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第八十九記録【He Can’t Stop Watching Me】




 九月五日、木曜日。

 湘南の海辺には真夏と変わらない暴力的な日差しが照りつけている。


 潮の香りと、アスファルトから立ち上る陽炎の熱気が入り混じった、むせ返るような空気。波が砕ける低く重い音が、一定のリズムで鼓膜を打っていた。


 私は、白い砂浜が見渡せる野外スタジオの隅、特設テントの下でパイプ椅子に深く腰を下ろしていた。


 今日の私のミッションは、インスタフォロワー五十八万人を超える雑誌専属モデル「ソ・ユンジン」の撮影に付き添うことだ。

 もちろん、九条グローバルとは一切関係のない彼の裏の顔(モデル業)である。私がここにいるのは、彼にまとわりつく女の影をカモフラージュするための「臨時マネージャー」という完全なる偽装に過ぎない。


 周囲では、巨大なレフ板を抱えたスタッフや、機材の太いコードを束ねながら慌ただしく走り回る女性アシスタントたちが飛び交っている。


 私は大きな日傘の陰で、結露したミネラルウォーターのペットボトルを両手で握りしめ、水滴が指を伝って落ちる冷たい感触にわずかな涼を取りながら、カメラの前に立つ彼の姿をじっと見つめていた。


 『どう? 特等席で見る彼の姿は』


 ふわり、と潮風に乗って、私の隣の空いたパイプ椅子に紫色の影が舞い降りた。

 明菜だ。彼女はピンヒールの足を艶かしく組み直し、空中に三枚のタロットカードを滑らせるように展開する。


 二頭の獣が牽く車に乗る若き王の絵柄、【THE CHARIOT(戦車)】。

 三人の乙女が豊穣を祝って杯を交わす絵柄、【THREE of CUPS(カップの3)】。

 そして、暗闇の中で犬と狼が吠える不吉な夜の絵柄、【THE MOON(月)】。


 『遠出の祝祭、そして誰にも言えない秘密の逢瀬。ココ・シャネルは言ったわ。「私は流行を作っているのではない、私自身が流行なのだ」ってね』


 明菜は、今日の私の服装を下から上までジロリと舐め回すように見て、満足げに口角を上げた。


 『黒のショートパンツに、秋色のシアーパーカー……動くたびに透ける肌のラインが、ストイックな彼の理性を削り取るには十分な隙だわ』


 動きやすさ重視なだけだし〜。

 私はパーカーの袖を少しだけ捲り上げ、明菜に向かって小さく舌を出した。


 『あらそう? その露出狂スレスレの生足、絶対わざとでしょ。彼の保護欲と独占欲を刺激して、最終的にベッドで丸め込まれる算段ね。このド変態』


 変態って言うな! これは……気温に合わせた最適化コーデっていうの!


 テントの隅で一人、見えない悪魔と必死に脳内プロレスを繰り広げていると。


 「はい、()さん! 少し顎を引いて……そう! 完璧です!」


 カメラマンの興奮した声が、私たちの会話を切り裂くように響き渡った。


 レンズの先に立つユンジンは、白のリネンシャツに細身の黒いスラックスというシンプルな装いだった。しかしその姿は、普段の社内で見せる冷徹なコンサルタントとは別次元の、圧倒的なオーラを放っている。


 海風に煽られてシャツの胸元がはだけ、発光するような白い肌と鎖骨が覗く。切れ長の涼しげなダークブラウンの瞳がカメラを捉えるたび、周囲を取り囲む女性スタッフたちから「はぁ……っ」「信じられないくらい綺麗……」という、ため息と黄色い歓声が漏れ出していた。


 以前の私なら、他の女たちが彼に熱狂する姿を見て、「私の男なのに!」と嫉妬でギリギリとハンカチを噛んでいたかもしれない。

 でも、今の私は違う。


 余裕があるのだ。そう、大人の女よ! アッハハッハ!



 撮影の合間、短い休憩時間。

 ユンジンが、長い脚を真っ直ぐに運んで私の方へと歩いてくる。


 「水」


 彼が他人の目を意識した、短く事務的なトーンで要求する。それと同時に、私は手にしていたミネラルウォーターのキャップを開けて手渡した。


 「お疲れ様です、()さん。はい、どうぞ」


 外面モードの清楚な笑顔で渡すと、彼の手のひらが、ペットボトルを受け取るふりをして私の指先に意図的に、ねっとりと触れた。


 「あっ……」


 ビクッと肩が跳ねる。

 一瞬の接触。彼から漂う、高級な香水と、湘南の太陽に炙られた微かな汗の匂いが混ざり合い、私の鼻腔を甘く掠める。


 周囲のメイクアシスタントたちが「あのマネージャーさん、徐さんと距離近くない?」「いいなぁ」とヒソヒソ囁き合っているのが聞こえる。


 私は内心で、ふふん、と鼻を鳴らした。

 羨ましいでしょ? でもね、この完璧な被写体が、二人きりのベッドの上で私にだけどんなに熱く乱れた顔を見せていたか、あんたたちは絶対に知らないのよ。


 私の中にあるのは、圧倒的な「彼の女」としての甘い優越感だった。

 しかし、休憩が終わり、再び撮影が再開されると、事態は急変し始める。


 『あら、いい気なもんね。でも、アンタのその計算高い隙、彼の方は全然面白くないみたいよ?』


 明菜が空中で網タイツの脚を組み直し、ニヤリと笑ってレンズの先のユンジンを顎でしゃくった。

 私はハッとして彼を見る。


 カメラマンが盛んにシャッターを切っているのに、ユンジンの視線はレンズを見ていなかった。

 彼は、カメラマンの肩越しに、パイプ椅子に座る「私」の姿を、真っ直ぐに、そしてひどく熱っぽい瞳で射抜いていたのだ。


 「()さん、すごくいい表情です! その、何かを渇望するような熱い視線……最高です!」


 カメラマンは絶賛しているが、その視線の終点にいるのは間違いなく私だ。

 ドクン、ドクンと、私の心拍数が徐々に上がり始める。


 彼の視線は、私がパーカーの袖を捲り上げて露出した手首や、ショートパンツから伸びる健康的な脚のラインを、遠くから舐め回すように這っていた。


 「ちょっと……見すぎ……」


 私は誰にも聞こえない声で呟き、口の中の乾きを覚えながら、持っていたバインダーで自分の足元を隠そうとする。

 しかし、それが逆に彼のストイックな管理魔としての独占欲に火をつけたらしい。


 機材を運ぶ若い男性アシスタントが私の前を通り過ぎる際、私のショートパンツから伸びる生足にチラリと視線を向けた、まさにその瞬間だった。


 ユンジンは舌打ちをするような険しい表情を一瞬だけ浮かべ、風に揺れるリネンシャツの胸元をさらに苛立たしげに開くと、色気を増した危険なオスの顔で私を睨みつけてきた。

 他の男の目が私の露出した肌に向かうのが、絶対に許せないのだ。


 優越感に浸っていたはずの私の余裕は、一瞬にして「この後、絶対にただじゃ済まない」という甘い焦燥感へと書き換えられていく。



 やがて、夕暮れ時。

 太陽が水平線に沈みかけ、海面が燃えるようなオレンジ色に染まるマジックアワー。


 最後のカットの撮影が行われている中、ユンジンの私に対する視線は、もはや隠そうともしないほどの強烈な独占欲と嫉妬にまみれていた。


 「はい、オッケーです! 撮影終了! お疲れ様でしたー!」


 カメラマンの声が響き渡った瞬間。

 ユンジンは、周囲のスタッフの拍手や労いの声には軽く会釈しただけで、一直線に私のもとへ、長い脚で砂浜を踏みしめながら迫ってきた。


 ザクッ、ザクッ。


 砂を蹴立てて近づいてくる彼の重い足音。

 まるで狙いを定めた肉食獣が、一直線に獲物へと向かってくるような圧倒的なプレッシャー。


 逃げる? いや、逃げたところで、この執念深い男から逃げ切れるはずがない。


 『さあ、運命の分かれ道よ、茉莉子ちゃ〜ん。カウントダウン開始ね』


 明菜が空中でパチンと指を鳴らした、その瞬間。


 【スキル・選択肢シミュレート発動!】


 私の視界に、ゲームのような半透明のウィンドウが表示された。


 【嫉妬と独占欲に支配されたSSS級の被写体が急接近! どうする?】


 ▶ A:背を向けて全力ダッシュで逃げる

  (成功率:0% / 砂浜による機動力デバフ。長い脚ですぐに捕獲され、クソ長いお説教タイムが倍増するフラグ)


 ▶ B:周囲のスタッフに「不審者です!」と助けを求める

  (成功率:5% / 助かるかもしれないが、明日のネットニュースで逆に『謎の女人気モデル現場に不法侵入』と掲載され、社会的に死亡)


 ▶ C:腹を括って大人しく連行される

  (成功率:100% / 彼の怒りをこれ以上煽らないための唯一の最適解。ただし濃厚なスキンシップ不可避)


 いやいやいや、待って待って待って!


 Aなんてあの身体能力チート男にすぐ追いつかれるに決まってるし、Bを選んだら私の令嬢ライフが終了するじゃん!

 消去法でCしかないけど……ここで大人しく首根っこ掴まれるのも、なんか完全に手懐けられてるみたいで悔しいっていうか、心の準備が……!


 ああもう、顔が熱い! どうしよう、どうしよう!


 私が脳内で一人パニックに陥り、目を白黒させている間にも、タイムリミットは無情にもゼロになる。

 気づけば目の前には、完全に捕食者の目をしたユンジンが立っていた。


 「お、お疲れ様です、徐さん。タオル、使いますか?」


 私が引きつったマネージャーの仮面を被ってタオルを差し出そうとした、その瞬間。

 ユンジンの大きな手が、私の手首をガシッと力強く掴んだ。


 「っ……!?」


 驚いて彼を見上げると、夕陽に照らされたダークブラウンの瞳が、隠しきれない熱と焦燥感に激しく揺れていた。


 「……もう、限界だ」


 周囲には聞こえない、私だけの耳に落ちる低い、甘く掠れた声。


 「ユンジン?」


 「他の奴らが君の脚を見る視線に、ずっとイライラしていた。……その服も、今すぐ俺以外に見えないように隠したい」


 彼は私の手首を掴んだまま、「着替えてくる」とスタッフたちに一言残し、強引に私を引っ張って歩き出した。


 「ちょ、ちょっと、徐さん! どこへ行くんですか……っ」


 私がわざとらしく声を上げるが、彼の足は止まらないし、私も本気で振り解こうとはしていない。


 完璧なモデルの仮面をかなぐり捨て、ただの嫉妬深く不器用な一人の「男」として、彼は私を海沿いの人気のない路地へと連れ去っていく。

 これから始まる、誰にも邪魔されない彼とのスリリングな時間の予感に、私は抗うことなく、その大きな背中に引かれていった。


 偽装マネージャーの特権。それは、カメラの前で完璧に輝く彼を、裏側で誰よりも独占し、狂わせることができるという、最高の甘い優越感だった。



 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:偽装マネージャーの優越感から一転、SSS級被写体の嫉妬心に火をつけ強制連行待ち


 新規獲得アイテム

 ・【結露したペットボトル】:裏方の偽装アイテム。指先の接触で熱伝導率が上昇する。

 ・【シアーパーカーと生足】:ストイックな管理魔の理性を削り取る、露出度高めの危険装備。


 【明菜の分析ログ】


 他の女にキャーキャー言われてる完璧な彼を見て、「でも夜の顔を知ってるのはアタシだけ♡」なんて、随分と余裕ぶった大人の女になったわね。

 でも、自分の露出多めの服で、他の男の視線を集めちゃったのが運の尽き。彼のストイックな独占欲と管理魔っぷりを甘く見ちゃダメよ。


 脳内でパニックになりながらも、しっかりCの「大人しく連行される」を選んじゃうあたり、アンタも立派なドMね。「もう限界だ」なんて低い声で連れ去られて、この後、人気のない路地裏か車の中で、たっぷりと「お仕置き」されるんでしょうね。

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