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第九十二記録【反射した夜空】





 DAY2

 九月八日。

 午前四時三十分。

 

 深夜にローカル駅で寝台列車を降りてから、一体どれくらい経っただろうか。

 凪が事前に手配していた、軍用車両のようなオンボロ四駆バンに激しく揺られ、私たちはようやく目的の遊牧民のゲル集落に到着した。

 

 ガチャン、と重々しい鉄のドアを開けて外に降り立つ。

 途端に、氷点下の張り詰めた冷気が一気に顔を刺してきた。

 鼻を突くのは、四駆が吐き出す排気ガスとエンジンの無骨な匂い。


「数日後の移動もこの四駆でお願いしてるから」


 凪が運転手の現地男性にチップの紙幣を渡し、流暢な英語でやり取りをしている。

 その声を横目に聞きながら、私は思わずお揃いのアースカラーのマウンテンパーカーの襟元をギュッと引き寄せた。


 肺が痛くなるほど冷たい空気を吸い込み、白い息を長く吐き出す。

 足元では、霜の降りた枯れ草がサクサクと乾いた音を立てていた。


 かじかんだ両手を擦り合わせ、パーカーのポケットに深く突っ込む。

 ポケットの中でスマホの硬い感触に触れ、何気なく取り出して真っ暗な画面を親指でスワイプした。

 ロック画面に浮かび上がったアンテナのマークは、見事なまでに圏外を示している。

 

 おー、見事にWi-Fiゼロ。私のネット回線が完全に切断されたじゃん。

 まぁ、いっか。たまには強制オフラインのゆる旅ってことで。


 私はあっさりと現実を受け入れ、スマホを再びポケットの奥底へと沈めた。

 遠くで微かに聞こえる羊の鳴き声と、集落のどこかで焚き火がはぜるパチパチという音。


 それ以外は何もない、圧倒的な静寂を深呼吸して味わう。

 通信エラー(圏外)なんて、この広大なマップの前では些細な仕様だ。

 

 

 少し歩いて、集落の広場のような場所で燃えている焚き火のそばに近づく。

 パチ、パチッ。

 ジリジリとした熱が、凍てついた顔の表面だけを炙るように温めてくれた。


 火の粉が舞い上がり、それを避けるために少しだけ目を細めた、その瞬間。


 足元の枯れ草の上に、明菜が立っている。

 チカチカと明滅する光の中から、厚手のロシアン帽に紫のボリュームたっぷりなファーコートという、防寒バッチリの姿。


 しかもその手には、なぜか湯気を立てる熱々のお茶が入った木組みのカップまで握られていた。


『さぁ、無事にセーブポイント到着よ。今回のカードは……これね』


 明菜は優雅にお茶を啜ると、スナップを効かせた手首の動きで、空中に二枚のタロットカードを連続して投げ展開した。


『【THE HERMIT(隠者)】と【THE STAR(星)】の二枚。文明からの隔離を示す隠者と、文字通り頭上に輝く希望の星。モンゴルのことわざにもあるわ。「急いで行く者は転ぶ、ゆっくり行く者は遠くまで行く」ってね』


 明菜はパチンとウインクを飛ばす。


 何それ、モンゴル版の『急がば回れ』ってやつ?

 確かに、Wi-Fi探して暗闇を走り回ったら普通にすっ転びそうだしね。ゆっくり星でも見てろってこと?


 焚き火に手をかざしたまま、私は余裕たっぷりにツッコミを返した。

 

『あら、意外と素直じゃない。アンタのことだから「私の電波を返せ!」って泣き喚くかと思ったのに』


 昨日でもう慣れた。こういうハードな環境にもね。


 肩をすくめて笑い合う。

 焚き火の熱と明菜との軽い掛け合いが、冷え切った体を少しだけほぐしてくれた。

 満足げな笑みを浮かべて明菜がフッと姿を消した後、私は言われた通りにふと頭上を見上げた。


「うわぁ……」


 純粋な感嘆の声が、白い息となって夜空に溶けていく。

 そこには、プラネタリウムでも見たことがないような、視界を埋め尽くす圧倒的な星屑があった。


 肉眼ではっきりと帯状に見える天の川が、黒いキャンバスを分断するように流れている。

 星の瞬きがチカチカと目に映り、見上げすぎて首の筋が痛くなるのにも構わず、私はその美麗グラフィックの背景に見入っていた。


 カシャッ、カシャッ。


 不意に、少し離れた暗がりから、リズミカルで硬質なシャッター音が聞こえてきた。

 音のする方へ目を向けると、焚き火の光が届かない闇の境界で、凪が本格的な三脚を立てている。


 彼は首までパーカーのジッパーを上げ、白い息を吐きながら、焚き火に照らされるゲルのシルエットと満天の星空を夢中で撮影していた。

 いつもの完璧な秘書の顔でも、人懐っこい年下ワンコの笑顔でもない。

 純粋に被写体と向き合う、「写真家」としての真剣な横顔。


 その静かな情熱に惹きつけられ、私は足音を消すためにつま先から慎重に地面を踏みしめながら、ゆっくりと彼に近づいていった。

 


 凪の背後、あと数歩という距離まで近づいた時だった。

 氷点下の外気に晒され続けた身体が限界を迎え、ブルッと大きく震えてしまう。

 その拍子に、足元の小石をカツンと蹴り飛ばしてしまった。


 乾いた音が静寂を破る。

 ファインダーから目を離した凪が、振り返った。


「どうしたの? お腹すいた?」


 彼が動いたことで、冷えた柔軟剤の清潔な匂いが微かに風に乗って香る。

 真剣な表情から一転、柔らかく微笑みかけてくるその顔に、私は寒さでカチカチと鳴りそうになる歯の根を、顎に力を入れて必死に抑え込んだ。


「お腹は少し……こんな氷点下なのに元気だねー」


 よーしよーしと頭をワシャワシャと撫でてあげた。

 

「星がすごくて。写真家の天国だよ、ここは」


 目を輝かせる凪。


「確かに、加工アプリいらないレベルの星空」


 私が空を見上げながら両腕をさすっていると、凪は三脚からカメラを外し、ダイヤルをカチカチと回して設定を変える。


「でも、すごく震えてる。無理しないで火のそばで暖まってればよかったのに」


 彼が心配そうに眉を下げる。


「せっかくの絶景だし、少しくらい見たいじゃん」


 笑って強がってみたものの、再び吹き抜けた強めの冷たい風に、今度はガタガタと派手に震えてしまった。

 それを見た凪は、首からカメラを下げたままスッと一歩距離を詰めてくる。


「しょうがないなぁ」


 優しく笑うと、彼は自分の着ている大きめマウンテンパーカーの前をバサッと広げた。


「はい、俺のパーカーの中にどうぞ」


 両腕を広げ、私を招き入れるポーズをとる凪。


「えっ、いや、さすがにそれは……」


 一瞬ためらう。いくらなんでも密着度が高すぎないか。

 しかし、パーカーの中から漏れ出てくる圧倒的な熱気と、「風邪ひいちゃうよ。ほら、おいで」という彼の穏やかな声に、私の貧弱な抵抗力はあっけなく崩れ去った。


「……じゃあ、ちょっとだけ、お言葉に甘えて」


 小動物のようにコソコソと小股でステップを踏み、彼の胸元へ潜り込む。

 回復アイテムの誘惑には勝てない。変な動揺よりも、温かさという物理的バフを優先するのはゲーマーとして当然の判断だ。


 凪の大きなパーカーの中にすっぽりと収まると、背中から彼にガッチリとホールドされる形になった。

 まるでお揃いの防具を、二人で一つ共有しているような不思議な感覚。


「あったか〜い」


 変に緊張することもなく、私は完全に脱力して凪の胸に体重を預け、心底リラックスした声をもらした。

 温かさに思わずふにゃぁと肩の力が抜ける。


 凪は苦笑しながらも、私の頭の上に自分の顎をちょこんと乗せた。


「でしょ? 茉莉子さん専用だからね」


 嬉しそうな声と共に、背中を包み込む腕が少しだけリズミカルにポンポンと叩かれ、抱きしめる力が微かに強まる。

 背中越しに伝わってくる、凪のドクン、ドクンという力強い心音。

 息を吐くたびに頭頂部をかすめる、彼の吐息の温かさ。


 寒さは完全にシャットアウトされ、極上の温もりの中で、私たちは同じ方向――満天の星空――をのんびりと見上げていた。


 HP全回復の温泉エリアに入った時のような極上のリラックス状態。変な意識を持たず、純粋にこのゆる旅エンジョイしてるじゃん、私。

 

「あ、流れ星」


 私が指を差すと、凪も「本当だ」と相槌を打つ。


 平和で穏やかな時間が流れる中、不意に凪が右手を動かし、首から下げていた一眼レフカメラを片手で構え直すのが分かった。

 カチャカチャと、レンズのピントリングを回す微かな摩擦音が響く。


「シャッターチャンスだね」


 星空を撮るのだと思い声をかけると、凪は「うん」と短く答えた。

 しかし、彼がカメラを向けた先は、夜空の天の川でも、焚き火に照らされるゲルでもなかった。


 片手で私を抱きしめたまま、もう片方の手でカメラを器用に下に向けている。


 カシャッ、カシャッ。


 至近距離で鳴るシャッター音の振動が、凪の胸骨から直接背中に伝わってくる感覚。


「え、そっち撮るの?」


 私は不思議そうに見上げた。

 レンズは間違いなく、彼の胸の中でぬくぬくと温まり、星を見上げて無防備に笑っている私の横顔に向けられていた。

 絶景の背景素材よりも、私を優先するプレイスタイルかよ。


「ちょっと、星空撮らないの? こんな絶景なのに」


 苦笑いしながら尋ねると、凪はカメラを少し下げた。

 ファインダー越しではなく、直接私の目を見つめ下ろしてくる。


 先ほどまでの写真家としての真剣な目から、すっと熱を帯びた瞳に切り替わっていた。


「絶景はもう十分撮ったよ。今は……俺の腕の中で油断してる茉莉子さんの方が、ずっと魅力的な被写体だから」


 至近距離で交差する視線の熱。

 気温は氷点下なのに、顔周りだけがぽっぽと火照る感覚に襲われる。

 不意打ちの甘いセリフによる微かな動揺。


「またそういうこと言って」


 照れ隠しで少しだけ口元を手で覆い、軽くかわそうとする。

 でも、彼の真剣な眼差しと、パーカーの中で密着した体温のせいで、少しだけ頬が熱くなるのを誤魔化せない。

 

「怒った?」


 凪が少しだけ顔を覗き込むように、瞳孔を微かに開いて聞いてくる。

 私は小さく息を吐き、パーカーの中で彼の腕にポンポンと軽く触れた。


「怒ってないよ。いくらでも撮らせてあげる」


 その言葉を聞いた凪は、嬉しそうに笑う。

 再び私の髪や横顔に、遠慮なくレンズを向け始めた。


「あ、でも変な顔は消去してよ!」


「無理、全部俺のSDカードの宝物にするから」


「データ管理の権限は私にもあるんですけど!」


 カメラを向けられて、私はわざとらしくピースサインを作ってみせる。

 それを見て、凪が堪えきれずに吹き出し、肩を揺らした。


 笑い合う二人の声が、静かな草原に低く吸い込まれていく。

 冷たい風の中の、パーカー内という小さな密室の絶対的な安心感。

 過酷なサバイバル環境と引き換えに手に入れた、この穏やかで満ち足りたイベント。


 他愛のない、ゆるくて心地よい掛け合いが星空の下で続いた。


 二人でじゃれ合っているうちに、時刻は午前5時30分を回っていた。

 ふと地平線の彼方を見ると、深い群青色だった空の端が、紺色から薄紫、そして淡いオレンジへとグラデーションを描き、ほんのりと白み始めている。


「あ、朝が来るね」


 私が呟くと、凪はカメラを下ろした。


「今日の移動も長いから、そろそろゲルに戻って少しでも寝ようか」


 名残惜しそうにパーカーの中から抜け出す。


「そうだね。次も期待してる」


 私が笑いかけると、凪は三脚を畳みながら力強く頷いた。


「任せて。最高の旅にするから」


 朝になりかけの澄んだ空気の中、朝露が降り始めた枯れ草の微かな湿り気の匂いが漂う。

 私たちは並んで、焚き火の煙が細くたなびく遊牧民のゲルへと静かに足を踏み入れていく。

 

 

【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・現在のステータス

 ・状態:人狼の甘い言葉に対する耐性が低下中。


 所持スキル(パッシブ)

 ・【ゲーマーの合理性】:恥ずかしさよりも物理的な利益(温かさ)を瞬時に優先できる判断力。ただし、その後の密着による動揺までは計算できていない。

 

【明菜の分析ログ】


 いい雰囲気じゃないの。

 圏外の草原で年下ワンコのコートに潜り込んで星空デートなんて、絵に描いたようなロマンスね。


 でも油断は禁物よ?

 昼間は優しくて温かいワンコでも、夜になればどんな狂犬の顔を見せるか分からないんだから。


 この「ゆる旅」の空気がいつまで続くか、楽しみね♡

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