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第八十記録【燃えろ!そして傷つけ!】



 DAY4

 八月二十八日、火曜日。

 午後二時。

 サンパウロ。


 リオデジャネイロからの国内線を降り立つと、そこは熱気渦巻くビーチリゾートから一転、高層ビルが林立し、無数の車がクラクションを鳴らし合う南米最大のメガロポリスだった。

 サンパウロの乾いた風と、排気ガスの匂いが鼻腔を突く。


 私たちは送迎車に揺られ、市街地にあるパカエンブー・スタジアムの内部に併設された『サッカー博物館』を訪れていた。


 「パカエンブーって言っても、茉莉子ちゃんにはピンとこないかもだけどさ。昔のワールドカップでも使われた、サンパウロの超伝統的なスタジアムなんだ。その中が丸ごと博物館になってるんだぜ!」


 大樹が興奮気味に、スタジアムの歴史を熱く語ってくれる。


 「へぇ〜、そんな歴史あるスタジアムの中に博物館があるんだ。すごい!」


 サッカーのルールすら怪しい私でも、彼の無邪気な熱量に引っ張られて自然とワクワクしてきた。


 「ここ、すっげぇ面白いんだぜ! ブラジルサッカーの歴史が全部詰まってる!」


 大樹に手を引かれ、薄暗い館内へと足を踏み入れる。


 壁一面の巨大なスクリーンには、往年の名選手たちのスーパープレイと、スタジアムを揺らす熱狂的なサポーターの地鳴りのような歓声がエンドレスで流れていた。

 大樹は少年のように目を輝かせ、私の手を引いて展示エリアを足早に回る。

 ペレの幻のゴール、ロナウドの圧倒的な突破力、ロナウジーニョの魔法のような足技。


 彼が口にする戦術論や選手たちの裏話は、ただの熱狂的なファンという次元を遥かに超えていた。

 それは、「本気でその領域を目指し、彼らの背中を追っていた者」特有の、血の通った熱を帯びている。


 しかし、博物館の奥。

 ブラジル代表がワールドカップで喫した歴史的な敗北や、名選手たちの選手生命を絶った悲劇的な「怪我」の歴史を語る重苦しい展示エリアに差し掛かった時。


 大樹の饒舌な口が、ふと止まった。

 彼はガラスケースの中に展示された、泥と血に汚れた古いスパイクを前に、ピタリと足を止めて見つめている。


 スクリーンから流れる悲痛な実況の声が、薄暗い空間に反響する。

 大樹の広く、逞しい背中。

 そこから、いつもの「太陽」のような底抜けの明るさとは違う、静かで、ひどく冷たい哀愁のようなものが漂っているのを、私は背後から敏感に感じ取っていた。


 「……大樹?」


 そっと名前を呼ぶと、彼はハッと我に返ったように肩を揺らした。


 「おっと、ごめん! ちょっと見入っちまってた。退屈だったか?」


 慌てていつもの笑顔を取り繕い、私の頭をポンポンと乱暴に撫でてくる。

 その手のひらが、いつもより少しだけ冷たく感じた。


 「ううん、全然! 大樹がどれだけサッカー好きか、よーく分かったよ」


 私は無理に明るい声を出して、彼の太い腕に自分の腕をギュッと絡ませた。


 「そっか! じゃあ、そろそろホテルに向かおうぜ。今日のホテルもパパさんのお墨付きだろ?」


 「うん! パパが『まりちゃんのために最高級のオアシスを手配したよ〜』って言ってた!」


 彼の中に一瞬見えた影の正体にはあえて触れず、私たちは展示室の出口へと向かった。

 外に出ると、サンパウロの乾いた夕風が、冷房で冷えた身体をゆっくりと温めてくれた。



 午後五時。

 超高級ホテル『パラシオ・タンガラ』。


 大都会の喧騒から逃れるように車を走らせ、パパが手配してくれた今日の宿へと到着した。

 そこは、サンパウロ市内にありながら、広大なブールレ・マルクス公園の深い緑の森に完全に囲まれた、まるで都会のオアシスのような最高級ホテルだった。


 車のドアが開いた瞬間、鳥のさえずりと、微かな土の匂いが鼻をくすぐる。

 白亜の宮殿を思わせるエントランスを抜けると、磨き上げられた大理石の床と静寂が私たちを出迎えた。


 夜のディナーに向けて、私たちは別々にシャワーを浴び、それぞれのドレスコードへと着替えた。

 私は、ボディラインに滑らかに沿う黒のスリット入りバックシャンドレス。

 歩くたびに深いスリットから白い脚が覗き、背中は腰のあたりまで大胆に開いている。耳元には、一粒のパールのイヤリング。足元は、背筋をピンと伸ばすための黒のピンヒールだ。


 スイートルームのリビングで待っていた大樹も、いつものラフな格好から一変していた。

 黒の無地半袖シャツに、細身の黒スラックス。

 ただのシンプルな服なのに、はち切れんばかりの大胸筋と、丸太のように太い腕の筋肉が、服の上からでもその凶暴なポテンシャルを主張している。


 浅黒く焼けた胸元で、控えめなシルバーのネックレスが冷たく光っていた。


 「……すげぇ綺麗だ。茉莉子ちゃん、大人っぽくてドキドキする」


 私の姿を見た大樹が、低く掠れた声で呟く。

 その視線には、昨日までの「元気な大型犬」の無邪気さは微塵もない。

 獲物をねっとりと見定めるような、大人の男としての危険な色気。


 「大樹も……いつもと雰囲気違って、すごくかっこいいよ」


 私の心臓が、ピンヒールの音よりも大きくドクンと跳ねた。


 私たちは「黒の大人のリンクコーデ」に身を包み、腕を組んで部屋を出る。

 ふかふかの絨毯が敷かれた静かな廊下を歩き、予約していた屋外レストランへと向かった。



 午後八時三十分。

 パラシオ・タンガラ、屋外レストランテラス。


 テーブルの中央で、キャンドルのオレンジ色の火が静かに揺れている。

 周囲の深い森からは、虫の音が涼やかに響き、重厚な赤ワインの香りがグラスから立ち昇っていた。


 極上のフルコースを食べ終え、エスプレッソの苦味で口の中をリセットした頃。

 大樹が、手に持ったワイングラスの赤い液体をじっと見つめながら、ぽつりと語り出した。


 「俺さ、高校卒業してすぐ、ブラジルのクラブの下部組織にサッカー留学したんだ。本気で、プロになれると思ってた。……いや、絶対になってやるって、自信満々だったんだ」


 グラスを持つ彼の太い指が、微かに白くなるほど力が入っている。


 「でも……こっちに来て、すぐに思い知らされた。努力や根性じゃどうにもならない『絶対的な才能の壁』ってやつをさ。……あいつら、足にボールが吸い付いてるみたいなんだぜ。どんなに俺が筋トレしてフィジカルを鍛えても、一瞬の閃きとボールタッチで、簡単にあしらわれちまう」


 大樹の口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。

 南米の夜風が、キャンドルの火を大きく揺らした。


 「それでも、死に物狂いで食らいついてたんだけどな……。ある試合で、無理なタックルを受けて、膝の靭帯を完全にやっちまった」


 大樹が、無意識に自分の右膝を大きな手で擦る。


 「致命的な怪我だった。……医者からは、もうトップレベルの激しいプレーは無理だって宣告されて。夢を絶たれて、絶望して、逃げるように日本に帰ったよ」


 大樹の目から、光が消え去っていく。


 「それから何ヶ月も、部屋に引きこもってさ。サッカーボールを見るのも嫌で、ただ息をしてるだけの抜け殻みたいになってた時期があったんだ」


 あの底抜けに明るく、生命力に溢れる大樹に、そんな暗黒の絶望の時期があったなんて。

 私は衝撃で言葉を失い、ただじっと彼の話を聞くことしかできなかった。


 気付けば、私はテーブルを乗り越えるようにして手を伸ばし、大樹の大きく分厚い、震える両手を、自分の両手でそっと包み込んでいた。


 『ジーコは言ったわ。「勝者とは、常に失敗から学ぶ者だ」ってね』


 しんみりとした空気を切り裂くように、どこからともなく明菜の声が響いた。

 見上げると、テラスのアンティークな手すりの上に、黒いカクテルドレスに身を包んだ明菜が足を組んで腰掛けている。


 明菜……。


 明菜が紫色の爪を光らせ、指をパチンと鳴らす。

 すると、大樹と私の間の空中に、【三枚のタロットカード】がトライアングル状に展開され、青白い光を放ちながら浮かび上がった。


 『さあ、彼の歩んできた道を解き明かしましょうか』


 明菜が、一番左のカードを指差す。

 黒いマントを着た人物が、倒れた三つのカップを前に悲しみに暮れている絵柄。


 『① 過去:【FIVE of CUPS(カップの5)】。手前のカップが倒れて、夢破れた悲しみ。……でも、彼の後ろには、まだ倒れていない二つのカップ(希望)が残されているわ』


 次に、中央の頂点にあるカード。

 様々な生き物が、巨大な車輪の周りを回っている絵柄。


 『② 現在:【THE WHEEL of Fortune(運命の輪)】。絶望の底で止まっていた運命の輪が、再び回り始めた。九条グローバルの現場仕事との出会いが、彼の運命を再び強烈に動かしたのよ』


 最後に、右側のカード。

 教会の設計図を広げ、三人の職人が話し合っている絵柄。


 『③ 未来への力:【THREE of PENTACLES(ペンタクルの3)】。チームワークと、協力して作り上げる仕事。……彼はプロのサッカー選手にはなれなかった。でも、その挫折があったからこそ、別の場所で「チーム」をまとめる才能を開花させたのよ』


 三枚のカードの光が交わり、夜風に溶けるようにスッと空中に消えていく。


 大樹の「挫折」は、決して無駄ではなかった。今の彼が放つ「圧倒的な太陽のオーラ」を形作るための、残酷だけれど必須のプロセスだったのだ。

 私は明菜の言葉を脳内で反芻(はんすう)しながら、目の前に座る彼をじっと見つめ続けた。


 キャンドルの火がオレンジ色の影を彼の顔に落とし、沈黙がテラスを優しく包む。

 グラスに残ったワインを、彼が一気に飲み干した。喉仏が大きく上下する。


 深く、静かな溜息。

 過去の痛みを吐き出すようなその呼吸の後、彼は再び私に視線を向けた。


 「……抜け殻だった俺を拾ってくれたのが、九条の施工現場だった」


 大樹が、包み込んでいた私の手を、逆に力強く握り返してきた。

 その手は温かく、ゴツゴツとしたマメがあり、命の熱に満ちている。


 「そこには、一つの建物をみんなで作り上げる『チーム』があったんだ。……俺のあり余る体力と筋肉が、サッカーじゃなくても、誰かの役に立つのが本当に嬉しかった」


 大樹の顔に、いつもの、私が大好きな屈託のない笑顔が戻る。

 キャンドルの光を受けて、彼の瞳が真っ直ぐに私を射抜いた。


 「だから俺、今の仕事に誇りを持ってる。茉莉子ちゃんに出会えたのも、あの時挫折して、日本に帰ってきたからだしな」


 優しく笑う彼の言葉に、私の胸の奥がギュッと熱く締め付けられる。

 ただの筋肉バカじゃない。

 この人は、誰よりも深い挫折の痛みを知っているからこそ、あんなにも他人に優しく、太陽のように笑えるのだ。


 「大樹……」


 「明日はさ、俺が昔お世話になってたアカデミーに挨拶に行きたいんだ」


 大樹が、私の指に自分の太い指を絡ませ、甘く低い声で囁く。


 「俺の恩師に……俺が世界で一番愛してる女を、紹介したくてさ」


 ド直球すぎる愛情表現。

 彼の傷を乗り越えた強さと、その真っ直ぐな言葉に、私の心の奥底にあった壁が音を立てて崩れ落ちるのがわかった。


 「……うん。行こう」


 私は、彼の手に自分の頬をすり寄せるようにして頷いた。

 私たちは静かに立ち上がり、互いの熱を求めるように身体を密着させながら、ホテルのスイートルームへと向かう重厚な廊下を歩き出した。


 サンパウロの夜は、昨日よりもさらに甘く、エモーショナルな熱を帯びて私たちを包み込もうとしていた。



 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:陽キャの深い影に触れ、母性と愛情が爆発中


 新規獲得アイテム

 ・【過去の挫折】:大樹の底抜けの優しさの、真の理由。

 ・【黒のドレスとシャツ】:コメディを封印するための、危険な大人の色気装備。


 【明菜の分析ログ】


 「運命の輪」は残酷に回るけど、決して人を絶望で終わらせない。

 サッカーの夢が破れたからこそ、彼は今の現場監督としての『チームをまとめる力(ペンタクルの3)』を手に入れた。


 ただの筋肉バカだと思ってた?

 いいえ、彼は誰よりも挫折の痛みをしっているからこそ、あんなに優しく、太陽のように笑えるのよ。

 さあ、彼の弱さも傷跡も、今夜はアンタが全部その官能的な体で包み込んであげなさいな♡

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