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第八十八記録【そいでこんなに拗らせるとは】



 私の上にのしかかるレオの大きな手が、私の後頭部から背中のラインをなぞるように滑り、彼の舌が私の口腔内をねっとりと支配する。

 私もそれに呼応するように、彼の首に腕を回して舌を絡め返していた。


 ――ズンチャッ! ズンチャッ! ピーピロピロピロリ〜〜♪!!


 その絶頂のムードを、ダッシュボードのスマホから鳴り響いた爆音のEDMが木端微塵に粉砕した。

 ビクッと肩を揺らしたレオが唇を離し、般若のような形相で舌打ちをする。


「ん、なんだよクソ……」


 あーあ。レイドボスの討伐直前で、親にルーター引っこ抜かれた時みたいな顔してる。

 私は焦ることもなく、乱れたブラウスの襟元をゆっくりと直し、激しく明滅する画面の『姉貴』という文字を横目で盗み見た。


 「なに?」


 レオの声は、北極の氷よりも冷たく、地を這うような低いトーンだった。

 しかし、電話の向こうの主は、そんな弟の殺気など全く意に介していない。スピーカーにしていないにも関わらず、陽気で声のデカい女性の英語がガンガン漏れ聞こえてくる。


 『ヘーーイ! レオ! 元気にしてる!? 今ね、日本に帰ってきたの! 迎えに来てよ!』


 「は? ……お前、来月って言ってたろ」


 『予定変更! サプライズだよ! アハハハ! で、今どこ!?』


 レオは額に青筋を浮かべ、ギリッと奥歯を噛み締めた。


 「……今、デート中だ。絶対に無理」


 『デェェェトォォォ!? あの人の感情なんてとか言ってた弟が!? どんな子!? 写真送って! いや、アタシがそこに行く! GPSの共有オンにして!』


 「切るぞ」


 プチッ。


 レオは容赦なく通話を切断し、スマホをダッシュボードにポイッと放り投げた。

 さっきまでの危険で甘い「オスの色気」はどこへやら。そこにはただ、自由奔放な姉のペースに巻き込まれて心底うんざりしている、等身大の『弟』の姿があった。


 「……ごめん。さっきのは……」


 「お姉さんだよね?」


 「どうやら、うるさいのが日本に帰ってきたみたいだ」


 レオが、こめかみを長い指で揉みながら、深く重いため息を吐き出した。

 その落差がたまらなくおかしくて、私は思わず「ふふっ」と声を上げて笑ってしまった。


 「笑い事じゃないよ。あいつは本当に、僕の全てを掻き乱す天才なんだ」


 「へぇーいつも余裕そうなレオがかき乱される天才なんだ」


 「天才って言ったのは前言撤回……ただの変人」


 彼は拗ねたように唇を尖らせ、ハンドルに突っ伏した。

 私は彼の方へ身を乗り出し、金色の柔らかい髪を「よしよし」と撫でてあげる。


 「予定変更だ」


 レオは顔を上げ、再びエンジンをかけた。


 「このまま動物園にいたら、本当にあの姉貴がGPSをハッキングしてでも突撃してきかねない。絶対に誰にも邪魔されない場所へ行くよ」


 ターコイズブルーの車は、逃げるように夜の動物園を後にした。



 夜のハイウェイを抜け、車は都内にある超高級ホテルの地下駐車場へと滑り込んだ。

 専用のVIPエレベーターで最上階へ。分厚い絨毯に足音を吸い込まれながら、レオがカードキーで開けたのは、私にとってもすっかり見慣れた『ペントハウス・スイート』の扉だった。


 部屋に入った瞬間、微かに漂うレオと同じシトラスとムスクのルームフレグランスの匂いが鼻腔をくすぐる。


 「……座ってて」


 彼は上着を脱いでソファに投げ捨てると、ミニバーの方へ向かった。


 私は編み上げのショートブーツを脱ぎ、東京タワーの夜景が広がる全面ガラス張りの窓辺に置かれた、いつものイタリア製レザーソファに深く腰を下ろす。

 何度も肌を重ねたこの部屋の空気感に、自然と体の力が抜けていくのがわかった。


 コトリ、とガラステーブルにクリスタルグラスが置かれる。


 『あらあら、お姉様に邪魔されて、すっかり拗ねちゃったカナディアンベアーね』


 ふわりと、窓際の夜景を背にして明菜が浮かび上がった。彼女は黒いシルクのネグリジェ姿で、細い指先で一枚のタロットカードを弾いた。

 漆黒の背景の中、鎖に繋がれた全裸の男女の絵柄、【THE DEVIL(悪魔)】のカード。


 『フランソワ・ド・ラ・ロシュフコーは言ったわ。「嫉妬は常に恋と共に生まれるが、必ずしも恋と共に死ぬとは限らない」ってね。……邪魔されたせいで、彼の独占欲ゲージはMAXみたいよ? せいぜい上手に手懐けなさい』


 明菜がニヤリと笑い、闇の中に消えた。


 手懐けるってなんだよ! 手懐けるって。


 私が小さく息を吐いた瞬間、隣に座ったレオが、私の肩にコテンと重たい頭を乗せてきたのだ。


 「……レオ?」


 見下ろすと、彼のヘーゼル色の瞳が、夜景の光を反射してひどく暗く濁っていた。


 「姉貴には、絶対に君を会わせない。……君は、僕だけのものだ」


 子供のような甘えと、絶対に逆らえない重さを持った低い囁き。

 彼の手が、私の太ももを滑り、ショートパンツの裾から素肌へと侵入してくる。ひんやりとした指先が内股の柔らかい肉を撫で上げ、私はビクッと身体を震わせた。


 ただ、このまま素直に食べられるのも少し癪だ。

 私は余裕のある笑みを浮かべ、彼の頬を指でツンと突きながら、わざと意地悪な声で囁いた。


 「えー? でも私、レオのお姉さんとお茶してみたいな。レオの子供の頃の恥ずかしい話とか、いっぱい聞けそうだし」


 その瞬間、レオの肩がピクリと跳ねた。


 「……ダメだ」


 ギリッ、と奥歯を噛むような音が聞こえたかと思うと、彼は私の両腕を掴み、そのまま有無を言わさずレザーソファの上に深く押し倒してきた。


 「んんっ……!」


 重ねられた唇は、動物園の時よりも遥かに強引で、焦りに満ちていた。

 舌が乱暴にこじ開けられ、琥珀色のお酒の苦味と、彼の甘い唾液が混ざり合う。


 「他の誰にも、君を触らせないし、僕以外の話をさせない」


 完全に捕食者の目になった彼が、ブラウスのボタンを外し、薄い生地ごと私の胸元を強く愛撫する。

 そして、私の首筋に顔を埋める。


 「あっ……痛っ……ん……」


 ちくりとした痛みの後、ゾクゾクするような熱が全身を駆け巡る。彼が執拗に同じ場所を吸い、赤黒いマーキングを刻み込んでいるのがわかった。


 普段は完璧な彼が、私にだけこんなにも不器用で重たい執着を見せてくることが、心のどこかでひどく心地よかった。

 もう。この面倒くさいカナディアンベアーめ。


 私は小さく息を吐き、彼に押し倒されソファに沈み込んだまま、ゆっくりと自分の両腕を彼の首に絡ませた。


 「レオ」


 私が甘えるように彼の名前を呼び、彼の黄金の髪に指を絡ませて優しく撫でると、彼はわずかに動きを止めた。


 「私、どこにも逃げないよ。ずっとレオのそばにいるから」


 彼の背中を優しく撫でながら、私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。

 レオはハッと息を呑み、目を見開いた。


 自分の強引な振る舞いに私が怯えたり、突き放したりすると思っていた彼の予測が、完全に外れたのだ。


 「君は……本当に、僕の思い通りにならないね」


 彼は敗北を認めるように、フッと小さく笑い、私の首筋に顔を埋めた。


 「君のせいで、僕の空っぽだった頭が、おかしくなりそうだ……いや、もうとっくにおかしくなってる」


 強引だった力が抜け、今度は壊れ物を扱うように、優しく、愛おしむようなキスが降ってくる。

 額、瞼、頬、そして唇へ。


 東京タワーのオレンジ色の光が、ガラス窓越しに二人を照らし出していた。


 「ねえ、シンデレラ」


 何度も深く溶け合うようなキスを交わした後、レオが少しだけ唇を離し、甘く、とろけるような声で私の耳元に囁いた。


 「……今夜は朝までずっと、僕だけを見ててね」


 彼の手がブラウスの胸元からさらに奥へと滑り込み、私はそれに応えるように彼の首に回した腕に力を込める。

 氷のグラスが溶ける微かな音が、スイートルームの静寂に吸い込まれていく。


 私たちは、誰にも邪魔されない楽園の夜へと、深く堕ちていった。



 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:極上のキスで溶けかけた直後、爆音EDMで鼓膜とムードが崩壊


 新規獲得アイテム

 ・【黄金の檻の合鍵】:彼の孤独な提案を拒絶しつつ、心を繋ぎ止めた絶妙な返し。

 ・【姉貴からの着信】:完璧な王子の営みを容赦なくぶった斬る、最凶の物理トラップ。


 【明菜の分析ログ】


 いや〜、あの氷の王子様が、お姉様の一撃でポンコツの弟に成り下がる瞬間、最高だったわね!

 しかも、ホテルに逃げ込んだと思ったら、今度は茉莉子ちゃんの「お姉さんとお茶したい」っていう意地悪な一言で、完全に嫉妬に狂った猛獣になっちゃうんだから。


 でも、そんな彼の不器用で重たい独占欲を「仕方ないなぁ」って余裕で受け入れてあげるアンタ、すっかり本物の猛獣使いになったじゃない。

 首筋にキスされて、ソファの上で朝まで激しく求められる夜……。なんて淫らなのかしら?

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