第七十記録【ツンデレなサメよ】
午後三時。
広報ブランディング部、九条茉莉子のデスク。
大樹の熱いハグと、白昼堂々の濃厚なキス。
その余韻は、私の体温を未だに平熱より少しだけ高く保っていた。
胸の奥に澱んでいた泥水のような感情が、あの太陽のような笑顔で浄化された気がする。
私は、深呼吸を一つして、デスクの上に裏返して置いていたスマートフォンを手に取った。
ちゃんと、話さなきゃ。
メッセージアプリを開き、恭弥のアイコンをタップする。
キーボードを叩く指先が、ほんの少しだけ震えた。
『朝は言い過ぎた。ちゃんと話したいから、仕事終わったら待ってて』
送信ボタンを押す。
小さなフキダシが画面に吸い込まれていく。
数秒後。
文字の横に、無慈悲な『既読』の二文字が点灯した。
読んだ。……よし。
私はスマホをデスクに置き、返信を待った。
三十秒。
一分。
三分。
……五分。
画面は、真っ暗なままだ。
通知を知らせる振動は、いつまで経っても来ない。
……無視!? あの白衣ヤロウ、読んだくせに無視したな!?
私の中で、悲しみや気まずさといった繊細な感情が、音を立てて崩れ去った。
代わりに、真っ赤なマグマのような「怒り」が臨界点を突破し、全身の血管を駆け巡る。
「上等じゃん」
ギリリ、と奥歯が鳴る。
タタタタタタタタタタッ!!
ッターン!!
私は怒りをエネルギーに変換し、キーボードを破壊する勢いで叩き始めた。
サマーフェスの進行表、海外ゲストのリストアップ、各部署への通達事項。
山積みになっていた雑務が、鬼神のようなスピードで処理されていく。
マウスをクリックする音すら、銃声のようにフロアに響き渡っていた。
「ひぃっ……一条さん、今日なんか怖くない……?」
「触らぬ神に祟りなしよ……」
少し離れたデスクから、きあらと取り巻きたちがヒソヒソと囁き合っているのが聞こえるが、視線を向けることすら時間の無駄だ。
『あらあら、怒りの力ってすごいのね』
私のデスクの上に寝そべり、頬杖をついた明菜が、楽しそうに足をバタバタとさせている。
『でも茉莉子、それ完全に「連絡が来ない彼氏にキレる重い女」の挙動よ?』
重くて結構! 逃がすもんですか!
ぜぇったい逃さんからな!!
私はさらにタイピングの速度を上げた。
今日も、絶対に定時で上がってやる。
午後五時。
「お疲れ様でした!!」
終業のチャイムが鳴り終わる前に、私はデスクから弾かれたように立ち上がった。
周囲の社員たちが目を丸くしているのを尻目に、バッグをひっ掴む。
ヒールを鳴らし、フロアを小走りで駆け抜けた。
目指すは、地下駐車場。
恭弥が愛車で通勤していることは、調査済みだ。
エレベーターホールに滑り込み、下りボタンを乱打する。
早く、早く。
階数表示のランプが、もどかしいほどゆっくりと点滅している。
チン、と鳴って扉が開く。
飛び乗り、地下一階のボタンを押す。
箱が降下する数十秒の間、私は呼吸を整え、リップの乱れを鏡で確認した。
怒髪天を衝いていても、女としての見栄えは保たなければならない。
地下駐車場は、薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいた。
規則正しく並んだ無数の車。
排気ガスと、古びたコンクリートの匂い。
カツ、カツ、カツ。
自分の足音だけが反響する中、私は目を凝らした。
少し先の暗がり。
前方にすっと伸びる、細く鋭いLEDの目つき。大きめの六角形グリルが、静かな威圧感を放っている、黒い物体。
恭弥の車だ。
その横で、白衣を脱いでシャツ姿になった恭弥が、スマホの画面に目を落としながら早足で歩いているのが見えた。
いた!
私は足音を忍ばせ、車の影に身を潜めながら彼に近づいた。
恭弥が車のロックを解除する。
ピピッ、と短い電子音が鳴り、ドアミラーがウイーンと開く。
彼が運転席のドアノブに手をかけ、ドアを開けた瞬間。
私は車の反対側へと回り込み、助手席のドアノブを全力で引いた。
彼がキーを回して全ドアをロックする、ほんのコンマ数秒前。
私は本革のシートに身体を滑り込ませ、バンッ! と力強くドアを閉めた。
「なっ……!?」
運転席に座りかけた恭弥が、目を大きく見開いて私を凝視している。
「まーちゃん!? 君、何をしているんだ!」
「メッセージ無視したでしょ! 逃がさないからね!」
私はシートベルトを引き出し、カチャリと音を立ててバックルに差し込んだ。
これで物理的な固定は完了だ。
「降りろ。非論理的だ。オレは今から帰宅して冷却プロセス(睡眠)に入る」
恭弥が眉間を揉みながら、冷たい声で命じてくる。
「降りない! シートベルトもしたし! 一緒に帰る!」
「ふざけるな。人の車に勝手に乗り込む行為は犯罪だ。建造物侵入ならぬ、車両侵入だぞ」
「あっそ! じゃあ警察に連絡して私を突き出せば!?」
私は腕を組み、ふんぞり返った。
ヤクザの取り立てだと言われようが構わない。既読無視の罪は重いのだ。
私と恭弥の視線が、車内の狭い空間でバチバチと火花を散らす。
十秒。二十秒。
「……はぁ」
恭弥が深いため息をつき、ずり落ちた眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
ここで物理的に私を引きずり下ろすのは、時間とエネルギーの無駄(=非効率)だと、彼の脳内スーパーコンピューターが計算を弾き出したらしい。
彼は無言のままブレーキペダルを踏み込み、エンジンのスタートボタンを押した。
野太い排気音が、地下駐車場に低く響き渡る。
恭弥の車は、夕暮れ時の渋滞に巻き込まれていた。
フロントガラスの向こう、西の空がオレンジと群青色に染まっている。
車内は、完全な無言だった。
流れるのは、微かに聞こえるエアコンの作動音だけ。
気まずい空気が、肺の奥まで侵食してくる。
だが、私は絶対に自分からは折れないと決めていた。前だけを真っ直ぐに見据える。
怒って乗り込んだはいいけど……この後どうやって話し出せばいいのよ……。
横目で、恭弥の横顔を盗み見る。
ハンドルを握る理系男子の手。長く、骨ばった指。
信号の赤い光が、彼の端正な横顔を照らし出す。
『あいつは不器用なだけだ』
大樹の言葉が、脳裏をよぎる。
不器用なサメオタク。
彼が何を考えてあの路地裏にいたのか、なぜ私を拒絶するのか。
答えは、彼の口から直接聞くしかない。
午後六時三十分。
車は閑静な住宅街にある、デザイナーズマンションの地下駐車場に滑り込んだ。
エンジンが切られ、ふっと静寂が戻る。
恭弥が無言で車を降りる。
私もシートベルトを外し、慌てて後を追った。
エレベーターで上階へ。
コンクリート打ちっ放しの冷たい廊下を歩き、彼は一番奥の部屋の前で立ち止まった。
ポケットから鍵を取り出しながら、恭弥が忌々しそうに振り返る。
「本当に上がるのか。オレの部屋は、一般女性が来る仕様にはなっていないぞ」
「ちゃんと話すまでは帰らない」
私は一歩踏み出し、逃げ道を塞いだ。
どんなに散らかっていようが、オイル臭かろうが、怯むつもりはない。
「……勝手にしろ」
恭弥が諦めたように鍵を回し、重いドアを開けた。
玄関は薄暗く、無機質な匂いがする。
彼が靴を脱ぎ、廊下の先にあるリビングのドアを開け、照明のスイッチを入れた。
パッ。
白いLEDの光が、部屋全体を照らし出す。
私は足を踏み入れ――。
「……え?」
呼吸が止まった。
そこは、想像を絶する異空間だった。
散らかっているわけでも、オイル臭いわけでもない。
ただ、異常な数の『サメグッズ』で埋め尽くされていたのだ。
部屋の中央には、人間を丸呑みできそうな巨大なホホジロザメのぬいぐるみ。
コンクリートの壁一面に貼られた、新旧問わない無数のサメ映画ポスター。
ガラスケースの棚に整然と並ぶ、大小様々なサメの顎の骨格標本。
ソファの上に無造作に転がる、血糊のついたデザインのサメ柄クッション。
「何これ……水族館?」
怒りも、気まずさも。
すべてが一瞬で吹き飛ぶほどの、強烈なオタク部屋の光景。
私は口を半開きにしたまま、呆然と立ち尽くした。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:怒りのヤクザキックからの、サメの巣窟で思考停止
新規獲得アイテム
・【既読無視のメッセージ】:怒りゲージをMAXにする着火剤。
・【恭弥の部屋への切符】:物理と気合でこじ開けた、禁断の扉。
【明菜の分析ログ】
「逃げる男は追いたくなる」……見事な狩猟本能ね。
助手席に強行突破なんて、どこのヤクザ映画よ。
でも、乗り込んだ先が『サメの巣窟』だなんてねぇ?
理系男子の隠された聖域で、二人の関係はどうなるのかしら。
……せいぜい、ジョーズに食べられちゃわないように気をつけることね♡




