第九十記録【BlackMirotic】
ザッ、ザッ。
砂浜を荒々しく蹴り上げる重い足音が、やがてアスファルトを踏みしめる硬い音へと変わる。
撮影現場のスタッフたちの目から逃れるように、強引に私の手首を掴んだまま進んだユンジンは、海沿いの人気のない路地裏へと私を引きずり込んだ。
夕暮れの生ぬるい湘南の海風が、狭い路地をねっとりと通り抜けていく。
潮の香りに混じって、どこからかソースが鉄板で焦げる匂いと、ドンドン、ピーヒャラという微かなお囃子の音が聞こえてきた。
「……はぁ、はぁっ。ちょっと、ユンジン……歩くの、早いってば……」
私が息を切らして抗議すると、彼はようやく足を止め、乱暴に私を路地のコンクリート壁へと押し付けた。
目の前に立つ彼は、白のリネンシャツの胸元を大きくはだけさせたまま、荒い息を吐いている。
完璧なモデルとしての仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、嫉妬と独占欲で理性を焼き切られそうになっている不器用な一人の「男」がいた。
彼は肩に掛けていたボストンバッグのジッパーを荒々しく引き開け、黒のキャップと黒縁の伊達メガネを素早く取り出すと、自身の顔を隠すように深く装着した。
完璧な変装。しかし、その奥にあるダークブラウンの切れ長の瞳の熱だけは、少しも隠しきれていなかった。
『あらあら、遠くから楽しそうな音が聞こえてくるじゃない』
ふわりと、路地裏で埃を被った室外機の上に明菜が舞い降りた。
彼女は紫のミニスカスーツの裾を揺らしながら、空中に二枚のタロットカードを滑らせるように展開する。
燃え盛る情熱を示す【WANDSのA】と、群衆の中の秘密を示す【SEVEN of SWORDS(剣の7)】。
『ウィリアム・シェイクスピアは言ったわ。「恋の激しい喜びには、激しい終わりがある。火と火薬がキスするように」ってね。……近くの神社で、遅めの夏祭りをやってるみたいよ。変装した完璧な彼と、お祭りでの秘密の逢瀬。これ以上の胸熱イベントはないわね』
明菜が、長い爪でカードを弾いてニヤリと笑う。
お祭り!?
言われてみれば、確かに色鮮やかな浴衣姿のカップルたちが、路地の向こうの大通りを連れ立って歩いていくのが見える。
マジか! 期間限定の神イベント発生じゃん!
パパの権力で強制的に延長されたこの「長すぎるお盆休み」の恩恵を、まさかこんなベタなシチュエーションで消費できるなんて。私のゲーマー脳が一気に歓喜のファンファーレを鳴らした。
「あのさ、ユンジン。あっちの神社で、お祭りやってるみたいなんだけど……」
私が少し上目遣いで、おねだりするように彼のリネンシャツの裾をちょこんと摘む。
伊達メガネの奥の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
「……人が多いところは、嫌だ。また誰かが、君のその脚を見る」
彼の低い声は、地を這うような重さを持っていた。私が着ているパーカーとショートパンツの隙間から覗く生足を、他の男の視線に一秒たりとも晒したくないという、純度百パーセントのオスの嫉妬。
「大丈夫だって。ほら、ユンジンがしっかり隠しててくれれば、誰にも見られないよ?」
私が余裕を醸し出しながら、ツンツンと彼の頬を指先で突く。わざと挑発するように微笑みかけると。
ギリッ、と彼が奥歯を強く噛む音が聞こえた。
次の瞬間、彼の大きな手が私の腰に力強く巻き付き、私の身体を彼のがっしりとした胸板にピッタリと密着させた。
薄い生地越しに、彼の高い体温と、力強い心拍が直接伝わってくる。
「ボクから絶対に離れるな。誰にも、一ミリも君を触らせない」
「ちょっ、離れないから、そんなに強く抱きしめなくても……」
「約束して」
「か、神にちかーう!」
有無を言わさぬ強烈なエスコート。「ボクの女だ」という周囲への威嚇と、絶対的なマーキング。
私たちは密着したまま、提灯の赤い光が連なるお祭りの会場へと足を踏み入れた。
神社の境内は、むせ返るような熱気と人混みに包まれていた。
ソースの焦げる匂い、甘い綿飴の匂い、そして周囲の人々の体温が混ざり合った、ざわめく空気。
その中で、ユンジンは私を庇うように、いや、自分のテリトリーに完全に閉じ込めるように、腰を抱く腕の力を少しも緩めなかった。
すれ違う人が少しでも私にぶつかりそうになると、彼が自身の大きな身体を盾にして、私を完全に守り抜く。
黒キャップと伊達メガネで顔を隠していても、彼のモデルとしての圧倒的なスタイルと洗練されたオーラは隠しきれていない。
すれ違う女の子たちが「いまの男の人、めちゃくちゃカッコよくない?」と振り返る声が、私の耳にもはっきりと届いていた。
私たちは屋台が立ち並ぶ通りを抜け、温かいベビーカステラが入った紙袋を買い、人目につかない大きなイチョウの木の陰へと移動した。
彼が紙袋から甘い匂いを放つカステラをつまみ出し、私の口元に無言で差し出す。私がそれをパクッと咥え込むと、彼は指先についた微かな砂糖を親指で無造作に拭った。
誰にも正体がバレていない、「普通の恋人」としての甘くスリリングな時間。
「お祭りも、悪くないでしょ?」
私が口の中の甘さを味わいながら、ユンジンに尋ねる。
「そうだな」
短い肯定。しかし、その表情はまだ少し硬い。他の男の視線を警戒するヘイトモードが抜けきっていないのだ。
「なによー。せっかくのお祭りなのに、まだ不機嫌な顔しちゃって」
私は面白くなって、右手で彼の尖った顎を再びツンツンと突いた。
「やめろ」
彼が僅かに顔を背ける。
「やーめないっ」
「……んぎぃー!」
調子に乗ってさらに突こうとした私の両頬を、ユンジンの両手が不意に挟み込み、容赦なく「むにゅー」と横に引っ張った。
「いてててて! ストップ、ストップ!」
「そんなに強くやってないだろ、大げさだ」
私が涙目で抗議すると、彼はようやく毒気の抜けたような、柔らかい微笑みを浮かべた。
私の頬から手を離すと、彼は改めて自分の大きな手を私へと差し伸べる。
「次に行こう」
その言葉に甘えて、私は彼の手をギュッと握り締め、再び提灯の明かりが揺れる人混みの中へと歩き出した。
事態が急変したのは、別の屋台で真っ赤な「林檎飴」を買った直後だった。
私が割り箸に刺さった林檎飴の表面をペロッと舐め、パリッとした甘い飴のコーティングを唇で溶かした、まさにその瞬間。
「……っ」
隣に立つユンジンが、小さく息を呑む音が聞こえた。
見上げると、黒縁の伊達メガネの奥にある彼の瞳が、恐ろしいほどの熱を帯び、私の赤い飴で濡れて光る唇を、まるで獲物を狙う飢えた獣のように凝視していたのだ。
ゴクリ、と彼の喉仏が大きく上下に動く。
周囲の喧騒がスッと遠のき、彼から発せられる熱気と、高級なシトラスの香水の匂いだけが、私の五感を強烈に支配し始めた。
ドクン、ドクンと、私の心拍数が再び警鐘を鳴らし始める。
まずい。これは完全に、ユンジンのオスとしてのスイッチを深押ししてしまったフラグだ。
「ユ、ユンジン……? 一口、食べる?」
私が誤魔化すように林檎飴を差し出すと、彼は飴ではなく、私の手首をガシッと掴んだ。その指先はひどく熱く、微かに震えているようにも感じられた。
ちょうどその時。すれ違った若い男の二人組が、私のショートパンツから伸びる脚をジロリと舐めるように見て、ニヤニヤと下品に笑いながら通り過ぎていった。
「……ッ!!」
ユンジンの全身から、明確な殺気にも似た怒りが噴出した。
彼の手が私の腰から背中へと素早く移動し、私の身体を無理やり引き寄せ、自分の胸板に完全に埋もれさせる。
ひぃぃ! すぐに怒るな怒るなー!
パーカー越しに伝わってくる彼の体温は、酷く熱かった。
他の男の視線という不純物が、彼の完璧主義な独占欲のダムを完全に決壊させたのだ。
「行くぞ」
彼が低く、絶対に逆らえない声で囁いた。
「えっ、でも、まだお祭り……」
「もうこれ以上、他の奴らに君を見せたくない」
彼は私の抗議を完全に無視し、私を腕の中に抱え込んだまま、人混みを無理やり掻き分けて進み始めた。
向かう先は、神社の出口ではなく。
屋台の提灯の赤い明かりが届かない、鬱蒼とした木々が生い茂る神社の裏手、完全な暗闇の領域だった。
砂利を踏む音だけが暗がりに響く。周囲から人の気配が完全に消え、お囃子の音も遠くのノイズのようにしか聞こえなくなった。
暗闇の中、湿った土の匂いと、微かに残る線香の匂いが鼻を突く。
ドサッ、と鈍い音がして、私は太い御神木の大木に背中を押し付けられた。
背中に伝わるゴツゴツとした樹皮の感触。逃げる隙なんて、一ミリもない。
目の前には、私を完全に壁ドン状態で逃げ場を塞ぐ、長身の彼のシルエット。
私の思考は、現在の状況を極めて冷静に分析していた。
【ユンジンのステータス:他者の視線への嫉妬により、独占欲ゲージが限界突破。理性のリミッター解除済】
視界の端に現れる彼の状態。
抵抗しても無駄だ。それに、普段は完璧でストイックな彼が、私に対してだけこんなにもなりふり構わず、嫉妬に狂ったオスの顔を見せてくれることが、最高の優越感なのだから。
シュッ、と微かな衣擦れの音がした。
ユンジンが、変装のためにかけていた黒縁の伊達メガネとキャップを外し、無造作に地面に放り捨てたのだ。
現れたのは、風に乱れたセンター分けの黒髪。
木漏れ日のわずかな月明かりに照らされた彼の発光するような白肌と、ダークブラウンの瞳が、剥き出しの独占欲と、私を骨の髄まで味わい尽くそうとする強烈な飢えに染まっているのがはっきりと見えた。
「……ユンジン」
私がその形の良い頬にそっと手を伸ばすと。
彼はその私の手をすかさず捕らえ、手のひらに熱くねっとりとしたキスを落とした。
「……カメラの前のボクは、他人のものだ。でも……」
彼の手が私のパーカーのフードを乱暴に掴み、私の顔を自分の方へと強制的に引き寄せる。
鼻先が触れ合う距離。彼から漂うシトラスの香水と、私の口元に残る林檎飴の甘い匂いが、狭い空間で濃密に混ざり合う。
「今は、今日、この時は、マリコだけのものだよ」
呪いのように重たくて、甘い束縛の言葉。
遠くでドーン、と花火が打ち上がる重低音が響いた瞬間。
彼の熱い唇が、私の唇を完全に塞いだ。
「んっ……、ふぁ……」
林檎飴の甘ったるいコーティングを溶かすような、深く、貪欲で、理性を完全に投げ捨てたキス。
彼の舌が強引に私の口腔内をまさぐり、逃げ道を塞ぐように後頭部に回された大きな手が、私の髪の根元を熱くホールドしている。
あまりの気持ちよさと、酸素を奪われる息苦しさに膝の力が抜け、私の手から赤い林檎飴がポロリと滑り落ちた。
コロン、と鈍い音を立てて、土の上に飴が転がる。
「あっ……落としちゃった」
私がわずかに唇を離して息を継ぎながら呟くと。
彼は土に落ちた飴になど一瞥もくれず、私の腰をさらに強く抱き寄せた。
「構わない。また買えばいい」
低い声で吐き捨てるように言い、再び、重たい唇が幾度も幾度も重なり合う。
遠くで聞こえるお囃子の音も、人々の喧騒も、もはや完全にノイズキャンセリングされていた。
完璧主義な男が、私に対してだけ見せる、理性のリミッターが完全に外れた顔。
この後、私たちは近くのホテルに雪崩れ込み、湘南の波音よりも激しく、熱い夜を過ごすことになるのだった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:完璧な男の嫉妬心に火をつけ、お祭りの裏手で濃厚な林檎飴キスを堪能中
新規獲得アイテム
・【お祭りの林檎飴】:彼の理性の導火線に火をつける極甘のトリガーアイテム。ただし地面に落下。
・【神社の裏手の御神木】:人の目から逃れ、剥き出しの独占欲をぶつけるための最適な壁ドンポイント。
【明菜の分析ログ】
「人が多いところは嫌だ」なんて言いながら、しっかりお祭りを満喫してあげるあたり、やっぱり彼は根が真面目な男よね。ベビーカステラをシェアして、頬をむにゅーって引っ張る姿なんて、ただのバカップル過ぎて退屈〜。
でも、やっぱり林檎飴で濡れた唇と、他の男の視線は劇薬だったわね。怒りの沸点が相変わらず低すぎるわ。
「ボクだけのものだよ」なんて呪いの言葉を吐きながらの、御神木ドン。林檎飴を落とすほど腰を砕かれるなんて、アンタも随分と開発されまくったのね。




