第九十一記録【解像度を増してく思い出】
DAY1
九月七日。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
等間隔で響く重々しい鉄の軋みが、薄いマットレスを貫通して脳髄を直接揺さぶってくる。
「んん、あれ……ここどこ」
鉛のように重い瞼をゆっくりと押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、鼻先すれすれにある煤けたような薄暗い天井だった。
身をよじって起き上がろうとした瞬間、背中から腰にかけて、バキバキと音が鳴りそうなほどの鈍い痛みが走る。
「いったぁ……っ」
思わず顔をしかめ、硬いマットレスの上に丸まる。
ズキズキと痛む眉間を指で揉みほぐしながら、視線だけを動かして周囲を確認した。
狭い四角い箱のような空間。
両壁に造り付けられた二段ベッドの、私は上段に寝かされているらしい。
シーツからは、長年染み付いたホコリっぽさと、古めかしい石炭のツンとした匂いが立ち上ってくる。
普段、高級エルゴノミクスチェアとふかふかの特注ベッドに甘やかされきった私の貧弱な肉体は、この拷問器具のような寝床に悲鳴を上げていた。
最悪の初期リスポーン地点じゃん。
こんなチュートリアルなしの過酷なサバイバル環境、お嬢様設定の私に楽しめるかい。
脳内で盛大に毒づきながら、痛む腰をさすって小さくため息をつく。
羽田を出発し、北京でのトランジットという長時間の移動クエストをこなし、十数時間。
パパが満面の笑みで送り出してくれたあの愛しい我が家の玄関が、はるか昔のことのように思える。
不意に、車内の薄暗がりの中で紫色の光が明滅した。
チカチカする光の粒子の中から現れたのは、タイトな紫のミニスカスーツに身を包んだ悪魔キューピッドの明菜。
なんと彼女は、ホコリまみれの狭い床――下段ベッドと下段ベッドの間のわずかな隙間――にゴロンと寝転がったまま、艶やかな唇を大きく開けて大欠伸をしているではないか。
『うるさいわね〜。せっかくいい気持ちで寝てたのに、起こさないでちょうだい』
いや悪魔のくせに寝るんかよ!
ていうか、なんでこの最悪な環境で爆睡できるのよ!
私の猛烈なツッコミを涼しい顔で受け流し、明菜は床に寝そべったまま呆れたように肩をすくめる。
『アンタだって、さっきまで口をぽっかーんって開けて爆睡してたじゃない』
そ、それは……っ
図星を突かれ、キュッと唇を尖らせて視線を泳がせる。
理不尽な悪魔の仕様に苛立ちを覚えつつ、言い返す言葉が見つからず息を詰めていると。
すぐ真下、向かいの下段ベッドから、シーツが大きく擦れる音がした。
「おはよう」
寝起き特有の、低くてハスキーな声。
上段のベッドからそっと身を乗り出して下を覗き込む。
そこには、黒髪に盛大な寝癖をつけた凪が、下段のベッドに上半身を起こし、目をこすっているところだった。
「おはよう」
私が強張った声で上から返事を落とすと、彼は私の痛みに歪む顔と、自分が座っている硬いベッドを交互に見比べる。
そして、ふにゃりと眉をハの字に下げた。
「ごめんね、やっぱ寝心地悪いし、嫌だったよね……」
まるで飼い主に叱られた子犬のように、きゅーんと口を尖らせる。
下から上目遣いで私を見上げてくるその後ろに、パタンと垂れ下がった幻の尻尾まで見えた。
出たよ、あざとい人狼のデバフ攻撃。
悪魔の理不尽仕様だけでも腹立つのに、これ以上私のメンタル削らないでよ。
脳内では激しく警報が鳴り響いているが、その可哀想すぎるワンコポーズを目の当たりにして、私の口は勝手に動いていた。
「な、なわけないじゃん! た、楽しみ〜!」
声が完全に裏返る。
無理していると悟られないよう、頬の筋肉を総動員して、顔面に不自然なほどの笑顔を貼り付けた。
「ほんと? よかった」
パッと花が咲いたように顔を輝かせた凪は、ベッドから長い脚を床に下ろす。
「ちょっと風に当たってくるね」
スライド式のドアを開け、彼がコンパートメントを出て行く。
ドアがピシャリと閉まった瞬間、私はドッと肩の力を抜き、深く息を吐き出した。
あっぶな。選択肢ミスで好感度爆下がりするかと思った。
反射的なコマンド入力に冷や汗をかきながら、上段ベッドの狭いスペースで身をよじり、リュックから真っ白なロングTシャツを取り出す。
寝転がったままモゾモゾと急いで着替え、サラッとした真新しい布の感触に少しだけホッとしたのも束の間。
ふと袖口を見ると、壁の塗装に擦れたのか、すでにうっすらと黒い汚れが付着していた。
うそでしょ、私の白Tの耐久値がマッハで削られていくんだけど。
初期装備の選択完全に間違えた最悪〜!
指先でピンピンと弾いて汚れを落とそうとするが、無駄な抵抗に終わる。
ホコリの舞う微かな空気の重たさが、容赦なく異国の現実へと引き戻していた。
着替えを終えた私は、備え付けの小さな金属製の梯子に足をかけ、軋む音を立てながら下段へと降りた。
スライドドアを開けると、人が一人やっと通れるほどの狭く薄暗い通路が車両の奥まで伸びている。
壁伝いに揺れに耐えながら歩き、車両の端にあるデッキ(連結部)の重たいドアの取っ手に手をかけた。
ガシャ、という重たい金属音を響かせ、ドアを開ける。
開け放たれた小窓から、モンゴルの冷たい夜風が勢いよく流れ込んできた。
風の通り道に立っていたのは、片手でタバコを挟み、窓の外を眺めている凪の姿。
さっきまでの可愛い笑顔はどこにもない。
紫煙を細く吐き出すその横顔は、鋭いEラインを描き、伏せられた目元にはゾクッとするような大人の男の色気が漂っていた。
カッコいいな、おい! ラインエグいし、目元エロいし……やっぱ旅行来てよかった。
現金なガッツポーズを脳内で決めていると、気配に気づいた凪がこちらを振り返る。
タバコを携帯灰皿に押し付ける長い指の動き。鼻腔をくすぐる、タバコの煙と微かな香水が混ざった匂い。
彼は、私が白Tシャツの上に羽織ってきたアースカラーのマウンテンパーカーを見ると、犬歯を覗かせてニッと笑った。
「2人してペアっぽくていいね」
無邪気なその言葉に、私は無意識にパーカーの裾をギュッと握りしめていた。
「そうだね」
表面上は適当に相槌を打ちながらも、内心は穏やかじゃない。
ペアルックとか陽キャの極みかよ。
大樹のときもそうだったけど、強制お揃い装備は陰キャのHPをゴリゴリ削ってくるんだよぉぉ。ドキドキが増しちゃうじゃん。
心臓の拍動が早まるのを悟られないよう、私はそそくさと身を翻す。
「ほら、戻るよ」
凪の背中を軽く押し、再び狭い通路を引き返して、自分たちのコンパートメント(部屋)へと戻った。
スライドドアを閉めて部屋に戻るなり、凪は首から下げていた愛用の大きな一眼レフカメラを構え始めた。
カシャッ、カシャッ、と小気味良い機械音が狭い空間に響く。
レトロな車内の質感や、天井で揺れるランプの薄暗い光を、彼は熱心にファインダーに収めていく。
「見て、茉莉子さん」
私が下段ベッドをソファ代わりに腰を下ろしていると、凪に促された。
言われるまま窓ガラスに顔を近づけ、外を覗き込む。
ひんやりとしたガラスから伝わる冷気が、頬を微かに刺す。
「すごい……何も、ない」
思わず息を呑んだ。
街灯一つない、果てしなく続くモンゴルの大草原。
地平線の彼方まで、黒い海のような大地が広がり、それを青白い月明かりだけが静かに照らし出している。
圧倒的な静寂。
巨大なオープンワールドのマップに初めて足を踏み入れた時のような、畏怖と、震えるほどの高揚感が胸に込み上げてきた。
カシャッ。
すぐ耳元でシャッター音が鳴る。
振り返ると、凪がファインダー越しに私を見つめていた。
その瞳は、レンズの奥でねっとりとした熱を帯びている。
「うん、旅の始まりの匂いがするね」
低く、ひどく独占欲を孕んだ声が鼓膜を打った。
そのまま凪はカメラを下ろすと、私が座っている向かいの下段ベッドにドカッと腰を下ろす。
ただでさえ、人が一人通れるかどうかの狭い通路を挟んだ二段ベッド同士。
長身の彼の長い脚が伸びてきて、コツン、と私の膝に鈍い感触が走る。
お揃いのマウンテンパーカー越しの物理的な接触。
「ちょっ、狭いってば」
膝を引いて抗議しようとしたが、凪は足を引くどころか、あえて押し付けてくるようにグッと膝同士の距離を詰めてきた。
そればかりか、彼は向かいのベッドに座ったまま、長い腕をこちらへ伸ばしてくる。
「茉莉子さん、埃ついてるよ」
言いながら伸ばされた彼の手が、私の肩口に触れる。
そのまま、指先がスッと首筋の素肌を撫で上げた。
火傷しそうな熱に、私はビクッと肩を震わせ、無意識に喉を鳴らす。
するとパァン! と、空気を叩くような乾いた音が響いた。
びくりと肩を震わせて見上げると、明菜が通路の空中に浮かび上がり、両手をポンポンと叩いている。
彼女のピンヒールの先で、一枚のタロットカードが恭しく回転して掲げられた。
『【THE FOOL(愚者)】の正位置。無計画な旅立ちと、未知への飛び込みの象徴よ』
無計画な旅立ち?
凪による完璧なスケジュールの間違いなんじゃないの?
私が脳内で抗議すると、明菜はニヤリと妖艶に微笑んだ。
『モンゴルの英雄、チンギス・ハーンは言ったわ。「行動の価値は、それを最後までやり遂げることにある」ってね! さぁ、アンタもこの身の危険を感じる密室旅行、最後までやり遂げてみなさい!』
チンギス・ハーンね……なーんか聞いたことある名前だな。
明菜の甲高い声が消え去った、次の瞬間だった。
「ねぇ、茉莉子さん」
向かいに座っていたはずの凪が、不意に腰を浮かせ、狭い通路を跨ぐようにして私の真上へと上体を乗り出してきた。
「えっ……」
声が出るより早く、彼の両手が私の座るベッドの縁、私の両脇をドンッと塞ぐ。
いわゆる、逃げ場のない密室での『壁ドン』ならぬ『ベッド・ドン』。
「俺と二人きりの旅、本当はドキドキしてるでしょ?」
狂犬が、私のパーソナルスペースという結界を易々と踏み越え、至近距離で囁いてくる。
上から覆い被さるように顔を近づけられ、ドクン、ドクンと耳の奥で自分の心音がうるさいほどに響く。
彼の甘い吐息が前髪を揺らす。
そして、わずかに顔を傾けた彼の熱い頬が、私の頬に触れるか触れないかのスレスレの距離を掠めた。
思考が完全にショートしそうになる。
強がるためにグッと奥歯を噛み締め、私はプイッと横を向いて彼の視線から逃げた。
「バ、バカ言わないでよ」
震えそうになる声を必死に抑え込む。
だが、ぴったりとくっついたままの膝の感触と、首筋に残る熱、そして顔の横にある彼の頬の気配だけが、神経を通って脳に鮮明なエラー信号を送り続けていた。
視線を逸らした先の暗い車窓。
そこには、お揃いのパーカーを着用し、狭い空間で身を寄せ合う、どこからどう見ても「バカップル」にしか見えない私たちの姿がくっきりと映り込んでいる。
あーあ……なんかもう、いっか。
ここまできたら楽しむしかないよね。
小さく息を吐き出すと、ガチガチに強張っていた肩の力が少しずつ抜けていくのを感じる。
そう感じた瞬間、いつの間にか、ガタンゴトンという列車の揺れが心地よいリズムに変わっていた。
私が少しリラックスしたことに気づいたのか、凪はフッと微笑み、私の両脇から腕をどけて、スッとベッドへと体勢を戻した。
急に彼が離れたことで、圧迫感と共に、膝の表面にあったわずかな温度の喪失感が生じる。
「明日からは、もっとすごい景色が見れるよ。俺のカメラのSDカード、全部茉莉子さんで埋めちゃおうかな」
カメラのプラスチックボディをぽんぽんと叩きながら、無邪気な笑顔で恐ろしいほどの独占欲を口にする凪。
「……風景もちゃんと撮りなよ、カメラマン」
私は呆れたようにツッコミを入れながらも、自分の口元が自然と綻んでしまうのを止められなかった。
厄介な年下ワンコ君だけど、なんだかんだ言って悪い気はしない。
暗い車内で二人の視線が交差し、互いの存在を確かめ合うような、静かで熱の籠もった時間が流れる。
「じゃあ、もう一回寝よっか。明日は朝早くから移動だからね」
カチッ。
凪が壁のランプのスイッチを切り、車内は再び月明かりだけの薄暗闇に包まれた。
私は梯子に足をかけ、ギシギシと音を立てながら上段ベッドに上がる。
硬いマットレスの上に身を横たえ、毛布を顎の下までギュッと引き上げて、目を閉じた。
すぐ真下からは、凪の静かで規則正しい寝息が聞こえてくる。
暗闇の中で研ぎ澄まされた聴覚が、その音を正確に拾い上げる。
目を閉じても、先ほどのタバコと香水の匂いや、膝が触れ合った時の火照りが鮮明に蘇ってくる。
……初日からこれじゃ、私のHP、最終日までもたないんじゃないの。
必死に休息をとろうと試みるものの、瞼の裏に凪の熱っぽい横顔が何度もチラつき、ちっとも眠気がやってこない。
明日から始まる本格的なサバイバル旅への不安と、それを上回るほんの少しの期待を抱きながら、私はトランス・モンゴリアン鉄道の揺れに身を委ね続けた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・現在のステータス
・魅力:A(お揃いパーカーによるバカップル補正)
・メンタル:C(魅了の継続ダメージにより睡眠不足)
・状態:陽キャお揃い装備アレルギー発症中。ただし、ハードモード環境への適応処理は完了。
所持スキル(パッシブ)
・【限界オタクの虚勢】:どれだけパーソナルスペースを侵略されドキドキしていても、表面上は引き攣った笑顔とスンッとした態度を維持できる。ただし内部の処理は常にパンク寸前。
【明菜の分析ログ】
あーらら、着いて早々ポンコツっぷりを晒してるわね。
心の声もダダ漏れだし、年下ワンコのちょっとした接触で心拍数爆上がりじゃないの。
お揃いのパーカー着て照れ隠しとか、見てるこっちが恥ずかしくなるわよ。
ま、チンギス・ハーンも言ってた通り、乗りかかった船(列車)なんだから、最後までその重苦しい愛に耐え抜いてみなさい。
せいぜい途中でゲームオーバーにならないように祈ってるわよ、マリコ♡




