第七十八記録【おおかたブラジル】
DAY2
八月二十六日、日曜日。
午前八時。
コパカバーナ宮殿、スイートルーム。
厚手の遮光カーテンの隙間から、ブラジル特有の強烈で暴力的な朝の光が、真っ直ぐにベッドルームへと差し込んできた。
その眩しさに急かされるように、私は重く接着されたまぶたをゆっくりと押し上げる。
深い海から浮上するような、心地よい気怠さ。
キングサイズのベッドの中で寝返りを打とうとして、腰の奥や太ももの内側、そして首筋にまで、ピリッとした筋肉痛のような疼きが走った。
「んっ……」
思わず声が漏れる。
視線を巡らせると、マホガニーの床やアンティークのソファの上には、昨日私が着ていた白のクロップドトップや大樹のリネンシャツ、そしてレースの下着類が、乱雑な軌跡を描いて脱ぎ散らかされていた。
私の上に掛けられた真っ白な高級シーツは、手で握りしめた跡がくっきりと残り、シワくちゃになっている。
昨夜の情事がいかに激しく、そして情熱的だったかを、部屋の惨状が雄弁に物語っていた。
隣のスペースはすでにもぬけの殻だ。
シーツのひんやりとした感触を肌で感じながら身を起こすと、開け放たれたガラス戸の向こう、バルコニーに大樹の姿があった。
彼は上半身裸のまま、コパカバーナの海風を受けながらストレッチをしている。
朝日を弾く逆三角形の背中。彫刻のように隆起した分厚い肩の筋肉。
その圧倒的な「男」としての造形美に、私は寝起きの頭でぼんやりと見惚れてしまった。
私がベッドの中でモゾモゾと動く微かな衣擦れの音に気づいたのか、大樹が振り返り、部屋の中へと入ってくる。
「おっ、起きたか! よく眠れた?」
彼は太陽のように屈託のない笑顔を浮かべると、そのままベッドの上へとダイブしてきた。
スプリングが大きく軋む。
彼が太い腕で私をシーツごと強く抱きしめ、額にチュッと熱いモーニングキスを落とした。
シャワーを浴びた後なのか、肌から微かにミントの香りがする。
「……大樹のせいで、身体中バキバキなんだけど……」
顔を真っ赤に染め、上目遣いで抗議する。
「ニャハハ! 悪ぃ悪ぃ! 茉莉子ちゃんが可愛すぎて、つい力入っちゃった! ……でも、すっげぇよかっただろ?」
直球すぎる感想と下世話な笑顔。
私は羞恥で沸騰しそうになり、手元にあった羽毛枕を彼の顔面に力一杯押し付けた。
大理石張りの広々としたバスルーム。
私は鏡の前に立ち、南米の強い日差しに対抗すべく、念入りに日焼け止めを塗り込んでいた。
さらに、メイクも汗で崩れないようにウォータープルーフ仕様のものを重ねていく。
『それにしても、昨日の夜は随分と激しかったわね〜。壁が壊れるかと思ったわ』
洗面台に腰掛けた明菜がニヤニヤしながら口を挟んでくる。
また見てたんだ……ブラジルの悪魔友達と仲良くパーティーでもしてくればよかったのに。
明菜に毒づきながら、アイラインを引く手に少し力が入る。
『見てないわよ、音がデカすぎたの。……でも、大樹の体力、底なしでしょ? インドア令嬢のアンタ、今日ちゃんと観光できるの?』
できるもん。気合でカバーする。
リップをポンポンと唇に乗せ、鏡の中の自分に向かって軽く深呼吸。
午前十一時。
リオデジャネイロ、コルコバードの丘。
私たちはスポーティなリンクコーデに着替えていた。
私は、ブラジルの国旗カラーを意識したイエローのショート丈タンクトップに、ハイウエストのデニムショートパンツ。足元は歩き慣れた白のスニーカー。
大樹は、袖をカットオフしたブラジル代表のヴィンテージユニフォームに、ダメージデニム、そしてつばを後ろに向けたキャップという出で立ちだ。
観光名所である『コルコバードの丘』の頂上へ向かうため、私たちは真っ赤な車体の登山列車に揺られていた。
ガタゴトと車体を揺らしながら、急勾配のティジュカの森を登っていく。
開け放たれた窓からは、熱帯雨林の濃密な緑の匂いと、眼下に広がるリオの街並み、そして果てしなく続く青い海が見渡せた。
「なんか、南国風のシミュレーションゲームみたいな絵面だね」
窓枠に頬杖をつきながら、私がポツリとこぼす。
「アハハハ! ゲームかよ」
隣に座る大樹が、腹を抱えて笑った。
「悪かったね! インドア派なもんで!」
私はムッとして、彼の丸太のような腕をボンッと拳で殴る。
硬い。岩を叩いたかのように、私の手のほうが痛くなった。
「痛ぇな〜! 茉莉子ちゃんらしくていいなぁ〜って思っただけなのに〜」
「ほんとに〜?」
ジト目で睨みつけると、大樹は私の肩を抱き寄せ、無理やり窓の景色のほうへと向かせた。
そして、私の背後からすっぽりと包み込むようにバックハグをしてくる。
彼の大きな胸板が背中に密着し、高い体温が直接伝わってきた。
「マジマジ。すっげぇ可愛い」
耳元で囁かれる低い声。
「……熱いんですけど?」
「ブラジルだからな!」
そういうことじゃないんだけどなー、とツッコミを入れながらも、私は彼の腕の中で、その熱と安心感に身を委ねていた。
登山列車を降りた私たちを待ち受けていたのは、絶望的な光景だった。
巨大なキリスト像が立つ頂上へ行くためには、照りつける赤道直下の太陽の下、果てしなく続く石段を自らの足で登らなければならないのだ。
ジリジリと肌を焼く紫外線。纏わりつくような高い湿度。
普段は冷房の効いた部屋で、ポテトチップスを食べながらゲームしかしていないインドア令嬢の私にとって、これはもはや拷問である。
階段を半分も登らないうちに、私の息は完全に上がり、太ももの筋肉がプルプルと痙攣し始めた。
視界の端で、私の脳内UIに表示された「HPバー」が、真っ赤に点滅し、ピーッ、ピーッとけたたましい警告音を鳴らしている。
ちょっと神様……キリスト様! 試練がデカすぎるんですけど!
空に向かって理不尽な悪態をつきながら、私は荒い息を吐き出した。
「ぜぇ……はぁ……もう、無理……脚が、動か、ない……」
ついに私は限界を迎え、階段の途中で無様にへたり込んでしまった。
アスファルトの熱が、デニム越しにお尻をジリジリと焼く。
数段先をズンズンと登っていた大樹が、私の停止に気づいて慌てて駆け下りてきた。
私の目の前で、彼が屈強な膝を折ってしゃがみ込む。
「大丈夫か? ……ほら、乗れよ」
大樹が、分厚く広い背中を私に向けた。
「えっ、でも私、重いし……汗かいてるし……」
申し訳なさと羞恥心で、私は首を横に振る。
「バカ言ってんな! 茉莉子ちゃん一人くらい、羽みたいに軽いっての! ほら、早く!」
彼は振り返り、ニカッと頼もしい笑顔を見せた。
その言葉に甘え、私は遠慮がちに彼の広く分厚い背中に覆い被さり、太い首に腕を回した。
「よっしゃ、行くぜ!」
大樹は「よいしょ」という掛け声すら出さず、私の体重など全く感じていないかのようにヒョイッと軽々と立ち上がった。
そして、先ほどと全く変わらない力強いペースで、ズンズンと階段を登り始める。
私の頬に、彼の首筋から流れる熱い汗の匂いが届く。
太ももの裏から伝わってくる、逞しい背中の筋肉の躍動。
圧倒的な男らしい熱気と、絶対に落とされないという安心感が、私を包み込んでいた。
『アイルトン・セナは言ったわ。「恐怖は、自分の限界を知るための親友だ」ってね』
私の耳元に、どこからともなく明菜が現れ、宙に浮きながら並走し始めた。
アイルトン・セナって……誰だよ。
『ブラジルのF1レーサーよ』
なるほど、ブラジルにいるからってことね。
『アンタの体力の限界を、この筋肉バカが軽々と突破してくれてるじゃない』
明菜はウインクをすると、一枚のタロットカードを虚空に提示した。
描かれているのは、二頭の馬を御し、力強く前進する若き王。
前進する圧倒的なエネルギーと、困難を乗り越える力を暗示する【THE CHARIOT(戦車)】のアルカナ。
『ほら、このカードがそういうことよ。最高の乗り物じゃない♡』
やがて、大樹の足がピタリと止まった。
彼の背中に乗ったまま、私たちはついに頂上へと到達したのだ。
「着いたぜ、茉莉子ちゃん!」
見上げると、青空を背にして両手を広げる、巨大なコルコバードのキリスト像。
そして眼下を見下ろすと、箱庭のように広がるリオデジャネイロの街並みと、弓状に弧を描くコパカバーナ海岸のパノラマ絶景が広がっていた。
「うわぁ……すごい……!」
私が歓声を上げると、大樹が背負ったままの姿勢で顔だけを横に向けた。
「だろ? すっげぇだろ?」
「うん、最高! ……でも、大樹、重くない? 私、もう降りるよ?」
「全然重くねぇよ。それに、茉莉子ちゃんすげぇいい匂いするから、もっと乗っててほしいくらい」
「バカ!」
私は顔を赤くして、彼の広い肩をポカッと叩いた。
大樹の背中という「特等席」から見るその景色は、自分の足で登るよりも遥かに美しく、胸を打つものだった。
私を背負ったまま景色を眺める彼の無邪気な横顔を見て、私の中で彼への愛おしさが、静かに、けれど熱く爆発した。
コルコバードの丘を下りた私たちは、現地のタクシーを拾って市街地へと向かっていた。
ガンガンに冷房の効いた後部座席で、窓の外を流れるカラフルな街並みをぼんやりと眺めていると。
「あっ、おっちゃん! ストップ! アキ・ポル・ファボール(ここでお願いします)!」
突然、大樹が身を乗り出し、運転席の背もたれを叩いて叫んだ。
キキッ、と古びたタイヤが悲鳴を上げ、タクシーが路肩に急停車する。慣性の法則で、私の身体がシートベルトに強く食い込んだ。
「えっ、なになに!?」
「ちょっと待ってて!」
大樹が勢いよくドアを開け放つ。
その瞬間、冷え切った車内に、ムワッとしたラテンの熱気と排気ガス、そして街の喧騒が暴力的に流れ込んできた。
彼は長い脚で歩道へと飛び出し、石畳の角に出ている小さな屋台へと小走りで向かっていく。
私はスモークガラス越しに、店主の陽気なオジサンと身振り手振りで笑い合いながらやり取りをする、大樹の背中を見つめていた。
数分後。
「腹減ったろ! ブラジル来たら、これ食わねぇとな!」
バタン! と勢いよくドアを閉めて戻ってきた大樹の手には、油の染みた茶色い紙袋が二つ握られていた。
途端に、密閉された車内へ、スパイスの効いた香ばしい揚げ物と、濃厚なチーズの匂いが一気に充満する。
「熱いから気をつけてな」
大樹から紙袋を手渡される。
中に入っていたのは、チーズがたっぷり練り込まれたモチモチのパン『ポン・デ・ケイジョ』と、鶏肉を包んで揚げた『コシーニャ(ブラジル風コロッケ)』だった。
紙越しに伝わってくる、火傷しそうなほどの熱。
大きくかぶりつく。
サクッとした衣の中から、スパイスの効いた鶏肉の旨味と濃厚なチーズが溢れ出し、舌の上で暴力的に混ざり合った。
「んっ! これ、めちゃくちゃ美味しい!」
「だろ! 俺、これ大好物なんだ!」
口の周りに油をつけながら、私たちはクーラーの効いたタクシーの窓の外を流れる南米の街並みを眺め、現地のジャンクフードを胃袋へと詰め込んだ。
午後三時。
マラカナン・スタジアム。
午後は、大樹がどうしても行きたかった場所、ブラジルサッカーの聖地へと足を運んだ。
パパの財力をフル活用し、特別に手配したチケットにより、私たちは一般客が立ち入れないピッチレベルやロッカールームを巡る特別ツアーに参加していた。
薄暗い通路を抜け、スタジアムのピッチに足を踏み入れた瞬間。
大樹の表情が、ガラリと変わった。
彼は広大な緑の芝生と、すり鉢状にそびえ立つ巨大なスタンドを見上げ、ピタリと立ち止まった。
そして、まるで神聖な儀式を行うかのように、深く、長く深呼吸をした。
「すげぇ……。ここが、ペレやジーコがプレーしたピッチ……。俺、子供の頃からずっと、ここに来るのが夢だったんだ」
彼の声は微かに震えていた。
その後、ブラジル代表のロッカールームで歴代の選手のユニフォームを見つめる彼の瞳は、私が今まで見たことのないものだった。
熱気や野獣のような男らしさはない。そこにあるのは、完全に「サッカーを愛する純粋な少年」の瞳。
キラキラと輝くその真っ直ぐな瞳を見て、私は胸がギュッと締め付けられるのを感じた。
昨夜の野獣のような男らしさ。
私をおんぶして限界を突破してくれた、オスとしての絶対的な頼もしさ。
そして今の、夢見る少年の顔。
大樹って、本当に真っ直ぐで、眩しい人だな……。
私は完全に、彼に惚れ直している自分に気づいていた。
しかし、ユニフォームを食い入るように見つめる彼の横顔を見ながら、ふと、私の中に冷たい疑問がよぎった。
こんなにサッカーを愛していて、ブラジルまで来るのが夢だったのに……。なんで大樹は、プロの道を諦めて、九条グローバルの施工現場で働いてるんだろう?
大樹の、底抜けに明るい笑顔の裏に隠された「過去」。
その影の正体を知りたいという衝動を抱えながら、私たちは夕食のシュラスコへと向かうため、スタジアムを後にした。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:HP赤ゲージからの、大型犬の背中で全回復。
・魅力:大樹の多面性(野獣・頼もしさ・少年)に完全に惚れ直している。
新規獲得アイテム
・【大樹のおんぶ】:どんな悪路も走破する、最高級の乗り物(戦車)。
・【マラカナンの芝生】:大樹の純粋な「少年性」を引き出す聖地。
【明菜の分析ログ】
「戦車」のカードが示す通り、この男の推進力とパワーは本物ね。
インドア令嬢のポンコツ体力を、筋肉でカバーする男らしい頼もしさ。
でも、スタジアムで見せたあの顔……。
ただの明るい筋肉バカじゃない。あの笑顔の裏には、何かを『諦めた』過去の影が見え隠れするわ。
今夜のディナー(肉の宴)で、彼の本音を少し掘り下げてみるのもいいかもしれないわね?




