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第七十一記録【サメのどこが好き? 全部】



 視界を埋め尽くす、異常な数のサメ、サメ、サメ。

 私は口を半開きにしたまま、呆然と立ち尽くしていた。


 エアコンの涼しい風が、火照った頬を撫でる。

 かすかに漂う、シーソルトの清潔な匂い。


 恭弥が少しバツが悪そうに咳払いをし、部屋の中央を陣取っていた巨大なホホジロザメのぬいぐるみを、片手でソファの端へと乱暴に退けた。


 ドサッ、と鈍い音がする。


「……言っただろ。一般女性が来る仕様にはなっていないと」


 彼は冷蔵庫を開け、よく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを取り出すと、無造作に私へ差し出した。

 ハッとして我に返る。


 ペットボトルを受け取ると、表面の結露が指先を濡らした。


 「サ、サメの話はあと! 私が来たのは、金曜日の夜のことだから!」


 私はスポーツドリンクをローテーブルに置き、フローリングの床に直接腰を下ろした。

 恭弥もため息をつき、長い脚を折り曲げて私の隣に座る。

 膝と膝が、触れそうな距離。


 「だから、黄倉さんとのキス……どういうつもりなのよ!」


 「オレは何も覚えていないと言っている。アルコールによる一時的な記憶障害だ。事実確認ができない事象で責められても、論理的な回答は出せない」


 恭弥が両手で頭を抱え、苦悩の表情を浮かべる。

 その態度は嘘をついているようには見えないが、私の怒りの炎は簡単には鎮火しない。


 「じゃあ、無意識に惹かれてたってことじゃん! 深層心理で、あの子がいいなって思ってたんでしょ!」


 「違う! 非論理的な飛躍だ! オレがあの女のどこに惹かれる要素がある」


 「嘘つき嘘つき!」


 「嘘じゃないってば!」


 理系男子特有の冷静さが剥がれ落ち、恭弥が声を荒げる。

 まるで子供の口喧嘩だ。


 『なんてわがままな娘なのかしら』


 不意に、呆れきった声が降ってきた。

 見上げると、ソファの端に追いやられたホホジロザメのぬいぐるみの上に、明菜が跨って足を組んでいる。


 明菜は、いま出てこないで!


 心の中で叫ぶが、悪魔はニヤリと笑うだけ。


 『ほら、見てみなさい』


 明菜が空中の何もないところを、親指と人差し指でつまんだ。

 ジジジジッ……。


 空間に黒い裂け目が走り、そこから真っ白い封筒が一通、ポトリと私の膝の上に落ちてきた。


 それはいま、反則だってば……!

 他人の心を勝手に覗くなんて、ズルすぎる。


 だが、明菜は有無を言わさず、手紙の封を切って中身を私に見せつけてきた。


 【剣崎恭弥の心の声】

 > 『オレはただ本当のことを言っているだけなのに……。何故こうも女という生き物は面倒くさくて、疑心暗鬼で非効率なんだ……。そしてどうして、そんな女をオレはこんなにも好きなんだ……』


 ボンッ。


 顔面から火が出るかと思った。

 全身の血液が沸騰し、耳の裏まで真っ赤に染め上げられていくのがわかる。

 胸の奥が、ぎゅんと締め付けられた。


 「ちょ、ちょっと……トイレにいきたい!」


 私は誤魔化すように立ち上がり、裏返った声で叫んだ。


 「トイレ? トイレはここを出て突き当たり右だ」


 恭弥が怪訝そうな顔で指差す。

 私はその方向へ向かって、猛ダッシュした。



 サメのウォールステッカーが貼られたトイレ。

 バタリと扉を閉め、便座の蓋に座り込む。


 ふーっ、ふーっ。

 荒い呼吸を整える。


 さっきの心の声。

 嬉しかった。でも、素直になれない自分がいる。


 どうせ私なんて、彼にとってはただの『実験対象』でしかないんじゃないか。

 そんな卑屈な考えが、涙腺を刺激する。


 ポロリと、一筋の涙が頬を伝った。


 『さっきのが本音じゃなかったら、あの男、相当な詐欺師だと思うけど〜?』


 トイレのドアの向こうから、明菜のからかうような声が響く。


 「科学者だもん、嘘ぐらい平気だよ」


 強がって鼻をすする。


 『はぁ……』


 ドア越しでもわかる、クソデカため息。


 『あのねぇ、あのサメオタクが嘘つくメリットなんて、どこにもないでしょ』


 わかってる。

 本当は、さっきの心の声で全部わかったのだ。


 でも、あの突き放すような冷たい態度をとられたことが悔しくて、この込み上げる感情のやり場がないだけ。


 『いいから、早くうんこ流して出てきなさい』


 「はぁ!? 失礼な! 人の家でいきなりするわけないでしょ!」


 (失礼極まりな悪魔!)と毒づきながら、私はレバーを回して水を流した。

 ジャーッという水音が、私の未練がましい感情を少しだけ洗い流してくれた気がした。



 リビングに戻ると、恭弥は床に座ったまま、ひどくダルそうな顔でこちらを見ていた。

 私は再び、彼の隣に腰を下ろす。


 一分。二分。

 重苦しい沈黙が、部屋を満たしていく。


 壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。


 「……どうせ私なんて、ただのモルモットなんでしょ?」


 沈黙に耐えきれず、私は拗ねた声を出した。


 「あ? 何をいきなり言い出す」


 「だって……いつもみたいに、優しい目じゃないもん」


 堪えていた涙が、ポロポロと溢れ出す。

 自分のことながら、面倒くさい女だと思う。


 「なわけないだろ」


 「じゃあ! 本当のこと言ってよ! 私は恭弥にとって、なんなのさ!!」


 感情をぶつけるように叫ぶ。

 その瞬間だった。


 恭弥の表情から、理性の回路が完全にショートする音が聞こえた気がした。


 ガタッ!


 彼が突然中腰で立ち上がり、私の両肩を強く掴む。

 そのまま強引に引き上げられ、壁際へと追いやられた。


 背中が壁に打ち付けられる。目の前には、血の滴るサメ映画のポスター。


 「いい加減にしろ……!」


 恭弥の顔が、鼻先が触れ合う距離に迫る。

 乱れた呼吸。アルコールとは違う、男の熱い匂いが鼻腔を突く。


 「オレの回路は、とっくの昔にお前で埋まっているんだ!」


 血走った目で、私を睨みつける。


 「他の女なんて目に入る余裕もない……。四六時中、君の体温や匂い、声の周波数ばかりが脳内をノイズのように駆け巡って……睡眠不足なんだぞ」


 それは、理屈でしか世界を測れない理系男子なりの、精一杯で不器用すぎる愛の告白だった。


 突然の大声と、あまりにも彼らしい言葉選びに、私は目をぱちくりとさせる。

 憑き物が落ちたように怒りがスッと消え去り、代わりに、胸の奥から熱くて甘いものが込み上げてきた。


 「……なにそれ。全然ロマンチックじゃない」


 震える声で文句を言いながらも、口角が自然と上がってしまう。


 「オレは事実を述べたまでだ」


 恭弥は顔を真っ赤に染め、ぷいっと視線を逸らした。


 気まずい沈黙が再び降りる。

 だが、さっきまでのトゲトゲしい空気ではない。

 私はクスッと笑い、恭弥のシャツの袖を軽く引っ張った。


 「……君のその行動は、どういう意味だ?」


 彼が上ずった声で尋ねる。


 「……言葉だけじゃわからないから。身体で、証明してよ」


 上目遣いで彼を見つめる。

 恭弥の瞳の色が、スッと深海のように濃くなった。


 「……実証実験というわけか。望むところだ」


 彼の手が私の後頭部に添えられ、ゆっくりと唇が重なる。

 ただ、熱くて不器用な、彼自身の味。


 唇を離さないまま、私たちは手探りで寝室へと移動した。


 カーテンが閉ざされた寝室は薄暗いが、ネイビー色のシーツが敷かれたベッドは、まるで深く沈みゆく海の底のように見えた。

 そこに二人で倒れ込む。

 スプリングが大きく軋む。


 恭弥の熱い息遣いが首筋にかかる。

 不器用だが焦りを孕んだ手つきでブラウスのボタンが外され、スカートが引き剥がされる。


 肌がエアコンの冷たい空気に晒されたのも束の間、すぐに彼の高い体温に覆い尽くされた。


 「言っとくが……今日は寝かせないぞ?」


 私の首筋に顔を埋めたまま、荒い息で彼が囁く。

 眼鏡を外した素顔の瞳が、獲物を捕らえた深海魚のように妖しく光っていた。


 「徹夜は、ゲームで鍛えられてるから平気」


 強がって微笑むと、再び甘い波が押し寄せてきた。


 白く細い指先が私の肌を這い、感度という名のデータを収集するように執拗な愛撫を繰り返す。

 そして、十分に濡れそぼった私の内側へと、彼が侵入してきた。


 「ん、ぁ……っ」


 硬く、ひどく熱を帯びたものが、私の一番奥深い場所へとゆっくりと、だが確実に沈み込んでくる。

 息が止まるほどの、圧倒的な質量。

 一つに繋がり、身体の隙間が彼という存在で隙間なく満たされていくのがわかった。


 「痛くないか?」


 繋がったまま、彼が苦しそうに顔を歪めて私の顔を覗き込む。


 「平気だから……」


 私の震える言葉を合図にするように、彼の腰が動き始めた。


 決して手慣れているわけではない。

 だが、熱く激しく、まるで嵐の夜の荒波のように私を翻弄する。

 打ち付けられるたびに、繋がった部分から生じる摩擦の熱が、電流のように脳髄を焦がしていく。


 軋むベッドの音と、重なり合う水音。そして互いの荒い呼吸。


 深く、深く、息ができないほどの波に飲まれ、果てしない海の底へと一緒に堕ちていく感覚。


 私は、彼の頭の中が今「私」だけでいっぱいになっていることを、自分の内側から生々しく実感し、圧倒的な幸福感と快楽でドロドロに溶けてしまいそうだった。



 事後の気怠い空気が漂う、ベッドルーム。

 汗ばんだ肌を寄せ合い、シーツの中で並んで横たわっている。


 シーツには、恭弥と激しく絡み合った熱の名残がまだこびりついている。


 部屋の隅では、棚に飾られた巨大なメガロドンのフィギュアが、口を大きく開けてこちらを見下ろしている。

 なんともシュールな光景だ。


 恭弥が、汗で額に張り付いた私の前髪を指先で優しく梳きながら、ぼそりと呟いた。


 「オレのシステムをこれだけバグらせたんだ。責任、取れよな」


 普段のツンツンした態度からは想像もつかない、破壊力抜群の甘い「デレ」。


 責任、ねぇ……。


 五股しているなんて知ったら、この人、怒りで爆発して文字通りシステム崩壊しちゃうんじゃないかな。

 ……でも、案外嫉妬で燃え上がってくれるかも。


 「考えとく」


 彼と繋がっていた部分の疼きを感じながら、私は心の奥底に、ほんの一抹の不安という名の罪悪感が沈んでいくのを感じていた。



 【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.002

 ・氏名:九条茉莉子

 ・状態:サメの巣窟で仲直り(実証実験完了)


 現在のステータス

 ・欲情:S(底なしの深海へダイブ)

 ・愛情:A(不器用な告白により急上昇)


 新規獲得アイテム

 ・【恭弥のバグ(告白)】:理系男子の限界突破。データより重い言葉。

 ・【実証実験のデータ】:身体で証明された、深く熱い愛の記録。


 【明菜の分析ログ】


 「オレの回路はお前で埋まってる」……プッ、何そのオタク丸出しの告白!

 でも、不器用な男が一生懸命絞り出した言葉って、案外刺さるのよね。

 実証実験も無事に(?)成功したみたいだし、めでたしめでたし。


 ……と言いたいところだけど。

 『責任取れよ』って言われて、アンタどうすんの?

 五等分なんて、できないわよ?

 

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