第七十五記録【旅行代理店・九条】
八月十五日、水曜日。
午後十二時二十分。
九条本社ビル、屋上。
サマーフェスの喧騒が嘘のように遠のき、明後日からいよいよ本格的なお盆休みに突入する昼下がり。
普段は誰も寄り付かない殺風景な屋上の一角に、私は小さなレジャーシートを広げていた。
照りつける真夏の太陽は、建物の高いコンクリートの縁によってちょうどいい日陰を作ってくれている。
「……でさ、写真撮りたいからさ。アジアの秘境に行こうよ。二人きりで」
向かい合わせに座る凪が、食後のタバコを細い指で挟みながら、何気ない口調で切り出した。
二人きりの空間。彼の言葉遣いは、秘書のそれから、等身大の男へと切り替わっている。
『人狼君はホントに写真が好きね〜。しかもアジアの秘境なんて……いったいどこに連れて行くつもりかしら?』
私の横から、明菜がにゅっと顔を出して茶化してくる。
「場所は、モンゴルに行きたいと思ってる」
凪がライターを弾く。
カチッという硬質な音とともに、小さな炎が立ち上がった。
モンゴルか〜。モンゴルなら確か、パパが避暑用に買った別荘があったはずだし、冷暖房完備で快適に過ごせるからいっか!
私の脳内で、即座に「快適なインドア旅行」の算段が組まれる。
「いいよ! モンゴル行こう!」
満面の笑みで即答した。
「……」
凪はタバコを咥えたまま、スッと目を細めた。
フォレストグリーンの瞳が、私の顔を値踏みするように見つめている。
「……いま、『別荘があるからいいや』って顔したよね?」
「し、してないしてない!」
図星を突かれ、私は慌てて両手を振った。
こいつ、本当に私の思考を読むのが早すぎる。
「言っとくけど、別荘で寝泊まりできないような、ガチの自然の中に行くんだからね」
凪は紫煙をふぅっと吐き出しながら、身を乗り出して私に顔を近づけてきた。
鼻先が触れる距離。
タバコのほろ苦い香りと、彼自身のエロい体臭が混ざり合い、私の肺を満たす。
そのまま、チュッと。
軽いけれど、確かな熱を帯びたキスが私の唇に落とされた。
「それは、承知の助だから」
顔を真っ赤にしながら、震える声で強がる。
「ならいいや」
凪は満足そうに目を細め、ニッカリと白い犬歯を見せて笑った。
和やかな空気が流れる中、私の胃の腑は鉛を飲んだように重かった。
凪には、どうしても言わなければならない『大きなミッション』がある。
あのフェスの日、大樹と交わしてしまったもう一つの約束についてだ。
「あのね、実は……」
私は恐る恐る、自分のスマホの画面を凪の目の前に差し出した。
そこには、大樹からのメッセージ画面が開かれている。
『ブラジル行こうぜ! 俺がサッカーやってた頃の思い出の場所、案内するわ!』
モンゴルどころか、地球の裏側! スケールがデカすぎる! あの筋肉!
画面を見た瞬間。
凪の動きがピタリと止まった。
「……大樹さんとも、約束してたの?」
声のトーンが、一気に二段階ほど下がる。
「うん、実は……」
凪は深く頬をヘコませてタバコを吸い込み、長く、重い沈黙が落ちた。
嫉妬、葛藤、そして諦念。
様々な感情が、彼の端正な顔の上で目まぐるしく交差しているのがわかる。
チリチリとタバコの葉が燃える音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……まだ俺、飛行機は取ってないから。先に大樹さんと旅行、行ってきていいよ」
灰皿にタバコを押し付けながら、凪がポツリとこぼした。
「え? ほんと!? 嫌じゃないの?」
怒られると思っていた私は、思わず声を上げてしまった。
「本音を言えば、めちゃくちゃ嫌だよ? でも、仕方ないじゃん……。茉莉子さん、俺以外も好きなんだし」
凪が身体を傾け、私の肩にコテンと頭を預けてきた。
そのまま、鎖骨のあたりに顔を埋めるようにしてすり寄る。
まるで、飼い主に甘えるシベリアンハスキーのようだ。
「……最後は俺を選んでくれたら、別にいいよ」
シャツ越しに伝わる彼の唇の熱と、甘く重い本音。
な、なんとか修羅場を乗り切った……!
私はホッと安堵の息を吐きながら、彼の頭を優しく撫でた。
午後九時。
仕事から帰り、私は着替えもせずにキングサイズベッドに「バタンキュー」と倒れ込んだ。
シーツの冷たい感触が、火照った身体を癒してくれる。
『ミッション成功ね』
ベッドの足元にふわりと現れた明菜が、腕を組んで見下ろしてきた。
「いや、ほんと……槍降って地固まる、だよ……」
「疲れたぁ」と呻きながら、仰向けのまま答える。
『それを言うなら、「雨」降って地固まる、ね。どんだけ物騒な空模様よ』
明菜のツッコミに、私は力なくケラケラと笑った。
その時。
ピロン、ピロン、ピロン。
ベッドに放り投げていたスマホの通知が、連続して鳴り響いた。
重い身体を起こして画面を見ると、ロック画面に三つのメッセージが並んでいる。
送信者は、ユンジン、恭弥、そしてレオ。
『夏休み、どこ行く?』
『冷却期間(休暇)のスケジュールを共有しろ』
『シンデレラ、バカンスの準備はできているかい?』
「うわぁ〜」
なんておぞましい文字列……。
「流石に夏休みだけで、五人と遊ぶの無理……!!」
私はスマホをベッドに叩きつけた。
お盆休みは有限だ。ブラジルとモンゴルに行くだけで、私の体力も日数も完全に尽きてしまう。
後で一人ずつ、丁寧に断りのメッセージを入れておこうと、固く決意した。
ブーッ、ブーッ。
今度は、スマホが着信を知らせる振動を始めた。
画面には『大山田大樹』の文字が光っている。
私は一呼吸して、通話ボタンをスワイプした。
「はーい、どうしたの?」
『おっす! ……なぁ、凪、なんて言ってた?』
電話越しの声は、いつもより少しだけ小さく、探るような響きがあった。
「普通だったよ。先に行ってきていいって」
『そっか……』
「やめてよ、なんか浮気相手みたいなリアクションするの」
『ニャハハ! ごめんごめん! だって、俺が本命だもんな!』
電話の向こうで、大樹が豪快に笑う声が聞こえる。
その無邪気な明るさに、私の口角も自然と上がっていく。
アハハハ……実は全員本命でっす、とはとても言えない。
「……今は、そういうことにしとく」
少し意地悪に答えてみる。
『なんだってぇー!? 聞き捨てならん! 絶対に俺しかダメ!って惚れさせてやるから覚悟しとけよ!』
「はいはい、もう切るねー」
私はクスクス笑いながら通話を切った。
自然と、顔がニヤニヤとだらしなく緩んでいるのがわかる。
頬を両手でパンッと挟んで、気合を入れる。
ブラジルに行って、モンゴルに行って……。
ふと、本来の自分の姿――休日は一歩も外に出ない「干物ゲーマー」としてのアイデンティティを思い出した。
「え? 今年の夏休み、一歩も部屋に引きこもれないじゃん……!?」
ベッドの上に座り込んだまま、私は絶望的な事実に気がついた。
クーラーの効いた部屋で、ポテチを食べながらゲームをする至福の時間。それが、今年は一秒たりとも存在しないのだ。
ゲーマーとしての深い絶望と、リア充としての甘い歓喜。
二つの相反する感情が入り混じる中、私のドタバタな「引きこもれない夏休み」が、いよいよ幕を開けようとしていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:引きこもれない夏(スケジュール崩壊寸前)
新規獲得アイテム
・【凪の妥協(重い愛)】:嫉妬を押し殺した、人狼の鎖。
・【大樹のチケット】:地球の裏側への強制連行パス。
【明菜の分析ログ】
「二兎を追う者は一兎をも得ず」って言うけど、五兎を追う女はどうなるのかしら?
モンゴルにブラジル……あんた、旅行代理店でも開く気?
それにしても、あの人狼君の「最後は俺を選んで」っていうセリフ。
あれ、妥協してるように見えて、一番重くて逃げられない呪い(マーキング)なのよね。
さぁ、ゲーマー令嬢の体力は、地球の裏側まで持つのかな?
日焼け止めと胃薬、たっぷり持っていくことね♡




