第八十七記録【僕はカナディアンベアーだぞ】
ギギギギギッ、と重苦しい金属音を立てて開いた鉄の門を抜けると、そこは完全に異世界だった。
むせ返るような夜の土の匂いが、開け放たれたオープンカーの車内に容赦なく流れ込んでくる。
それに混じって、生々しい獣の臭気が鼻の奥をツンと突いた。
視界の先は、ヘッドライトが照らす範囲以外は完全な暗闇。
遠くの木々の奥から、正体不明の鳥が「ギャアァッ」と耳障りな声を上げ、私の背筋を冷たい汗が伝う。
怖い。マジで怖い。
開始一分で私のHPゲージはゴリゴリと削られ、すでに赤色で点滅を始めている。
ビビり散らかしてシートに深く身を沈めていると、前方を走るサファリパーク専用の先導ジープから、ノイズ混じりの陽気な声が車内の無線機を通して響き渡った。
『ヘーイ! レオ様! 今夜は最高のナイトサファリをお届けするぜ!』
めっちゃアメリカンなテンション。
ベテラン飼育員らしきその声のおかげで、ホラー映画のBGMが、突如としてVIP向けのエンタメショーのそれに切り替わった気がする。
「ここからは少し危険だからね」
レオが面白そうに目を細め、ダッシュボードのスイッチを軽く押し込む。
ウィーン、という静かで滑らかな駆動音と共に、ターコイズブルーの車のルーフがゆっくりと持ち上がり、私たちの頭上を覆い隠した。
ガチャン、とロックがかかり、外界と完全に遮断された密室が完成する。
途端に、強めに設定されたエアコンの冷気が火照った肌を冷やし、獣と土の匂いは、レオが纏うシトラスとムスクの香水の匂いへと一瞬で上書きされた。
ジープのテールランプを追いかけ、車はゆっくりと徐行を続ける。
二重の厳重なゲートをくぐり抜け、私たちが足を踏み入れたのは、紛れもない『肉食獣エリア』だった。
窓ガラス越しに見える漆黒の茂み。
そこに、車のヘッドライトに反射して、無数の黄色い眼光がフワリ、フワリと浮かび上がる。
ゾクッと全身の産毛が逆立つ感覚。
その直後。
助手席側の窓ガラスすれすれを、巨大なオスライオンがのっそりと横切った。
「グルルゥッ……」
分厚いガラス越しでもハッキリと聞こえる、地を這うような低い唸り声。
圧倒的な質量と、殺意を持った野生のオーラ。
「ヒッ……!」
私は情けない短い悲鳴を上げ、無意識のうちに隣でハンドルを握るレオの右腕に、両手でギュッとしがみついてしまった。
無理無理無理!
物理防御力ゼロのシアーブラウスとショートパンツなんていう布装備でエンカウントしていい敵じゃない!
一撃でゲームオーバー!
私がレオの腕に顔を押し付けるようにして震えていると。
「ふふ、可愛いね。大丈夫、この車のガラスは防弾仕様だから、絶対に割れないよ」
レオは猛獣を前にしても全く動じることなく、空いた左手で私の頭をポンポンと優しく撫でてくる。
むしろ、私がしがみついているこの状況を心底楽しんでいるようで、彼はわざとアクセルを緩め、ライオンの群れの横を這うようなスピードで進ませていく。
私のビビりホールドを堪能する気満々だ、このドS王子。
恨めしく思いながらも腕を離せずにいると、ヘッドライトの先、少し開けた岩場の上に、二頭のライオンの姿が浮かび上がった。
オスと、メス。
彼らは私たちが見ていることなどお構いなしに、重なり合い、非常に……その、情熱的な野生の営みの真っ最中だった。
「…………」
「…………」
車内に、先ほどまでの恐怖とは全く別の、気まずすぎる沈黙が降りる。
「いや、なんかごめんね……ライオンちゃん」
私は引きつった愛想笑いを浮かべ、誰に向かってともなく謝罪の言葉を口にした。
「見られても続けるなんて、やっぱり動物って凄いね」
レオが感心したような、それでいてどこか熱を帯びた声で呟く。
「そこぉ!?」
「僕もシンデレラとだったら、誰に見られてもいいけ……」
「ダメダメ! それ以上言わないで!」
私は慌ててレオの口を両手で塞いだ。
私の手のひらに当たる、レオの形の良い唇。
彼が面白そうにくぐもった声で笑うたび、その振動が直接肌に伝わってきて、心拍数が一気に跳ね上がる。
『あらあら、ずいぶんと熱い夜ね』
突如、後部座席から響いた声に、私はビクッと肩を震わせた。
振り返ると、いつの間にか後部座席の真ん中に足を組んで座り込んだ明菜が、手元で一枚のタロットカードをヒラヒラと揺らしている。
白いドレスを着た女性が、穏やかな表情で獅子の口を優しく撫でている絵柄、【力(STRENGTH)】。
『サン=テグジュペリは言ったわ。「きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ」ってね』
明菜は網タイツの脚を組み直し、ニヤリと口角を上げる。
『さて、外のライオンと隣のライオン、アンタが手懐けたのはどっちかしらね?』
んなこと言ってる場合じゃないし!
私が脳内で明菜に鋭いツッコミを入れている間に、ジープとターコイズブルーの車は肉食獣エリアを抜け、小高い丘のようになっている草食動物エリアの安全なスポットへと到着した。
遠くに都心の夜景が宝石箱のように煌めいているのが見える。
レオがエンジンを切ると、エアコンの稼働音だけが残る、深い静寂が車内を満たした。
彼はステアリングから手を離し、窓の外に広がる高いフェンス――外界と動物園を隔てる巨大な檻の境界線を、じっと見つめている。
「檻の中にいる動物は可哀想だって言う人がいるけど、僕はそうは思わない」
ポツリとこぼれ落ちたその声は、ひどく静かで、どこか冷たかった。
「外の世界は広すぎるし、敵ばかりだ。誰も本当のことなんて言わないし……放っておけば、孤独に死ぬだけだ」
ハンドルに置かれた彼の手の甲に、微かに力が入る。
放任主義の両親、そして欲と見栄だけで塗られた嘘だらけの社交界。
彼のルーツにこびりついた虚無感が、その言葉の端々から滲み出ている。
レオがゆっくりと私に向き直った。
無造作に片耳に掛けられた黄金の髪の奥、ヘーゼル色の瞳が、夜の闇の中で真っ直ぐに私を射抜く。
「でも、この檻の中なら安全だ。飢えることも、傷つくこともない」
彼が身を乗り出し、長い指先が私の頬に触れる。
ひんやりとしたシルバーのフープピアスが揺れ、シトラスの香りが濃くなった。
「……ねえ、シンデレラ。僕が君のために、世界で一番美しくて、完璧な檻を作ってあげようか?」
熱っぽい、甘く囁くような声。
「君が望むものは何でも与える。誰にも君を傷つけさせない。だから、ずっと僕のそばで、僕だけを見ててよ。……ダメ、かな?」
その瞳の奥にあるのは、狂気的な監禁欲じゃない。
極度の人間不信からくる、あまりにも不器用で、重くて、途方もなく面倒くさい『懇願』だった。
僕の財力と愛で君を甘やかし尽くすから、どうか僕の孤独を埋めてくれ。
そう泣きついている迷子のような目。
うわぁ、めっちゃ面倒くさい男になってるじゃん!
どんだけ人間不信こじらせてんの!
盛大に毒づきながらも、私は彼のその弱さを、空っぽな瞳を、どうしても突き放すことができなかった。
私は小さく息を吐き、自ら彼の方へと身を乗り出すと、私の頬に触れている彼の手の甲に、そっと自分の手を重ねた。
「レオの檻、すごく豪華で居心地良さそうだけど……」
彼の目を見つめ返し、ゆっくりと首を横に振る。
「私、外でレオと一緒に美味しいもの食べたりする方が好きだな」
優しく、けれどハッキリとした拒絶。
レオはハッと短く息を呑み、わずかに見開いた目を瞬かせた後。
「……君は本当に、僕の思い通りにならないね」
どこかホッとしたような、諦めと愛おしさが混じった苦笑いを浮かべた。
ギュッ、と高級なレザーシートが軋む音が鳴る。
レオの大きな手が私の後頭部に回り、力強く引き寄せられた。
外の猛獣たちの荒い息遣いとリンクするように、レオの熱い吐息が私の唇を塞ぐ。
「んっ……」
深く、甘く、思考をドロドロに溶かすような、彼特有のねっとりとしたキス。
舌先が絡み合い、シトラスとムスクの香りが脳髄の奥まで侵食してくる。
車内の温度が一気に上昇し、エアコンの冷気など全く意味をなさなくなる。
後頭部を抱えていた彼の手が、ブラウスの透けた肩から、ゆっくりと鎖骨のラインをなぞるように滑り落ちてきた。
指先の熱が、薄い布越しに肌を焦がす。
息継ぎの暇も与えられないまま、さらに深い行為へと落ちていきそうになった、まさにその瞬間。
――ズンチャッ! ズンチャッ! ピーピロピロピロリ〜〜♪!!
静寂と熱気で満たされた密室に、鼓膜を破らんばかりの超アップテンポな洋楽のEDMが、爆音で鳴り響いた。
「っ!?」
私とレオはビクッと体を震わせ、弾かれたように唇を離す。
ムードも色気も、見事に粉々に砕け散った。
音の出どころは、ダッシュボードに置かれたレオのスマートフォン。
着信を知らせて激しく点滅するその画面には、巨大な文字でハッキリとこう表示されていた。
『姉貴』
「……ッ!!」
レオが、今まで見たこともないような恐ろしい形相で、舌打ちと共にスマホを睨みつけた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:極上のキスで溶けかけた直後、爆音EDMで鼓膜とムードが崩壊
新規獲得アイテム
・【黄金の檻の合鍵】:彼の孤独な提案を拒絶しつつ、心を繋ぎ止めた絶妙な返し。
・【姉貴からの着信】:完璧な王子の営みを容赦なくぶった斬る、最凶の物理トラップ。
【明菜の分析ログ】
いや〜、惜しかったわね!
あと少しで動物園の駐車場で野生に還るところだったじゃない。
それにしても、あのカナディアン・ベアーの重さたるや。
「僕の檻の中に入ってよ」なんて、拗らせすぎにも程があるわ。
でも、それをサラッとかわして外のデートをねだるアンタも、相当な手練れになったわね。
そして最高のタイミングでの邪魔者登場!
あの完璧な王子の顔が、一瞬で「ただの苛立つ弟」に変わった瞬間、アタシ後部座席で大爆笑しそうになったわ。
さあ、このお姉様からの着信に、彼がどう対応するのか。見ものね♡




