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第七十九記録【ムッツリは正義】




 DAY3

 八月二十七日、月曜日。

 午前九時。


 広々とした大理石張りのバスルーム。

 私は壁一面の巨大な鏡の前に立ち、ベージュ色のビキニの紐を、首の後ろでギュッと結び直していた。

 ひんやりとした大理石の床から伝わる冷気が、足の裏をくすぐる。


 鏡に映る自分の顔は、リゾート気分とは裏腹に、どん底の反省モードに染まっていた。

 昨日の夜、シュラスコを食べながら大樹の過去について絶対に聞こうと思ってたのに……。


 口の中に、昨夜の記憶が鮮烈に蘇る。

 岩塩が振られた赤身肉から滴る極上の脂の旨味と、ブラジルのカクテル『カイピリーニャ』の、ライムの強い酸味と焼けるようなアルコールの熱。

 陽気なラテン音楽と極上の肉、そして強い酒に完全に思考を乗っ取られた私は、ポンコツぶりをなんなく発揮してしまった。


 過去を聞き出すどころか、千鳥足でホテルに帰るや否や、燃え上がるような大樹の熱と太い腕に絡め取られ、速攻でベッドの海へと流されてしまったのだ。


 私のバカ! 意志最弱じゃん!


 洗面台に両手をつき、がっくりと項垂れる。


 『オスカー・ニーマイヤーは言ったわ。「私を惹きつけるのは、自由に流れる官能的な曲線だ」ってね』


 不意に、私の肩越しから明菜の呆れたような声が響いた。

 鏡越しに視線を上げると、タオル掛けのパイプの上にちょこんと座った悪魔が、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべている。


 ……誰よそれ。またブラジル縛りの偉人?


 『ブラジルの天才建築家よ。……つまりね、大樹の過去を知りたいって理屈よりも、アンタ自身の官能的なボディラインの欲求が勝ったってわけ。正直でよろしい!』


 「きょ、今日は絶対に聞き出すんだから!」


 図星を突かれて顔を真っ赤に染め、私は洗面台に置かれていた白のシアーシャツをバサッと乱暴に羽織った。

 透け感のある生地が、素肌にふわりと乗る。

 最後に大きな麦わら帽子を深く被り、私は逃げるようにバスルームを飛び出した。



 午前十時三十分。

 コパカバーナビーチ。


 ホテルの重厚な回転扉を抜けた瞬間。

 ガンガンに冷えたロビーの空気から一転、肌を刺すような強烈な日差しと、纏わりつくような熱帯の湿度が全身を包み込んだ。

 サングラスをかけ、熱く焼けた白い砂浜をサクサクと踏みしめながら、海際へと向かう。


 今日の私たちは、大胆なビーチデート仕様のリンクコーデだ。

 私はベージュのビキニに白のシアーシャツ。

 前を歩く大樹は、上半身裸のまま白のリネンシャツを肩に掛け、私と同じベージュ色のスイムショーツを履いている。


 すれ違う観光客の何人かが、大樹の隆起した背筋と分厚い胸板を振り返って見ていくのがわかった。

 どうだー! 私の彼氏(仮)はええ身体しとるやろ〜。


 「ん? 茉莉子ちゃんどした?」


 さっきまで前を向いて歩いていたのにいつの間に顔をこちらに向け不思議そうにしている。


 「別にーどうもしてないよー」


 危ない危ない……ニチャニチャしてるのがバレるとこだった。


 パラソルが並ぶエリアに到着し、私は白いプラスチック製のビーチチェアに深く腰を下ろした。

 大西洋から吹き付ける潮風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。

 寄せては返す波の砕ける音と、遠くで響く陽気な音楽。


 「俺、ちょっと行ってくる!」


 大樹が肩に掛けていたシャツを私のチェアの背もたれにポイッと投げると、裸足のまま真っ白な砂浜へと駆け出していった。


 彼の向かった先には、使い古されたサッカーボールを蹴り合っている、地元の浅黒い肌の少年たちの輪がある。

 大樹が笑顔で何かを叫ぶと、言葉は通じないはずなのに、少年たちはあっという間に彼を輪の中へと招き入れた。


 トンッ、ポンッ。


 リズミカルな音と共に、砂を蹴り上げる。

 大樹の華麗なリフティングが披露され、少年たちから「オーッ!」という歓声が上がった。

 そのまま放たれた、砂浜でのアクロバティックなボレーシュート。

 バチッとボールを弾く乾いた音が、波の音を切り裂いて響き渡る。


 彼の筋肉質な体がしなやかに躍動し、強烈な太陽の光を浴びて、吹き出す汗がダイヤモンドのようにキラキラと乱反射していた。


 本当に、太陽みたいな人だな……。


 少年たちに囲まれ、腹の底から楽しそうに笑う大樹。

 まるで計算し尽くされた一枚の絵画のように美しい光景に、私はサングラス越しの視線を釘付けにされていた。


 『屈託のない明るさと生命力。嘘偽りのない、純粋なエネルギーよ』


 パラソルの骨組みにぶら下がるようにして、明菜が私の視界に現れた。

 彼女の細い指先には、燦々と輝く太陽の下で白馬に乗る子供が描かれたタロットカードが挟まれている。

 【THE SUN(太陽)】のアルカナ。


 そのカードが示す通り、今の大樹は間違いなく、この広大なビーチの誰よりも眩しく輝いていた。



 ザクッ、ザクッ。


 砂を踏む重い足音が近づいてくる。

 たっぷり一時間近く少年たちと汗を流した大樹が、両手にストローの刺さった冷たいココナッツジュースを抱えて戻ってきた。


 「あー、楽しかった! 茉莉子ちゃん、待たせてごめんな!」


 私にジュースを差し出し、隣のビーチチェアにドサリと腰を下ろす。

 彼の分厚い胸板が激しく上下し、荒い呼吸と共に、男らしい汗の匂いと太陽の熱気が漂ってきた。

 その顔は、サッカーを心から満喫した少年のように清々しい。


 『あんなに爽やかな顔してるけど……中身はどうかしらね? 覗いてみる?』


 明菜が、私の耳元で悪魔の囁きを落とす。


 覗くまでもないでしょ。純粋にサッカーを楽しんでたんだから、綺麗な心に決まってる!


 私は反論しつつも、自分の好奇心にはどうしても抗えなかった。

 サングラスの奥で視線を泳がせ、明菜に向かって小さく頷く。


 軽快な電子音が鳴り、スキル【心の隙間マインド・ジッパー】が発動した。


 明菜がニヤニヤと口角を上げ、大樹と私の間にある「何もない空間」を、親指と人差し指でつまみ上げる。

 そのまま、下に向かって腕を勢いよく振り下ろした。


 耳障りな金属音が響き、真夏の眩しい景色の中に、不気味な黒い裂け目が一直線に走る。

 その真っ暗な空間の奥から、ポトリ、と。

 一通の純白の手紙が、砂浜へとこぼれ落ちてきた。


 『どれどれ〜♡』


 明菜がそれを空中で素早くキャッチし、爪で乱暴に封を切り裂く。

 中から取り出した便箋を、私の目の前へとバサリと広げて見せつけてきた。

 そこに記されていたのは、大樹の頭の中に渦巻く、今この瞬間の「本音」だ。


 【大山田大樹の心の声】

 > 『やっべぇ……さっきから茉莉子ちゃんの水着がエロすぎて、目のやり場に困る……。シャツから透けてる谷間とか、最高かよ。やべぇ、下半身が反応しそうだったからサッカーして気を紛らわせてたけど、全然おさまんねぇ。あー、早く夜にならないかな』


 ブフォッ!!


 私はストローから吸い込んでいた甘いココナッツジュースを、豪快に吹き出しそうになった。

 慌てて口を両手で押さえ、ゲホッ、ゴホッと激しく咽せ返る。

 気管に入ったジュースの甘みと痛みが、喉の奥を焼いた。


 ど、ド直球の性欲!! 爽やかさゼロじゃん!! っていうか、サッカーしてた理由それ!?


 顔を一気に真っ赤に染め上げ、私は震える手でサングラスの位置を直す。


 「茉莉子ちゃん、顔赤いぞ? 熱中症か?」


 大樹が本気で心配したような顔で、私の顔を覗き込んできた。

 その無防備で端正な顔が、数センチの距離まで迫る。


 彼から発せられるミントの混じったような体臭が鼻腔を直撃し、頭の中を知ってしまった私の心拍数は、限界を突破して跳ね上がった。


 「な、なんでもない! ちょっと咽せただけ!」


 私は彼の広い胸板を両手でバンッと押し返し、無理やり距離を取った。



 午後一時。

 ビーチ沿いの、ウッドデッキが敷かれたオープンテラスのカフェ。


 私たちは海から上がり、足についた白い砂をシャワーで洗い流してから、日陰のテーブル席へと向かった。

 パラソルの下、シーリングファンがけだるそうに回っている。


 注文したアサイーボウルが運ばれてきた。

 紫色の冷たいシャーベットの上に、バナナやイチゴ、グラノーラがたっぷりと乗っている。


 スプーンですくい、火照った口の中へと放り込む。

 強烈な冷たさと、ベリー系の甘酸っぱさが、疲れた身体に染み渡っていく。


 「美味いな、これ」


 大樹も豪快な音を立ててアサイーボウルを掻き込んでいる。

 しかし、スプーンを口に運ぶ彼の手が、ふと止まった。


 向かいに座る大樹の顔から、先ほどの無邪気な少年の面影がスッと消え去り、真面目な、どこか影を帯びた表情へと切り替わる。

 周囲の喧騒が、一瞬だけ遠のいたような気がした。


 「茉莉子ちゃん。明日は、サンパウロに移動するんだ」


 彼がスプーンを置き、真っ直ぐに私の目を見て告げた。


 「サンパウロ? リオとは違うの?」


 「ああ。……明日、どうしても君に見せたい場所があるんだ」


 低く、静かな声。

 それは、昨日のマラカナン・スタジアムで歴代のユニフォームを見つめていた時の、「過去を抱えた少年」の顔だった。


 グラスの氷が、カランと音を立てて溶ける。


 昨夜は流されて聞けなかった、大樹の過去。

 明日のサンパウロで、ついに彼の核心に触れることができる予感がした。


 私は背筋を伸ばし、テーブルの上でギュッと両手を握りしめる。


 「……うん、わかった」


 私は彼の真っ直ぐな瞳を受け止め、コクリと深く頷いた。



 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:昨夜の肉欲に敗北したポンコツ探偵


 新規獲得アイテム

 ・【太陽の笑顔】:ビーチで輝く圧倒的な陽キャオーラ。

 ・【大樹の心の声】:爽やかな顔の裏に隠された、ド直球な性欲(SSR)。


 【明菜の分析ログ】


 「過去を聞く」って息巻いてたのに、肉と酒とセックスに流されるなんて、さすがはポンコツ令嬢ね。

 でも、ビーチで見せたあの『太陽』のカード。

 あんなに明るく輝いているからこそ、その足元には濃い『影(過去)』が落ちるのよ。


 そして、その心の声……最高じゃない! 健全な肉体に宿る健全な性欲!

 さあ、明日はサンパウロ。彼の『影』の部分に触れる覚悟はできてる?

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