第六十八記録【プレミアムフライデータウン】
七月二十七日、金曜日。
午前十時。
広報ブランディング部。
クルクル〜♪ クルクル〜♪
私はフィギュアスケーターさながらに、オフィスの廊下を優雅に回転していた。
スカートの裾がふわりと広がる。
なにフライデーか詳しくは知らないが、今日は早く帰れるらしい。それだけで、世界は輝いて見える。
『なにが嬉しくてクルクル回ってるのかしら? ホントに変な女』
天井近くを浮遊する明菜が、呆れ顔で見下ろしてくる。
なんとでも言って〜。早く帰って私はゲームをするんだから〜!
バン!
私は勢いよく自分のデスクに両手をつき、満面の笑みを浮かべた。
「あら? 上機嫌ね?」
向かいの席のセイラさんが、パソコンから視線を上げて微笑んだ。
「はい! そりゃあもちろん! 仕事も上手く進んでるし、しかも今日はなんちゃらフライデーで早く帰れるし、もう最高〜!」
「じゃあ、早く帰れるし、たまにはブランディングのみんなで飲みに行きましょうよ」
……え?
ポトリ。
デスクからボールペンが転がり落ち、床で乾いた音を立てた。
この人、何言った? 早く帰れるから大奥のみんなで飲みに行く? 早く帰れるのに? ありえないっつーの!
「さんせ〜い! きあらも久しぶりにぃ、みんなと飲みに行きたぁ〜い♡」
きあらがバネ仕掛けのように椅子から飛び上がった。
「私は遠慮しときます」
冷静なアカネちゃんの声。ナイス判断だ、アカネちゃん。
「なんでぇー? 新人こそこういうのに積極的に参加しないといけないんだよぅ?」
きあらは頬を膨らませ、わざとらしく首を傾げる。
はぁぁぁ!? あのクソ女、ガチで何言ってんの? 新人こそとかないから! そんなの今の時代通用しないから!
私は脳内で両手をグーにし、きあらをボコボコに殴りつけた。
「少しでいいから一緒に飲まない? 緋色さんとも話したいし、もちろん一条さんとも」
セイラさんがニッコリと、逃げ場のない笑顔を向けてくる。
上司の「お願い」という名の命令だ。
「は、はい! そうしまーす!」
条件反射で返事をしてしまった自分の唇を、全力でつねりたい。
一階、ロビー横のカフェスペース。
私は立ち飲み用の高いテーブルに突っ伏し、深いため息をついた。
「はぁ〜……」
どんよりとした空気がまとわりつく。
プレミアムフライデー? なにそれ? 美味しいの?
カタリ。
テーブルに何かが置かれた音。
顔を上げると、水滴のついたプラスチックカップがあった。
「アイスコーヒー、淹れてきたよ」
「ありがとう〜。いただきまーす」
ストローを咥え、一気に吸い込む。
冷たい苦味が喉を通り抜け、脳を直接刺激する。
どうか、さっきのはただの幻覚であってくれ……。
……。
なるわけないか。
「はぁ……」
またしてもため息が漏れる。
「ため息、多くないか?」
ユンジンが心配そうに眉を下げた。
「だってぇ〜、今日プレミアムフライデーなのにさー」
「なにかあるのか?」
「実は、セイラさんにブランディング部のみんなで飲みに行こうって誘われた」
「アハハハ! それは気の毒だ。でも、行くんだろう?」
「行くけど、行くけどさぁー」
私はストローを噛んだ。
「なーんだ。夜、空いてる? って誘うと思ってたんだ」
ユンジンが悪戯っぽく笑う。
「そうだったんだ。ユンジンと二人のほうがよっぽどいいよ」
何気ない言葉をかけたつもりだった。
しかし、ユンジンの瞳の色が変わった。
甘い茶色の瞳に、熱い光が宿る。
コイツ、どこでスイッチ入ってんだよ! ツッコミ追いつかないわ!
「仕事に戻る前に、キスしたい」
彼の指が伸びてきて、私の顎をそっと持ち上げた。
「だ、だめ♡ みんなに見られちゃ……」
「ユンジンさんもお暇なら、一緒に来ますぅ〜♡」
突然、背後から甘ったるい声が飛んできた。
ビクッ!
私たちは弾かれたように離れた。
そこには、きあらが立っていた。
可愛い顔した笑み。
「ボボ、ボクも!? えっと、それはいいのかな」
ユンジンが慌てて視線を泳がせる。
「はい♡ ユンジンさんが来てくれたら、みんな喜ぶと思うので」
きあらはポンと手を打ち、何かを閃いたように顔を輝かせた。
「そうだ〜! 茉莉子ちゃんにお願いがあるの〜」
「なんですか」
嫌な予感しかしない。
「茉莉子ちゃんが親しくしてる四人のメンズも誘ってよ♪」
こうして。
「広報部女子+茉莉子の男五人」という、地獄の合コンが開催決定したのだった。
午後六時三十分。
新橋、個室居酒屋。
掘りごたつ式の大部屋は、すでにカオスと化していた。
上座にはセイラさんとレオ。
中央にはきあらとその取り巻き(ガリガリ琴音とぽっちゃり由依)、そして恭弥、ユンジン、大樹。
下座には私、凪、アカネちゃんが固まっている。
「唐揚げタワーとハイボール濃いめ!」
大樹が威勢よく注文する。
こいつはどこに行ってもブレないな。
「恭弥様ぁ〜♡」
きあらが恭弥の腕にボディタッチを仕掛ける。
上目遣いで胸元を押し付けるその技、プロ級だ。
「揮発性が高すぎる」
恭弥は顔をしかめ、きあらの香水の成分を分析し始めた。
「エタノール、ムスク、アンバーグリス……。この配合は嗅覚受容体を麻痺させる意図がある」
「やだぁ〜、照れてる〜♡」
きあらはポジティブに変換し、さらに距離を詰める。
メンタル最強かよ。
一方、上座ではセイラさんがレオに釘付けだ。
レオの完璧な営業スマイルとエスコートに、鉄仮面の頬がほんのりと朱に染まっている。
『セイラはレオが気になるのね。きあらは恭弥……アカネは……わからないわね』
明菜が、人間関係の相関図を空中に描き始めた。
へぇー、セイラさんレオのこと好きなんだ。でもわからんでもないけどな。
きあらは恭弥か。意外だな。こんなサメオタクで無愛想な男がいいんだ……。
確かに顔はいいもんね。
でもそんなこと言ったら、ユンジンも大樹も凪だって最高だから!
ユンジンは優しいし、大樹は一緒にいて面白いし、凪は……なんかエロいし。
『他の女と話してる男を見て嫉妬してるのー? 可愛いところあるじゃなーい』
だーまーれー! きーえーろー!
午後七時三十分。
宴もたけなわ。各所で攻防戦が繰り広げられていた。
レオはセイラさんの相手をしつつ、チラチラと私の方を見ているが、セイラさんの鉄壁ガードに阻まれている。
「一条さーん、飲みましょうよぉ〜」
ガリガリ琴音が、並々注がれたビール瓶を持って近づいてきた。
その行く手を、凪が遮る。
「彼女はこれ以上飲みません。僕が管理しますので」
無言の圧。
琴音は「ひぃっ」と声を上げ、すごすごと引き下がっていった。
ナイス、凪。
「思考回路の冷却が必要だ……」
恭弥がぶつぶつ言いながら、冷酒を水のように煽り始めた。
「エタノール濃度十五パーセント……これでは燃料不足だ」
いや、飲みすぎだから。
アカネちゃんと大樹は酒飲みじゃんけんで盛り上がり、由依は美味しいキムチの店をユンジンに聞き出している。
凪もいつの間にか大樹とアカネちゃんとババ抜きしてるし。
なんか……なんか……。
気がつけば、私は一人ぼっちだった。
体育座りで膝を抱える。
別にぼっちなんか寂しくないし! ずっとぼっちみたいなものだったし!
……。
明菜、出てきてよ。
『茉莉子からアタシを呼び出すなんて寂しかったのね〜。よーちよち♡』
明菜が現れ、私の頭を撫でる。
みんなの心の内が見たいから、あれ使って。あれ。
『だめー! できないことはないけど面白くないから、一人だけしかしてあげなーい』
なんでよー! やってよー!
『嫌よ。早く選びなさい』
明菜は楽しそうに、恭弥、きあら、大樹、セイラさん、そしてアカネちゃんを指差した。
五秒間、悩む。
……アカネちゃんにする。
『親友とか言ってる女の心を覗くなんて、最高の悪女ね♡ いいわ、お任せあれ』
スキル【心の隙間】発動。
明菜が空中の何もないところを指でつまんだ。
ジジジジッ……。
空間に黒い裂け目が走り、そこから白い封筒が一通、ポトリと落ちてきた。
『あらー♡』
先に封筒を覗いた明菜が、恍惚とした目つきになる。
なにさ、早く見せてよ。
『いいわよ、覚悟しなさいね』
明菜が手紙を開いて見せてくる。
【緋色アカネの心の声】
> 『今私がババを持ってるから、これを雨宮さんに引いてもらって、そこから大山田さんのカードからハートの1を引けたら勝てるかも!』
なんじゃこりゃあぁぁ!
アカネちゃん、なんでこんなトランプのこと真剣に考えてんのよぉぉぉ!
もっとドロドロしたやつ期待してたのに!
『アタシのスキルはいつでも万全じゃなーいの』
人差し指を唇に当て、憎たらしくウインクする悪魔。
覚えとけよ。
八時三十分。
あぁ、もう帰りたい……。
ワイワイガヤガヤと喧騒が渦巻く中、私はグラスの中で溶けかけた氷を指でつついた。
カラン、と虚しい音がする。
『酒池肉林ねぇ〜! 面白い! もっとカオスになぁれ♡』
明菜が天井でくるくると舞っている。
「雨宮さん、それでね、オススメのお菓子があるんだけど……」
アカネちゃんがニコニコしながら凪に話しかけている。
しかし、凪の視線は常に私の方を向いていた。
それに気づいたアカネちゃんが、ふと静かに目を細める。
その表情に、背筋が寒くなった。
「メモリ不足により強制終了……気持ち悪い」
突然、恭弥がテーブルに突っ伏した。
顔は茹でタコのように真っ赤だ。
「外の空気を……冷却システムを稼働させる……」
彼はふらりと立ち上がり、千鳥足で一人、店を出て行った。
「あーん♡ 恭弥様が大変! 私ぃ、介抱してきますぅ〜!」
きあらが目を輝かせ、バッグをひっ掴んで恭弥を追った。
獲物を見つけたハイエナのようだ。
「あっ、ちょっと恭弥なら私が」
私の言葉など耳に入らない様子で、きあらは嵐のように去っていった。
あんのぶりっ子! 別に行かなくてもいいじゃん!
とにかく二人にはできん!
私は隣にいる大樹の肩を叩く。
「ねぇ、大樹……恭弥が出ていった」
「ん? なになに? 茉莉子ちゃんも飲む?」
大樹はすでに出来上がっていて、話が通じない。
「いや、いい」
他のメンバーも盛り上がっていて気づいていない。
私だけが、妙な胸騒ぎを覚えていた。
「ちょっと、見てくる」
「俺も行くよ」
凪が立ち上がろうとする。
「トイレだから!」
私は彼を制し、一人で店の重い扉を開けた。
居酒屋の裏手、薄暗い路地。
店の喧騒が遠のき、蒸し暑い夜風が肌にまとわりつく。
生ゴミとアルコールの混ざったような匂い。
少し先の街灯の下。
二つの影が重なっているのが見えた。
恭弥が壁に手をついてへたり込んでいる。
その胸元に、きあらがしなだれかかっていた。
「恭弥様ぁ……大丈夫ですかぁ? んっ……♡」
「……え?」
時が止まった。
最悪のタイミングでの目撃。
私の思考もまた、強制終了した。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:カオスからの急転直下(目撃者)
新規獲得アイテム
・【恭弥の泥酔】:理性が飛んだ科学者。制御不能。
・【きあらの好機】:千載一遇のチャンスを逃さない肉食獣。
【明菜の分析ログ】
あーあ……。だから言ったじゃない。
理系男子の酒癖と、肉食女子の嗅覚を舐めちゃダメだって。
……さあ、どうする?
アンタの大事な『推し』が、汚されちゃうわよ?




