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第九十三記録【渓谷の雨とゼロ距離の心音】





 DAY3

 九月九日。

 午前十時。


 星空の下での、あのヌクヌク羽織密着イベントから一夜。

 昨日はオンボロ四駆に揺られ、広大な大草原をひたすら進む大移動クエストだった。


 いやもう、モンゴルなめてたわ。広すぎ……!

 マップの果てが見えないどころか、変わり映えのしない背景テクスチャが永遠にループしてるんじゃないかってくらい広大だった。

 

 そして迎えたDAY3。

 車が入れない渓谷エリアを観光するため、私たちの移動手段は四輪から四つ足の「馬」へと強制変更されたのだった。

 近くの遊牧民の集落で手配してもらった、赤茶色の毛並みをした小柄な馬。


 私は厚手のネルシャツにスキニーデニム、足元はゴツめのトレッキングブーツという完全アクティブ装備。

 凪とお揃いのアースカラーのマウンテンパーカーは、気温の上昇に合わせて腰にギュッと巻きつけている。


 準備は万端。しかし、私には圧倒的に「運動神経」というステータスが足りない。

 自己評価Gランクの私が単独で馬を操作できるはずもなく。


「ほら、しっかり掴まってて」


 耳元で響く、鼓膜を直接撫でるような低い声。

 私は今、凪が操る馬の鞍の前方にちょこんと座り、背後から彼の長い腕の中にすっぽりと収まる形――いわゆる「二人乗り」状態になっていた。


 パカッ、ポクッ。


 蹄が硬い土を蹴るたび、革の鞍がギシギシと軋む音が股の裏から伝わってくる。

 鼻腔をくすぐる獣特有の温かい匂い以上に強烈なのが、背中越しにぴったり張り付いている凪の胸板の、しなやかで硬い感触だった。


 彼は片手で手綱と私の腰をホールドし、もう片方の手で一眼レフカメラを構え、大地のシルエットをバシャバシャと撮影し続けている。

 馬が大きく揺れるたび、私の腰を支える彼の腕にグッと力がこもる。


「俺から落ちないでね」


 またしても至近距離で落とされる低音ボイス。

 お揃いのブーツが、馬の腹の側面にポスポスと当たる不規則なリズム。


 この強制密着イベント、エグくない?

 心拍数のBPMが限界を突破して、警告アラートが鳴り止まん!


 馬が段差を越えて傾くたび、私は無意識に腰の腕を指先でギュッと掴み返してしまう。

 それでも凪はファインダーから目を離さず、私を支える腕の筋はピクリとも緩まない。絶対的な安定感でホールドし続けていた。


 しばらく進むと、巨大な岩壁が荒々しく切り立つ渓谷の入り口が見えてきた。

 冷たい風が岩肌にぶつかり、ヒューッ、という甲高い音を立てて峡谷の間を吹き抜ける。

 赤茶色の馬がブルルッと鼻を鳴らして足を止めた。


「着いたよ」


 カメラを首に下げた凪が、先に身軽な動作で地面へ飛び降りる。

 ザクッ、とブーツが土を踏みしめる音が響いた。

 彼は私を見上げ、両手を大きく差し出してきた。


「ほら、俺の手につかまって」


 安心させるような柔らかい笑顔。

 よし、降りよう。そう思って高い鞍の上から地面を見下ろした、その瞬間だった。


 グラリと、視界が歪む。


『危ない、お嬢様!』


 脳裏に、鼓膜をつんざくような悲鳴がフラッシュバックした。

 小さい頃、パパが経営するセレブ専用の乗馬クラブでの出来事。

 私のお気に入りだった白馬のマカロンが突然暴れ出し、高く跳ね上げられた体が宙を舞った、あの忌まわしい記憶。


「あっ……」


 喉の奥で息が詰まる。

 視界の端で馬のたてがみが揺れただけで、両足がガクガクと震え始めた。

 差し出された凪の手を掴むことすら躊躇し、鞍の上で硬直してしまう。


 トラウマの映像が脳内を駆け巡り、ギュッと強く目を瞑って唇を震わせる私。


「大丈夫」


 風の音を遮るように、凪の落ち着いた優しい声が届いた。

 そっと目を開けると、彼は両手を伸ばしたまま真っ直ぐに私を見つめ返している。


「絶対に俺が受け止めるから」


 その確信に満ちた言葉に、強張っていた肩の力がフッと抜けた。

 ヒーローの救済アクションへの全幅の信頼。

 意を決して手を伸ばし、鞍から体を滑らせるように降りようとした。



 ――ドンッ!



「きゃっ!」


 最悪なことに、買ったばかりのブーツのつま先が無情にも金属の鐙に引っかかってしまった。

 完全にバランスを崩し、真っ逆さまに落下していく。


 一瞬の無重力。胃がフワッと浮き上がる不快な浮遊感。

 終わった、死んだ。そう覚悟した直後、空中で強い力にぐいっと引き寄せられた。


 落下する私を地面に打ち付けまいと、凪が咄嗟に飛び込んで抱きとめたのだ。

 彼は空中で器用に体を捻り、私を下から庇うような体勢をとる。


 ドスッ! バサバサバサッ!


 枯れ草の上へ倒れ込んだ鈍い衝撃音と共に、土埃がふわりと舞い上がった。


「いっ……たぁ」


 肺から空気が押し出され、くぐもった声が漏れる。

 恐る恐る目を開けると、そこは地面ではなく、温かく硬い何かの感触の上だった。


 状況を把握して、一気に全身の血が沸騰する。

 私は、下敷きになって仰向けに倒れた凪の胸の上に、完全に乗り上げる形で折り重なっていたのだ。

 至近距離の鼻先をかすめる、彼の汗と清潔な柔軟剤の匂い。


「ご、ごめん! 大丈夫!?」


 弾かれたバネのように勢いよく飛び起きる。

 顔を真っ赤にしながら、自分の服についた土をパタパタと払う。布が擦れる音がやけに大きく聞こえた。


 凪も「平気平気」と犬歯を見せて笑いながら立ち上がり、背中の枯れ草を無造作に払っている。

 落下ダメージをゼロにしてくれたヒーローへの感謝で胸がいっぱいになった、まさにその時。



 パチンッ!


 空気を弾くような、生意気な指の音が鳴り響いた。

 振り返ると、風の吹きすさぶ枯れ草の上に、紫のファーコートを着込んだ明菜がスッと宙に浮いて姿を現している。

 彼女の細い指先では、一枚のタロットカードがクルクルと器用に回されていた。


『【THE CHARIOT(戦車)】の正位置。勝利、突進、そして状況のコントロールを意味するわ』


 ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、明菜は私と凪を交互に見比べる。


『あらあら、馬からは無様に落ちたけど、極上のオスの胸板の上にはしっかり着地したじゃないの!』


 なっ……!?


『モンゴルのことわざにもあるわ。「転んだら、ただ起き上がるのではなく、土のひと握りでも掴んで起き上がれ」ってね! アンタはしっかり、年下ワンコの心を掴んで起き上がったみたいだけど?』


 隙あらば恋愛フラグに結びつけようとする悪魔の理不尽な煽りに、耳の先まで一気に熱が集中し、赤く染まっていく。


 煽るな! 悪魔ーっ! こっちは死ぬかと思ったんだから!


「ほら、茉莉子さん。見て」


 虚空に怒っている私を気にする様子もなく、凪がカメラの液晶モニターを向けてくる。

 人工的なバックライトの光が、薄暗い岩陰をぼんやりと照らした。


 画面には、先ほど馬の上から撮影していた渓谷の岩肌のテクスチャが映し出されている。

 荒々しい岩の表面が、光と影のコントラストによって彫刻のように美しく切り取られていた。


「この時間帯特有の光の角度が、岩の立体感を引き出してるんだよね」


 写真家としての熱い解説を聞きながら、私は大自然のスケール感に息を呑み、先ほどの動揺をゆっくりと沈めていった。



 荒々しい岩肌に沿って続く、獣道のような細い足場。

 ゴツゴツとした石が、厚い靴底越しに容赦なく貧弱な足裏を攻撃してくる。


「……っ、ふぅ、ふぅ」


 慣れないオフロードの連続。

 落馬未遂のパニックによる疲労感も重なり、私のスタミナゲージはすでに赤点滅の警告音を鳴らしていた。

 無意識のうちに息が上がり、膝が笑い始めている。


「茉莉子さん、大丈夫? ペース早い?」


 前を歩いていた凪が、ザクッと小石を踏み鳴らして立ち止まり、振り返った。

 重いカメラを下げているのに、その顔には一切の疲労の色がない。涼しい顔で気遣ってくる、無尽蔵のスタミナを持つ年下ワンコ。


 ここで泣き言を言えば、またヒョイとお姫様抱っこでもされかねない。


「ぜんっ、ぜん、余裕。景色、最高だねー」


 息も絶え絶えに、引き攣った笑顔を貼り付ける。


「嘘ばっかり。すっごい息上がってるよ」


 凪は呆れたように苦笑すると、少し戻ってきて、そっと私の背中に手を添えてくれた。

 その手の温かさにほんの少し体重を預けながら、さらに数十歩ほど斜面を登り切る。


 不意に、ヒヤリとした強めの風が、汗ばんだ首筋を心地よく撫でていった。

 視界を遮っていた切り立った岩壁がふっと途切れる。

 そこは、眼下に荒々しい渓谷のパノラマがどこまでも広がる、テラスのような開けた空間だった。


「うわぁ……」


 乾いた風が運んでくる、土と岩の匂い。

 絶景に到達した達成感に、私は細く息を吐き出した。


「あそこ、ちょうど休めそうだね」


 凪が指さした先には、テーブルのように平らな手頃な大きさの岩が転がっている。

 私たちはそこに歩み寄り、二人並んで腰を下ろした。


「よい、しょっと……」


 座った瞬間、太ももとふくらはぎの筋肉がホッと安堵の悲鳴を上げる。

 ひんやりとした岩の硬い感触が、デニム越しにジワリと火照った体を冷ましてくれた。


「ふぅ……」


 凪がおもむろにマウンテンパーカーのポケットから銀色のジッポライターとタバコの箱を取り出す。

 シュボッ。

 フリントを擦る硬質な音と共に、小さなオレンジ色の炎が揺れた。


 タバコの先端に火を移すと、目を細めて深く煙を吸い込み、空に向かって細く紫煙を吐き出す。

 風に乗って流れてくる、タバコの煙と香水が混ざった、少し危険な大人の匂い。

 その横顔を眺めながら、私はふと気になったことを口にした。


「そういえばさ、凪ってタバコいつから吸ってんのー?」


 軽い興味本位の質問。

 凪はタバコを指に挟んだまま、フッと犬歯を立てて面白そうに笑った。


「うーん……十五歳からかな?」


「じゅうご!?」


 あまりの数字に目をまん丸に見開き、勢いよく彼に向かって人差し指をビシッと突きつける。


「十五って中学生じゃん! ヤンキー! やっぱ元ヤンじゃん!」


 私の全力のツッコミに、凪は声をひっくり返して楽しそうに笑い出す。

 ふぅーっ、と再び白い煙を吐き出しながら、悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「ははっ、まぁ、それは否定できないな〜」


 笑い声の余韻を残したまま、凪はゆっくりと立ち上がった。

 そして、岩に座っている私の前へと無言で歩み寄ってくる。


 彼はタバコを持つ方の手を、私の顔のすぐ横の岩にドンッと突き、逃げ道を塞ぐように上から覗き込んできた。


「えっ……」


 影が落ちる。

 伏せられた睫毛の奥にある瞳が、獲物を捕らえるように私を真っ直ぐに射抜いていた。


「でも……タバコの煙がするキス、好きでしょ?」


 甘く、それでいて鼓膜を痺れさせるような危険な低音。

 そのまま、彼がゆっくりと顔を傾けてくる。タバコとほのかなミントの匂いが混ざった吐息が、鼻先をかすめる距離。

 

 私は息をするのも忘れ、無意識のうちにキュッと目を閉じかけた。

 まさに、その唇が触れ合うかという寸前だった。



 ポツッ……。



「冷たっ!」


 私の熱くなった頬に、氷のように冷たい水滴が一つ、唐突に落ちてきた。

 急激な温度変化にハッと目を見開き、反射的に肩をビクッとすくませる。


 凪も動きを止め、二人で同時に空を見上げた。

 いつの間にか、頭上には墨汁をひっくり返したような分厚い黒雲が、渓谷の空をすっぽりと覆い隠していた。


 ポツッ、ポツポツ、バラバラバラッ!

 大粒の雨が、乾いた岩肌を叩きつける音が一気に周囲を満たした。

 


 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:トラウマによるパニック状態からの、吊り橋効果による心拍数上昇。


 新規獲得アイテム

 ・【落下ダメージ無効の胸板】:どんな体勢から落ちても、年下ワンコが身を挺して下敷きになってくれる都合の良いパッシブスキル。

 ・【強制中断の雨粒】:甘いムードを物理的に粉砕する天候デバフアイテム。


 【明菜の分析ログ】


あらあら、落馬のトラウマでガクブルしてたお姫様が、ワンコの胸板にダイブしてあっさりデレちゃうなんてね。チョロすぎでしょ。


 おまけに元ヤンカミングアウトからの「タバコの煙のキス」宣言。

 まんまと目を閉じちゃって、いいご身分じゃないの。


 まあ、天の恵み(ゲリラ豪雨)のおかげで寸止めになっちゃったけど。

 この雨宿りで、さらに濃密な密室イベントが発生する予感しかしないわね。


 せいぜい風邪ひかないように。

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