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第八十一記録【熟れた果実の香りが、唇のすぐ近くで囁くように漂う夜】




 DAY5

 八月二十九日、水曜日。

 午前八時。

 サンパウロ、超高級ホテル『パラシオ・タンガラ』。


 深い森の静寂に包まれたスイートルーム。

 遮光カーテンの隙間から差し込む朝の光が、キングサイズのベッドで丸くなる私のまぶたを優しくノックした。


 重い身体を寝返らせると、腰の奥や太ももの内側に、昨日よりもずっと深くて、甘い痺れのような気怠さが残っている。

 脳裏に、昨夜の大樹とのエモーショナルで激しい情事の記憶が、鮮明な映像としてフラッシュバックする。


 過去の深い挫折と傷を打ち明けてくれた彼を、私はその悲しみごと包み込むように重なり合った。

 大樹もまた、私のその想いに応えるように、いつも以上に深く、優しく、そして何度も、狂おしいほどに私を求めてきたのだ。

 キャンドルのオレンジ色の光の中で混ざり合った汗の匂いと、彼の太い腕の感触が、まだ肌にべったりと張り付いている気がする。


 昨日の大樹、ほんとに凄かったな……。


 私は一人で顔を真っ赤に染め、高級シーツに顔をうずめて身悶えした。


 「茉莉子ちゃーん! 起きてるー?」


 バスルームのドアが開き、すでにシャワーを浴び終えた大樹が、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら出てきた。

 彼は私と目が合うと、太陽のような爽やかな笑顔を浮かべ、そのままベッドの上へとダイブしてきた。


 「うわっ!」


 スプリングが大きく軋む。

 大樹はシーツごと私を太い腕で抱え込むと、私の額、頬、そして唇へと、モーニングキスを立て続けに落とした。


 「おはよう! 昨日はほんと、最高だった……。茉莉子ちゃん、すっげぇ綺麗だったよ」


 「も、もう! 朝からそういうこと言わないの!」


 顔から火が出そうになり、私は彼の胸板をポカポカと叩いた。



 午前十時。


 今日私たちが向かうのは、大樹がかつて所属し、そして夢破れたブラジルのサッカーアカデミーだ。

 恩師に会うため、私たちは「スマートカジュアル×スポーティ」をテーマにした、ネイビーとホワイトのリンクコーデに着替えていた。


 私はネイビーのノースリーブポロシャツに、歩くたびに揺れるホワイトのプリーツスカート。足元は真っ白なスニーカー。

 大樹は、私と同じネイビーのタイトなポロシャツに、ホワイトのチノパンという出で立ちだ。

 彼が着ると、ポロシャツの袖口がはち切れんばかりに太い腕の筋肉を強調し、異常なまでの逞しさを醸し出している。


 「俺の彼女、世界一可愛い! これならカルロスもひっくり返って驚くぜ!」


 全身鏡の前で並んで立つと、大樹は私の肩を抱き寄せ、自慢げに白い歯を見せて笑った。



 サンパウロ郊外、サッカーアカデミー。

 ホテルから送迎車に揺られること一時間。


 私たちは、赤茶けた土と芝生の匂いが入り混じる、広大なグラウンドに到着した。

 強烈な日差しの下、色とりどりのビブスを着た地元の子どもたちが、ポルトガル語で激しく声を掛け合いながらボールを追いかけている。

 土煙が舞う、熱気と活気に満ちた空間。


 「おーい! カルロス!」


 大樹がグラウンドの隅に向かって大きく手を振った。

 そこに立っていた、日焼けした恰幅の良い初老のブラジル人コーチが、振り返る。


 彼は大樹の姿を認めた瞬間、持っていたバインダーを放り投げ、目を丸くして駆け寄ってきた。


 「ダイキ! オウ、メウ・デウス(おお、神よ)! 本当にダイキか!?」


 「カルロス! 久しぶりだな!」


 二人は激しくぶつかり合うような、熱い抱擁を交わした。

 大樹は流暢なポルトガル語で、恩師との再会を腹の底から喜び合っている。


 やがて、大樹が私の方を振り返り、少し照れくさそうに私の肩を抱き寄せた。


 「エスタ・エ・ア・ムリェール・キ・エウ・マイス・アモ・ノ・ムンド(俺が世界で一番愛してる彼女です)。茉莉子って言います」


 ポルトガル語はわからないが、大樹の熱を帯びた声の響きと、カルロスの驚いたような、そして嬉しそうな表情で、彼が何を言ったのかは痛いほど伝わってきた。

 カルロスは満面の笑みで私に歩み寄り、私の両手を彼の手で包み込むようにして力強く握った。


 「プラゼール(はじめまして)、マ・リ・コ! よく来てくれた!」



 正午。

 クラブハウスの古びたベンチ。


 私たちは日陰で、ブラジル特有の冷たいマテ茶を飲みながら喉を潤していた。

 カルロスが、拙い英語と大きなジェスチャーを交えながら、当時の大樹について私に語り始めた。


 「ダイキは……本当に惜しい怪我だった。あいつがプロになれなかったのは、私にとっても大きな悲しみだったよ」


 カルロスの声が、少しだけ沈む。

 大樹は隣で、照れくさそうに頭を掻いている。


 「だがね、マ・リ・コ。あいつはただの選手じゃなかったんだ。個人の技術だけなら、ブラジルにはもっと上の奴らが腐るほどいる。……でも、誰よりも周りの選手を見る目があり、彼がピッチで声を出すだけで、エゴの塊でバラバラだったチームが、不思議と一つにまとまるんだ」


 カルロスが、大樹の太い腕をポンと叩く。


 「あいつには、人を惹きつけ、同じ目標に向かわせる天性のリーダーシップ(キャプテンシー)があったんだよ。それは、どんなに練習しても手に入らない、特別な才能だ」


 その恩師の言葉を聞いた瞬間。

 私は、雷に打たれたような衝撃を受けた。


 脳裏に、九条グローバルの施工現場の光景が鮮明にフラッシュバックする。

 気性の荒い、一筋縄ではいかない職人たちを、あの底抜けの笑顔と大きな声で束ね上げ、一つの巨大なステージを作り上げていた大樹の姿。


 そっか……。そういうことだったんだ。


 大樹の過去の挫折は、決して失われた時間などではなかった。

 サッカーで培った、チームを一つにまとめるその天性の才能は、舞台を変え、現場監督としての「今」の彼を形作る、完璧な土台になっていたのだ。


 『名将ルイス・フェリペ・スコラーリは言ったわ。「絆で結ばれたチームは、どんな困難も乗り越える家族になる」ってね』


 ふわりと、明菜がグラウンドの錆びた金網フェンスに座るようにして現れた。

 彼女が指をパチンと鳴らすと、私たちの目の前の空中に、一枚のタロットカードが青白く浮かび上がる。

 描かれているのは、純白のドレスを着た乙女が、獰猛なライオンの顎を優しく撫で、完全に手懐けている絵柄。


 【STRENGTH(力)】のアルカナ。


 『これは腕力や暴力でねじ伏せる力じゃない。精神的な強さと深い愛情で、猛獣をも従わせる「力」のカードよ。……気性の荒い職人たちを笑顔でまとめ上げる彼に、ぴったりのカードじゃない?』


 明菜の言う通りだ。

 大樹の本当の強さは、この丸太のような筋肉ではなく、その折れない精神性と、人を惹きつける絶対的なリーダーシップにあるのだ。


 私は隣でカルロスと笑い合う彼の横顔を、心底誇らしく見つめた。



 午後六時。


 アカデミーの子どもたちやカルロスに温かく見送られ、私たちはホテル『パラシオ・タンガラ』のスイートルームへと戻ってきた。


 ガチャリ。


 重厚なマホガニーのドアを閉めた瞬間。

 大樹の雰囲気が、ガラリと変わった。


 彼は言葉を発することなく、背後から私の身体を力強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。

 彼の広い胸板が私の背中に密着し、ドクン、ドクンという強い心音が、衣服越しに直接伝わってくる。


 「茉莉子ちゃん……」


 私の首筋に顔を埋め、彼が低く掠れた声で呟く。


 「今日、カルロスに君を紹介できて、本当によかった。昔の俺のすべてを知る場所に……今の俺の一番大事な人を連れて行けた」


 感極まった大樹の声は、微かに震えていた。

 彼を抱きしめ返すように、私は自分のお腹に回された彼の太い腕に、そっと手を添える。


 「俺さ、君がいれば、地球の裏側でも、どんな過酷な現場でも、絶対に頑張れるわ」


 大樹が私の身体をゆっくりと反転させ、真っ直ぐに見つめ合ってくる。

 その熱を帯びた琥珀色の瞳には、もう大型犬の無邪気さはなかった。

 一人の男としての、濃厚で剥き出しの欲求が渦巻いている。


 「昨日の夜も最高だったけど……今夜は、もっと茉莉子ちゃんを感じたい」


 低い声で囁きながら、大樹の少し乾燥した唇が、私の唇を深く、息もつけないほど激しく塞ぐ。


 ポロシャツ越しに互いの体温が急速に上昇し、私たちは絡み合うようにしてキングサイズのベッドへと倒れ込んでいく。

 シーツの冷たさが、火照った肌に心地よい。


 ブラジルの湿気を帯びた熱帯夜が、私たちの理性を完全に溶かしていくのを感じながら、情熱的な夜の幕が再び開けようとしていた。



 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:リーダーの背中に惚れ直し、熱帯夜の発情期に突入。


 新規獲得アイテム

 ・【恩師からの証言】:現場監督としてのルーツ。大樹の真の強さの証明。

 ・【ネイビーのリンクコーデ】:スポーティな装いからの、激しい脱衣戦への前フリ。


 【明菜の分析ログ】


 ただの筋肉バカかと思いきや、猛獣を手懐ける「STRENGTH(力)」のカードを引くなんてね。

 過去の傷を完全に肯定できた男って、精神的に無敵なのよ。


 それにしても、「お前がいればどこでも頑張れる」なんて、プロポーズ一歩手前の殺し文句じゃない。

 さあ、理性を吹き飛ばすサンパウロの夜。彼が宣言した通り、今夜は一睡もできそうにないわね♡

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