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第七十六記録【パッキング・パニック】




 八月二十四日、金曜日。

 午後七時。

 茉莉子の自室。


 ふかふかの絨毯の上に、大人一人がすっぽり入りそうなほどの巨大なトランクケースを二つ、大口を開けた状態で広げている。

 今日は一日中荷造りに追われていた。

 明日の朝から始まる、ブラジル旅行への。


「えっと……これと、これもいるでしょ。あ、日焼け止めは赤道直下だし、絶対に三本くらい必要だよね……」


 私はクローゼットから夏物の服や一応水着を次々と引っ張り出し、トランクの中へと放り込んでいく。

 南半球の紫外線は、令嬢の肌には大敵なのだ。


 『そんなにいるの? 地球の裏側まで男と逃避行なんて、情熱的ね〜』


 私の頭上をフワフワと漂いながら、明菜が呆れたような口調で言った。


 「いるよ〜! だって、男の人と二人きりで初めての海外旅行だよ?」


 『たしかに、パパやスキンヘッド執事以外となら初めてだもんね』


 悪魔の皮肉をスルーし、私は洗面用具のポーチを詰め込もうとした。

 その時。


 『あら? ……こんなのもいるの?』


 明菜がニヤニヤと意地悪に笑いながら、トランクケースの奥の仕切りから、ピンク色の小さな箱を引っぱり出した。


 「なっ!」


 全身の血液が一気に沸騰する。

 それは、大樹との「夜のブラジル戦」に向けて、こっそりと忍ばせておいた『いかがわしい大人のオモチャ』だった。


 「返して! い、いるもん!!」


 私は顔を真っ赤にして明菜の手から箱をひったくり、トランクの洋服の一番下、絶対に誰にも見つからない奥底へとギュウギュウに押し込んだ。


 『何しに旅行に行くのよ〜』


 「何しにってそういうこともしなきゃ旅行じゃないでしょ!」


 まだ心臓がバクバクと鳴っている。

 この悪魔を置いていくことはできないの?


 お願い! 教えて! 神様!!


 ピロン♪


 ちょうどその時、ベッドに投げていたスマホが短い通知音を鳴らした。

 画面を見ると、大樹からのメッセージ。


 『明日楽しみだ!』


 ゴリラが親指を立てているスタンプ付きで送られてきたその文字に、私の口角も自然と緩む。

 すぐに入力を始める。


 『ほんとだね!』


 『でも、ほんとによかったのか? 茉莉子ちゃんがチケットとってくれて』


 『うん、それは全然問題ないよ!』


 私は親指を立てるウサギのスタンプを添えて、軽快に返信した。


 そりゃ問題ないよ。だって、パパのプライベートジェット機で行くんだから。ファーストクラスより快適だし、なにより他の乗客の目を気にしなくていいしね。


 私の心の声を聞き取ったのか、明菜がドン引きしたような顔で私を見下ろした。


 『アンタ……ほんとに使えるものはとことん使うのね。財力の暴力よ、それ』


 「令嬢の特権だから」


 私はドヤ顔で言い返し、トランクケースのジッパーを力強く閉めた。



 午後八時。

 ダイニングルーム。


 二十人は座れる無駄に長いマホガニー製のダイニングテーブル。

 その端と端に、私とパパが座っている。


 テーブルの中央では、シェフの帽子を被った直之が、見事な手さばきで最高級の霜降り肉を鉄板で焼いていた。

 ジュウジュウという肉の焼ける音と、香ばしいガーリックの香りが、広大な空間を満たしている。


 「明日から旅行かい? 気を付けていくんだよぉ〜。パパ、まりちゃんがいないと寂しくて干からびちゃうよぉ」


 パパが、ミディアムレアのステーキを頬張りながら、すでに涙ぐんでいる。


 「あんがと! あっ、そうだ。パパにお願いがあるんだよね」


 「なんだい?」


 私はナイフとフォークを置き、両手を胸の前で合わせて、パパに向かって最高の上目遣いを作った。


 「あのね……今年の夏休み……二週間じゃなくて、もう少しほしいなーなんて?」


 「もっちろんだよ〜! まりちゃんのためなら、お盆休み延ばすことにするねぇ♡」


 パパは満面の笑顔で即答すると、その場で懐からスマホを取り出し、人事部長に電話をかけ始めた。


 「あ、もしもし? 九条だが。……うん、今年の夏休みなんだけどね、私の『ご事情』により、もう少し延長することにしたよ。……え? 業務? そんなの適当に回しておきなさい。ガハハハ!」



 電話を切った直後、私のスマホに会社からの全体業務メールが届いた。


 『全社員へ。今年の夏休みは社長の「ご事情」によりさらに延長となります。つきましては、次の出勤は九月十六日です。各部署、業務の引き継ぎを徹底のこと』


 いや、一ヶ月はやりすぎでしょ……会社潰れない!?


 内心で盛大にツッコミを入れるが、すぐに私のオタク脳がフル回転を始める。


 待てよ。これだったら、ブラジルで大樹と過ごして、そのあとモンゴルで凪ともゆっくり旅行できる! なんならその合間で、ユンジン、恭弥、レオの三人とも順番に会えて、さらにさらに……丸一週間、部屋でゲームに引きこもる日だって確保できるじゃん!


 パズルのピースが、完璧な形で組み合わさっていく。


 「やっぱ、持つべきものは九条壮一郎だ〜♡」


 私は直之が切り分けてくれたステーキを口に運びながら、至福の笑顔をパパに向けた。

 これで、私のドタバタな「五股女のワールドツアー&引きこもり夏休み」の完全なスケジュールが確定したのだ。



 翌朝。

 午前八時。九条邸、エントランス。


 抜けるような青空と、ジリジリと肌を焼く真夏の眩しい太陽。

 広大な車寄せには、すでに大樹が運転する黒のSUVがアイドリング音を響かせて停まっていた。


 「おーい! 茉莉子ちゃーん!」


 車の窓から身を乗り出し、彼が大きく手を振っている。


 私は、昨日パッキングを終えた巨大なキャリーケースのハンドルをしっかりと握りしめた。

 もう片方の手には、黒塗りの九条家特注パスポート(VIP仕様)。


 『さあ、五股女のワールドツアーの幕開けね!』


 明菜が、空を泳ぐように見事なターンを決めながら高らかに宣言する。


 「よーし! 行ってきます!」


 私は最高の夏への決意と共に、大樹の待つ車へと向かって、勢いよく駆け出した。



 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:チート級の夏休み突入(財力と権力のフル活用)


 新規獲得アイテム

 ・【大人のいかがわしいおもちゃ】:ブラジルでの熱い夜の事情♡。

 ・【一ヶ月の夏休み】:パパの権力が生み出した、究極のスケジュール調整枠。


 【明菜の分析ログ】


 「時は金なり」って言うけど、金(と権力)で時(一ヶ月の休み)を買うなんて、さすがは九条の令嬢ね。

 プライベートジェットで地球の裏側へ、熱血筋肉男と逃避行。

 残りの男たちも、首を長くしてアンタの帰りを待ってるわよ。


 さあ、引きこもり干物ゲーマーの体力が、この激動のワールドツアーに耐えられるかしら?

 最高の夏に……いってらっしゃい♡

 

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