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第九十五記録【大平原の羊ちゃんとフェンリル】



 

 ガタガタガタッ!

 バチバチッ!


 ゲルを出発してから数時間。

 見渡す限りの地平線と抜けるような青空の下を、私たちが乗る四駆は派手な土煙を巻き上げながら爆走していた。

 オフロードを走る極太のタイヤが容赦なく車体を揺らし、弾き飛ばされた砂利が車の底を激しく打ち据える。


 手動のレバーを回して窓を少しだけ開けると、乾燥した風が一気に車内へと流れ込んできた。

 土埃の混ざった匂いが鼻腔を抜け、セミロングの髪がバサバサと大きく宙を舞う。

 乱れた髪を指先で耳にかけ直し、薄く目を細めて、真っ平らな地平線の彼方を見つめ続けた。


 運転席に座る凪は、黒いサングラス越しに前方を真っ直ぐに見据え、片手で分厚いハンドルを軽々と捌いている。

 カーステレオから流れる現地の独特なラジオ音楽と、足元から響くエンジンの低い駆動音。


「車、かなり暴れてるけど痛くない? 大丈夫?」


 ハンドルを握ったまま、凪がチラリとこちらを向く。

 オフロードの揺れに耐える私を気遣うその落ち着いた声が、騒音の中でも心地よく鼓膜を撫でた。


「全然平気! アトラクションみたいで楽しいかも」


 ちょっと酔いそうだけど、私は強がって笑みを返し、再び窓の外へと視線を投げた。


 

 午後一時。


「おっと……マジか」


 不意に、凪がブレーキペダルを踏み込む。

 ギギギ、とタイヤが土を噛む音がして、車がゆっくりと停止した。

 前のめりになりかけた身体をシートベルトが引き留める。


「どうしたの?」


 ダッシュボードに両手をつき、身を乗り出してフロントガラスの向こうを覗き込んだ。


 視界を埋め尽くしたのは、進行方向の平原を完全に塞ぐようにして横断している、信じられないほどの数の羊と馬の大群。

 メェメェ、というのんびりした鳴き声が風に乗って響いてくる。

 モコモコとした白い波が、まるで一つの巨大な生き物のように地平線の彼方まで延々と続いている。


「うわっ、すごい! なにこれ、CG!?」


「……しばらく道、通れそうにないね」


 凪はサングラスを外し、眩しそうに目を細めて笑うと、キーを回してエンジンの駆動を完全に切った。

 ブルン、と車体が最後に一度大きく震え、沈黙が落ちる。

 エンジンの音が消えた途端、広大な静寂が車をすっぽりと包み込んだ。


「せっかくだし、少し休もっか」


 凪の提案に深く頷き、私は重いドアを押し開けて外へ飛び出す。

 ザクッ、とブーツが土を踏みしめた。

 三百六十度を囲む圧倒的な大自然のスケール。


 ドアを開けた瞬間に鼻を抜ける青臭い草の匂いと、無数に動く動物たちの生命力。

 羊の群れが一斉に草を食む、サワサワ、モシャモシャという音が静かな平原に響き渡っている。


 超大規模な羊ちゃんの大群イベント発生じゃん!

 処理落ちしそうなくらいのオブジェクト数! リアル解像度の大自然、ヤバすぎ!

 普段引きこもり令嬢の私でも、テンションがカンストして上がっちまうぜ。

 


 午後一時十分。

 凪が車のトランクから厚手のアースカラーのシートを取り出し、風に飛ばされないよう地面に手際よく敷き始める。

 そこへ遊牧民のお母さんから持たせてもらったパンやチーズなどを置き、即席のランチタイムの準備が整った。


 私がシートの端に腰を下ろそうと膝を曲げた、その瞬間。

 

 コツン。


 背後の車のボンネットから、硬い異音が響いた。

 振り向くと、太陽の光を反射してギラつく紫のピンヒールがそこにあった。


『あらあら、雄大な自然の中でピクニックなんて、絵に描いたような青春ねぇ』


 ボンネットに優雅に腰掛けた明菜が、風で髪をなびかせている。

 彼女は長い指先で一枚のタロットカードを私の目の前へ向けてフリップした。

 シュッ、と空気を切る鋭い音。

 描かれていたのは、夜空に浮かぶ不気味な月と、吠える犬。


『【THE MOON(月)】の正位置。不安定、幻惑、そして……隠された真実を意味するカードよ』


 ジリジリと肌を焦がす日差しの中、明菜の声が響く。


『モンゴルのことわざを知ってる? 「放った矢は戻らないし、口から出た言葉も戻らない」……月が暗示するのは「隠された本心」や「見えない狂気」。彼の無邪気な笑顔の下で、どんな矢が番えられているか、アンタ気づいてるのかしら?』


 私は周囲でシートの準備をしている凪を気にしながら、声を潜めて明菜をジロリと睨みつける。


 また脅し? 狂犬ナギ時代はもう終わったじゃん。


 私が鼻で笑うと、明菜は赤いルージュを引いた唇を歪め、クスクスと肩を揺らした。


『そういう意味じゃないのだけれど……。頭が回らない娘ってやーね……でも一つ言えるのは、狙われた獲物はもう逃げられないわよってこと』


 意味深な言葉を置き土産に、明菜の姿は風に煽られた砂埃と共にフッと空間に溶けるように消え去った。


 また不安を煽るようなことばっかり言い残して消えるんだから。

 たまには私を気遣うようなこと言えっての。

 

 

 明菜の不吉な言葉を頭の片隅に追いやり、私はバサバサと風に煽られるシートの上に座り込んだ。

 硬いパンを両手で持ち、思い切りかじる。

 ボリッ。

 顎の筋肉を酷使する音。


 風に吹かれながら、モコモコと移動していく羊の群れを指差し、私は明るい声を出した。


「見て見て! あの羊、めっちゃ足短い! 歩き方可愛い〜!」


 無邪気にはしゃいでみせるが、隣にいるはずの彼からの返事がない。

 パンをかじったまま振り返る。


 少し離れた場所に座った凪が、大きな一眼レフカメラのファインダー越しに、私を真っ直ぐに捉えていた。

 カシャッ、カシャッ、カシャッ。

 乾いたシャッターの機械音が、連続して響く。


「ちょっと凪! 羊撮りなよ、私なんか撮らないでさー」


 慌ててパンを持った両手で自分の顔を覆い隠す。

 指の隙間から覗き見ると、凪はカメラを下ろそうともせず、ファインダーの奥で楽しそうな笑い声を漏らした。


「無理。羊より茉莉子さんの方が全然可愛いもん。……ほら、もっと笑って」


 カチャカチャとレンズリングを回し、微細にピントを合わせてくる。

 ファインダー越しであっても、彼が自分だけを熱の籠もった瞳で見つめているのがわかる。


 昨夜のゲルの中での重い記憶が蘇り、急激に頬の温度が上昇していく。

 広大な景色の中で、彼という存在だけが異常なほどの引力を持って迫ってくる。

 私は飲み込みきれていないパンの欠片を、ゴクリと大きな音を立てて喉の奥へ押し込んだ。


「もう、やめてってば」


 私が顔を赤くして抗議すると、凪は「はいはい」と満足そうに息を吐き、カメラの電源を切ってシートの上に置いた。

 そして、座ったままズリズリと腰を浮かせ、私のすぐ隣まで一気に間合いを詰めてくる。


「なんですか」


「んーん」


 凪は微笑みながら、スッと長い腕を伸ばした。

 彼の指先が、私の顔のすぐ横を掠める。

 カサッ。

 風で乱れた私の髪に、彼の指が触れる微かな感触。


「茉莉子さん、ほんとそういうとこ隙だらけだよね」


 彼が指先に摘まんで見せたのは、小さな枯れ草だった。

 はしゃいでいる間に髪に絡みついていたらしい。


 小さな枯れ草……よ、よかったぁー……。

 「芋け〇ぴついてるよ♪」なんて言われなくて。

 

 くだらない安堵でごまかそうとするが、草を取るという口実で近づいた彼の顔はすぐ目の前にある。

 フォレストグリーンの瞳が、私の戸惑う顔を逃さず捉えていた。


 鼻腔をくすぐる、昨夜も嗅いだタバコと清潔な男の体臭が混ざった匂い。

 二人の間を、乾燥した風がヒュルリと通り抜けていく。

 ドクンと心臓が跳ね、私は緊張で唇をキュッと引き結び、無意識に瞬きを多くした。

 

「ありがと……」


 視線を逸らして小さな声でお礼を絞り出す。

 凪は摘んでいた草を風に飛ばし、今度はその手を私の頬にそっと添えてきた。

 少し荒れた、熱い手のひら。


「……こんな無防備な顔、みんなに見せたくないな」


 彼の低い声が、大平原の風の音よりも鮮明に鼓膜を打つ。


「え……?」


「このまま、俺が攫っちゃおうか。誰の目も届かないところに」


 冗談めかした軽い口調。

 しかし、至近距離で見つめてくるその瞳の奥には、明菜が突きつけてきた月のカードが示すような、静かで真っ直ぐな、底知れないほどの独占欲がはっきりと宿っていた。


 放たれた目に見えない言葉の矢は、確実に私の胸のど真ん中を深く射抜いている。


「……ばか。もう十分、遠くまで攫われてるよ」


 私が呆れたように、でも少しだけ彼の手に自分の頬を擦り寄せて答える。

 凪は一瞬ハッと目を見開き、そしてたまらないというように目尻を下げて破顔した。


「……反則。それ、絶対他の男に言っちゃダメだからね」


 凪は片手を私の頬から離すと、マウンテンパーカーのポケットから銀色のジッポライターとタバコを取り出した。

 

 火をつけ、口の端から細く紫煙を吐き出す。


「でも、言っちゃうんだろうな……五股お姉さんだもん」


 煙で目をしばしばさせながら、凪がボソリと呟いた。

 その瞬間、心臓を素手で鷲掴みにされたような強烈な焦りが全身を駆け巡る。

 

 私が他のメンズと五股している最低な女だと、彼は全部知っている。

 知った上で、その罪悪感という鎖を使って、私を絡め取ろうとしているのだ。


「ちょ、旅行中にその話、しないでよ……っ」


 血の気が引き、焦る口調で彼の袖を掴む。

 凪はフッと煙を吐き出し、犬歯を見せて意地悪く笑った。


「ごめん、ついつい……ね」


 彼は吸いかけのタバコを持った手を少し遠ざけ、そのまま私の額に、自分の額をコツンと押し当ててきた。

 おでこが触れ合う微かな衝撃。


 ダイレクトに伝わってくる彼の体温に、私は観念して小さく目を閉じた。

 遠ざかっていく羊たちの、メェ、という鳴き声。


 恋人という免罪符もないまま、歪で重苦しい秘密を共有した二人は、風の中で静かにおでこをすり合わせ続ける。

 ウランバートルへの道のりは、甘く重い熱を帯びたまま、さらに加速していく。

 


 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:大自然の解放感で油断したところに、五股の罪悪感を突きつけられ精神的優位を完全に奪われる。


 新規獲得アイテム

 ・【無自覚なカウンター】:照れ隠しの言葉が、逆に相手の独占欲に火をつける凶悪なパッシブスキル。

 ・【五股の十字架】:ふとした瞬間に突きつけられる、プレイスタイルの清算。逃げ場をなくす重いデバフ。

 

 【明菜の分析ログ】


広大なマップで二人きりになった途端、完全にイチャラブ・ピクニックモード……と見せかけて、水面下の牽制エグすぎでしょ。


 彼のあの目、見たでしょ?

 「攫っちゃおうか」なんて冗談めかしてるけど、五股をチクリと刺してくるあたり、獲物を囲い込もうとする執念がジワジワと漏れ出してるわ。


 正式な彼女じゃないからこそ、あんな風に罪悪感で鎖を巻いてくるのよ。

 月のカードが示す「見えない狂気」。


 この旅の終着点で、彼がどんな本性を現すのか……アンタ、ちゃんと受け止める覚悟はできてるのかしらね♡

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