第八十六記録【夜の動物園】
九月三日、月曜日。
午後三時。
九条邸、自室。
カレンダーは九月に入ったというのに、外はまだ真夏と変わらない暴力的な暑さが居座っている。分厚いガラス越しでも、アスファルトの強い照り返しと、空気を歪ませるほどの湿気が街を重く包み込んでいるのがわかった。
私は冷房がガンガンに効いた自室のウォークインクローゼットの前で、今日のデート服を真剣に選んでいた。
今日の相手は、財力と美貌を兼ね備えた完璧な王子様、桐生レオだ。
『どれどれ、今日の占いは……』
いつものように、明菜がふわりとキングサイズのベッドの上に舞い降り、シーツの上にタロットカードを三枚、滑らせるように並べた。
石の玉座に座り、厳しい表情を浮かべる男の絵柄、【皇帝】。
漆黒の背景の中、鎖に繋がれた全裸の男女の絵柄、【悪魔】。
そして、葡萄の蔓が絡まる豊かな庭園で、鳥を手に乗せて優雅に佇む女性の絵柄、【ペンタクルの9】。
『財力と権力、そして束縛と誘惑ね。オスカー・ワイルドは言ったわ。「私は金持ちではない、ただ金を使うのが好きなだけだ」って。でも、アンタたちは両方とも生粋の金持ちじゃない』
明菜は爪で悪魔のカードをトントンと叩き、ニヤニヤしながら私を煽ってくる。
『彼のアンタへの独占欲は、お金じゃ買えないほど重くて危険みたいよ? 気をつけなさいな』
わかってるって。……すっかり面倒くさい男になっちゃったカナディアンベアーだもん。
んー……大人の色気を出すなら、身体のラインが出るタイトなドレスかと思った。しかし、窓の外のギラギラとした太陽を見つめ、私は首を横に振った。
「こんなに暑いのにドレスなんて、汗だくになって絶対無理! 今日はアクティブにいく!」
私が直感でハンガーラックから引き抜いたのは、秋を少しだけ先取りしつつも涼しげな、透け感のあるブラウンのシアーブラウス。
そしてボトムスには、健康的な脚のラインを大胆に強調する、黒のハイウエスト・レザーショートパンツ。足元は、歩きやすい黒の編み上げショートブーツだ。
アクティブなシルエットでありながら、生地の透け感と生足の露出でしっかり大人の色気も計算した、残暑に負けない令嬢の勝負服である。
午後五時。
まだまだ気温が下がらない中、熱気を含んだ生ぬるい風に吹かれながら家の門前で待っていると。
低く、滑るような上品なエンジン音と共に、一台の車が音もなく滑り込んできた。
いつもの彼が好む厳ついガルウイングのスポーツカーではない。
夏の名残を感じさせる鮮やかなターコイズブルーのボディが眩しい、屋根を開け放った二人乗りのオープンタイプの車だった。
助手席のドアが滑らかに開き、車内から甘く、鼓膜をくすぐるような声が響く。
「やあ、シンデレラ」
「やっほー」
「逢いたかったよ」
「私も」
「あっショートパンツかいいね。すごく魅力的だ」
ステアリングを握るレオが、サングラスを少しずらして私を見つめた。
今日の彼の装いは、ネイビーのオープンカラーシャツに、足首が覗く白のアンクルパンツ。シャツのボタンは胸元まで大胆に開けられ、適度に鍛えられた白い肌と鎖骨が、ひどくエロティックに覗いている。
そして何より、私の心臓を激しく跳ねさせたのは、彼の髪型だった。
いつもは綺麗にセットされている黄金色に輝くゆるやかなウェーブヘアが、今日に限って片側だけ耳に掛けられていたのだ。
その無造作な『片耳掛け』のスタイルによって、彼の彫刻のように美しいフェイスライン
圧倒的な品があるのにどこか危険な男の色気を強烈に放っていた。
セクシーすぎてこのままホテルに!
ダメダメ! なに淫らなこと考えてんだよ私。
ラノベのスケベな男主人公か!
気を取り直してっと。
「レオも、今日すっごくかっこいい……。その髪型、反則〜」
私が顔を赤くして助手席に乗り込み、シートベルトを引き出すと。
「君を夢中にさせたくてね。……似合ってるかな?」
レオは私のシートベルトの金具に自分の手を重ね、カチャリと音を立てて留めながら、艶やかに微笑んだ。至近距離で彼特有の微かなシトラスとムスクの香水が香り、私の脳がクラリと揺れる。
彼は満足そうに目を細めると、ターコイズブルーの車を静かに発進させた。
オープンカーは、まだ熱気を含んだ夕暮れの風を切って、湾岸のハイウェイを滑るように走る。
オレンジ色に染まる海と高層ビルのシルエット。
車内のスピーカーから流れる、気怠いジャズのBGMに合わせて会話を楽しんでいると、ふと、話題がレオの家族のことになった。
「そういえば、レオのご両親って、やっぱり厳しいの?」
私が助手席から風に髪をなびかせながら尋ねると、彼はハンドルを握ったまま、少しだけ肩をすくめた。
「僕、ハーフだって言っただろ?」
「うん、言ってたね」
「カナダ人の母と、日本人の父なんだけど……二人とも、今は向こうで自由気ままにしてるよ。僕の教育なんてそっちのけで、完全な放任主義さ」
彼の口調は淡々としていて、そこに寂しさや恨みのような感情は見えなかった。
「……でも、僕の人生で一番厄介なのは、僕の全てを構いたがる、うるさくて元気な姉貴だよ」
レオが、心底うんざりしたように小さく溜め息をついた。
その瞬間だった。
いつも誰に対しても完璧な『微笑みの王子』の仮面を被っている彼が、ひどく面倒くさそうな、等身大の「弟」の素顔を見せたのだ。
海外と日本という二つのルーツの狭間で揺れる孤独。そして、放任主義の両親に代わって過干渉に接してくる姉に対する、愛憎入り混じる家族の距離感。
「へぇ……レオにそんなお姉さんがいるなんて知らなかった。ちょっと会ってみたいな」
完璧な王子のプライベートな一面を垣間見れたことが嬉しくて、私がクスクスと笑いながら言うと。
「絶対にやめたほうがいい。君まであいつのハイテンションなペースに巻き込まれる。……僕は、君と二人だけの静かな世界が好きなんだ」
レオは本気で嫌そうな顔をして眉間にシワを寄せ、また私を笑わせた。
午後八時。
日がすっかり落ち、周囲の景色が完全な暗闇に包まれ始めた頃。
ハイウェイを降りた車は、都心から少し離れた、緑豊かな郊外の山道へと入り、やがて巨大な施設のゲート前で静かに停車した。
そこは、すでに閉園時間をとうに過ぎて明かりが落ちた、広大な『動物園』だった。
「えっ? 動物園? でも、もう真っ暗だし、閉まってるけど……?」
私がきょとんとしてゲートの奥の暗闇を見つめていると、レオは静かに車のエンジンを切った。
「ああ、だからいいんだ」
カチャリ、と彼は私のシートベルトの金具を外し、そのまま手を伸ばして私の頬をそっと撫でた。
「今日はここを、朝まで僕たちだけで貸し切ったからね」
「……え?」
彼の口から出たあまりにも非現実的な言葉に、私は自分の耳を疑った。
「えええっ!? 動物園を貸し切り!? そんなことできるの!?」
その財力の使い方に、私は目を丸くして絶句してしまった。
片耳に掛けた黄金の髪を夜風にフワリと揺らしながら、私の顔にゆっくりと近づいてくる。
「……君を、誰の目にも触れない檻に入れたかったんだ」
その低く甘い、束縛と異常な独占欲に満ちた囁き。
背筋がゾクッとするような危険なオスの香りに息を呑んだ、その瞬間。
ギギギギギッ……。
私たちの目の前で、夜のサファリへと続く重厚な鉄の門が、重々しい金属音を立てて、ゆっくりと自動で開き始めた。
「さあ、行こうか。誰もいない、僕たちだけのジャングルへ」
レオが魅惑的な笑みを浮かべ、再びエンジンをかける。
私は心臓の激しい鼓動を抑えきれないまま、彼の操るターコイズブルーの車に乗って、漆黒の動物園の奥深くへと飲み込まれていった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:残暑の熱気と片耳掛けの破壊力にやられ、自ら進んで檻の中へ
新規獲得アイテム
・【ターコイズブルーの車】:メーカー名不明の、セレブ感と夏らしさを両立した乗り物。
・【レオの弟の顔】:完璧な王子の仮面が剥がれる、貴重な家族エピソード。
【明菜の分析ログ】
9月だっていうのにこの暑さ、ホント嫌になるわね。でも、ショートパンツにシアーブラウス、露出と透け感のバランスが最高ね♡
そしてレオの片耳掛けヘアスタイル……あれは完全にアンタを狩りに来てるビジュアルよ。
カナダと日本のハーフで、厄介な姉がいるっていうルーツの話も、彼の『虚無』を埋めるヒントになりそうね。
それにしても、動物園を貸し切るって……財力の使い方が狂ってるわ。
「誰の目にも触れない檻に入れたかった」なんて、サイコパス一歩手前の甘いセリフ。夜の動物園で猛獣になるのは、果たしてどっちかしらね?




