほどの熱。その境界線で、二人の影が激しく、そしてゆっくりと重なり合う。
「茉莉子さん、可愛い……ほんと、好き……」
凪の唇が首筋から鎖骨へと滑り降り、チュッ、チュッと熱い痕を刻みつけていく。
私は抗うどころか、彼の広い背中に腕を回し、その圧倒的な熱にすがりつくようにしがみついていた。
「凪……あっ……だめ、声、出ちゃう……」
「いいよ。誰も聞いてない」
意地悪で甘い言葉と共に、凪の手が服の裾から滑り込み、私の素肌へと直接触れる。
少し荒れた大きな手のひらの感触に、ビクッと身体が跳ねた。
彼がそれを宥めるように、そして貪るように深く愛撫していく。
「あ……んっ……」
その反応に、凪は嬉しそうに低く喉を鳴らし、さらに力強く私を抱きしめ直した。
毛布が擦れ合う微かな摩擦音。
汗ばむほどの密着が生み出す、甘く濃密な匂い。
大自然の真ん中、原始的なテントの中で、文明から完全に切り離された二人だけの世界。
真っ直ぐに情熱をぶつけてくる凪の愛に、私の理性の防壁は音を立てて崩れ去った。
甘い吐息だけが、夜のゲルの中に深く、長く溶けていった。
DAY4
九月十日。
翌朝。
円形の天窓から、眩しい朝日が一直線に差し込んできた。
「んん……」
光の刺激にゆっくりと瞼を押し上げる。
身体を動かそうとした瞬間、腰から背中にかけて、鉛のような重だるさと微かな痛みが走った。
ハッとしてシーツの中を確認する。
分厚い毛布の中、私は凪の腕の中にすっぽりと収まったまま、見事に一糸まとわぬ全裸状態だった。
昨夜の、暗闇の中で何度も求められた生々しい記憶がフラッシュバックし、一気に顔から火が出そうになる。
「……おはよ、茉莉子さん。よく眠れた?」
頭上から降ってきた、少し掠れた寝起きの声。
ビクッとして見上げると、すでに起きていたらしい凪が、片肘をついて私を見下ろしていた。
その口元には、犬歯を見せた意地悪な笑みが浮かんでいる。
「お、おはよう……」
視線を泳がせながら、細い声で返す。
「顔、真っ赤。……昨日の夜は、あんなに大胆だったのにね」
「ばっ! 言わないで!」
恥ずかしさの限界を突破し、私は両手でバフッと自分の顔を覆い隠した。
そのまま毛布を頭の先まで被ろうと身をよじるが、凪の大きな手が私の手首を優しく、しかし強引に掴んで引き剥がす。
「ふふっ」
彼が顔を近づけ、私のおでこにチュッと柔らかい朝のキスを落とした。
「起きようよ。朝ごはん用意してくれてるってさ」
私の乱れた髪をワシャワシャと撫でると、凪は身軽な動作で起き上がり、手早く服を着替え始める。
私も毛布の中でモゾモゾと身をよじりながら、慌てて昨日の服を引っ張り込んだ。
着替えを済ませてゲルの外に出る。
澄み切った青空の下、刺すような冷たい空気が肺を浄化してくれるようだった。
木製のテーブルには、遊牧民のお母さんが用意してくれた朝食が並んでいる。
温かいスーテイツァイ(塩味のミルクティー)と、ボルツォグという揚げパン。
「これ、美味しい! 身体あったまる〜」
両手でアルミのマグカップを包み込み、スーテイツァイを一口すする。
独特のミルクの匂いとほのかな塩気が、胃に優しく染み渡っていく。
サクッ、と揚げパンをかじりながらほっこりしていると、少し離れた場所から高い笑い声が聞こえてきた。
視線を向けると、凪が現地の子供たち数人に囲まれ、地面にしゃがみ込んでいる。
「ほら、これ昨日撮った羊。お前んちのやつかな?」
彼は一眼レフカメラの液晶画面を子供たちに向けて、ボタンを操作していた。
言葉こそ通じないものの、画面に映る自分たちの写真や動物たちを見て、子供たちはキャッキャと飛び跳ねて喜んでいる。
凪は純粋で優しい笑顔を浮かべ、彼らの頭をポンポンと撫でていた。
無意識にミルクティーを一口飲む。
夜はあんなに捕食者だったのに、朝は勇者とか。
振り幅がデカすぎる。人狼がすぎるんだよ……。
そのギャップに当てられ、マグカップを持ったまま彼の横顔に釘付けになっていると。
『子供好きなのね、彼』
唐突に、耳元で明菜の声が響いた。
みたいだね。
私は小さく呟くように返した。
『あら? 茉莉子は子供好きじゃないの?』
うーん……好きとか嫌いとかないかも。
『あらそう。まぁ……確かに子供っているだけで面倒くさいものね』
明菜の少し棘のある言葉に、私は首を横に振る。
そういうんじゃないんだよね〜。
『じゃあ、なによ?』
私は少しだけ視線を落とし、カップの底に残ったミルクティーを見つめた。
私ってさ、お兄ちゃんも弟も、もう天国に行っちゃってるでしょ? それで……とかじゃないけど。子供がいても、大人になるまで元気に生きるって確約してないのがね〜。
『なるほどね。なんだかアンタらしい考えね』
そりゃどうも。
明菜の気配がふっと消え去るのと同時に、凪が子供たちに手を振ってこちらへ戻ってきた。
午前九時半。
朝食を終えた私たちは、次の目的地であるウランバートル方面へ向かうため、四駆の車に荷物を積み込んでいた。
「茉莉子さん、忘れ物ない?」
助手席の重いドアを開けながら、凪が振り返って確認してくる。
「うん、大丈夫。……なんか、あっという間だったね」
少し名残惜しそうに、お世話になったゲルを振り返る。
凪は「そうだね」と短く同意すると、スッと私に顔を近づけてきた。
「でも、旅はまだ終わってないから。……今日の夜も、覚悟しといてよ?」
耳元で囁かれた、意味深な響きと吐息のくすぐったさ。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
「ば、ばか!」
一気に顔を真っ赤にして、逃げるように助手席へと滑り込んだ。
バタン! と乱暴にドアを閉め、慌ててシートベルトを引き出す。
窓ガラス越しに見る彼は、最高に楽しそうにウインクをして、悠然と運転席側へと回り込んでいった。
ブルルルゥン!
足元から伝わってくる、エンジンの重低音の振動。
車の揺れに身を任せながら、私は自分に深く刻み込まれた「雨宮凪」という名の強力な永続デバフの重みを、確かな心地よさと共に噛み締めていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:極寒の強制密着イベントを経て、物理的にも精神的にも完全に陥落。家族の喪失トラウマによる防衛本能は健在だが、凪への依存度が急上昇中。
新規獲得アイテム
・【万能発熱ヒーター(雨宮凪)】:どんな極寒環境でも、強制的に体温を上昇させ、理性を溶かしてくるチート級の暖房器具。
・【光と闇の二面性】:夜は捕食者、朝は子供好きの好青年。ギャップ萌えという不可避の精神攻撃。
【明菜の分析ログ】
寒さを言い訳にして毛布に潜り込むなんて、古典的だけど効果抜群のトラップじゃないの。
まんまと引っかかって、一晩中メロメロにされちゃって。
でも、朝に見せたあの少し寂しそうな顔。
トラウマのせいとはいえ、幸せになることを無意識に恐れているアンタの弱さが、この先どう影響してくるのかしらね。
シェイクスピアの言う通り、期待は最高のスパイスよ。
せいぜい最後までこのモンゴル旅行楽しむことね。




