第六十五記録【違いを豊かさとして受け止める】
午後九時。
六畳一間のアパート。
電気を消した部屋に、プラネタリウムの偽物の星空が広がっていた。
私たちは古い畳の上に寝転び、ぼんやりと天井を見上げている。
静かだ。
外から聞こえる車の走行音も、どこか遠くの世界の出来事みたいに感じる。
「茉莉子さん」
不意に、凪が口を開いた。
「短冊に、何書いたの?」
「えっ? うーん……世界平和とか?」
私はとっさに誤魔化した。
まさかなにも書いたなんて言えるわけがない。
言ったとしても信じてもらえないだろうし。
「ふーん」
凪は興味なさげに天井を見上げた。
その横顔は、少し幼く、そしてどこか冷めて見えた。
なに! 何この子どうした!? 機嫌悪い?
私が戸惑っていると、突然視界が塞がれた。
凪が覆いかぶさってきたのだ。
「っ……!」
至近距離で目が合う。
暗闇の中でもわかる。彼の瞳孔が開いている。
可愛い年下の男の子の目じゃない。
獲物を捕らえた、雄の目だ。
「俺は書いたよ」
低く、湿った声。
「『茉莉子さんが、俺だけのものになりますように』って」
ドクン。
心臓が跳ねた。
「重い。願い事が重いよ、凪!」
「……重くていい。だってホントに好きなんだもん」
言い訳なんてしない。
真っ直ぐすぎる情熱。
抵抗する間もなく、彼の顔が落ちてきた。
ふにゅ。
唇が塞がれる。
深く、絡め取るようなキス。
息ができない。
「んっ……」
唇が離れると同時に、身体が強く引かれた。
ズルズルと畳の上を引きずられ、部屋の隅に敷かれた布団の上へ。
生活感のある部屋。
古い畳の匂いと、凪の熱気が混ざり合う。
彼の指が、私のタンクトップの裾に掛かる。
躊躇いなく捲り上げられ、冷たい空気が肌に触れた。
彼は丁寧な仮面なんてとっくに捨てていた。
必死に、飢えた獣のように私の肌を求める。
チュッ、チュッ……。
首筋に、強く吸い付かれる。
痛いほどの吸引力。
あえて痕を残そうとしているのがわかる。
「ん……痛いー……」
「ごめん」
謝罪の言葉とは裏腹に、その目は全く反省していなかった。
私は彼の頬を両手で挟み、無理やり顔を上げさせた。
「そんなに急がなくても、今日は凪の物だよ」
精一杯の強がり。
凪はニヤリと笑い、私の鎖骨に顔を埋めた。
「言い方がエロいんだけど」
温かい吐息が鎖骨をくすぐる。
でもすぐに顔を上げ、真剣な眼差しで私を見上げる。
「茉莉子さん……あの4人と付き合ってるの?」
その質問きたかぁー。
やっぱり、避けては通れない道だ。
私は視線を逸らした。
「うーん、付き合ってるわけじゃないけど……」
「んじゃあ、なに? 俺も含めて五股してんの?」
キュルキュルお目々の子犬顔。
そんな顔で見つめられたら、嘘なんてつけない。
私は観念して、小さく息を吐いた。
「……はい、そうです。五股してます」
「……」
「でもこれには深くふかーい理由があってですな、もうホントに深すぎて話しづらいんだよね……」
マリアナ海溝よりも深い理由、婿探ししてるんです☆テヘ!そんなこと言っても信じてもらえないだろうけど。
「じゃあ、俺だけのものに今はなってくれないってこと?」
彼の声が震えていた。
怒りよりも、悲しみが勝っているような響き。
「そうです……ね。ごめん……もし嫌なら、私このまま一人で帰れるから」
私は密着している彼の身体を押し返そうとした。
最低な女だ。
帰れと言われても文句は言えない。
けれど。
「っ……!」
押し返すどころか、さらに強く抱きしめられた。
肋骨が軋むほどの力。
「嫌だけど、嫌じゃない」
「え……?」
「茉莉子さんを感じられないなんて耐えられない」
その声は、大好きなおもちゃを取り上げられた子供のようだった。
駄々っ子のような、純粋で痛切な叫び。
「その深い理由の先に、俺を選んでくれるって希望をもって、俺は茉莉子さんを全力で愛するから」
「凪……」
胸が締め付けられる。
こんな年下の子を、ここまで追い詰めて、傷つけて。
自分が情けなくて仕方ない。
「グス……ひっく……ごめん、なんか涙出てきちゃった……」
視界が滲み、どうしようもなくなる。
私は両手で顔を覆い、しゃくりあげた。
なんで私が泣いてるんだろう。
傷つけられたのは凪の方なのに。
五股なんて最低なことをして、さらに「今は選べない」なんて突き放して。
それなのに被害者ぶって泣くなんて、卑怯にも程がある。
情けなくて、申し訳なくて、涙が止まらない。
その時。
顔を覆っていた私の手首が、強い力で掴まれた。
無理やり両腕を開かされ、無防備な顔を晒される。
「……っ」
目の前に、凪の顔があった。
彼は無表情のまま、濡れた私の頬に顔を寄せた。
熱い吐息が肌にかかる。
ペロリ。
「ひぁ……っ」
湿った感触が頬を這った。
凪が、私の涙を舌で掬い上げたのだ。
犬が主人を慰めるような可愛いものじゃない。
味を確かめるような、もっと粘着質で、執拗な舌触り。
「泣かないでよ」
彼は舌なめずりをし、凍えるほど冷たい瞳で見下ろしてきた。
「どうせ、『私なんかが泣いてごめん』とか、くだらないこと考えてんでしょ?」
図星だった。
全部、見透かされている。
「くだらないとか、言わないで……っ」
反論しようとした唇は、瞬時に塞がれた。
言葉はいらない、と言わんばかりの乱暴な口づけ。
舌が強引にねじ込まれ、私の思考回路をショートさせる。
「ん、んんっ……!」
酸素が奪われる。
それと同時に、私の太ももに凪の手が割り込んできた。
拒絶を許さない力で、足を開かされる。
「……っ!」
覚悟を決める間もなかった。
重く熱い塊が、私の中に侵入してくる。
隙間という隙間をこじ開け、埋め尽くしていく圧倒的な質量。
「あ、ぐ……っ」
苦し紛れの声も、彼の口づけに飲み込まれた。
最奥まで到達した彼が、一度大きく息を吐き、そして動き出す。
皮膚と皮膚が打ち付け合う音が、静かな部屋に響き始める。
彼の行為に、優しさなんて微塵もなかった。
俺はずっと苦しんでるんだ。
お前も同じだけ苦しめ。
俺を感じろ。
そんな感情の奔流を、言葉ではなく、身体全体でぶつけてくるような激しい打ち付け。
突き上げられるたびに、身体が揺さぶられ、脳髄が痺れる。
「……ん、やめ、あぁぁ……!」
私の快楽なんて二の次だと言わんばかりの、一方的な蹂躙。
けれど、彼が私を見下ろす瞳は、悲しいほどに熱を帯びていた。
茉莉子さん、君も感じてる?
俺で、いっぱいになってる?
そう問いかけてくるような、冷ややかで、それでいてすがるような視線。
「好きだよ」なんて、甘い言葉は一つも囁いてくれない。
ただ、耳元で聞こえるのは、獣のような低く荒い吐息だけ。
ガリッ。
「いった……!」
首筋に鋭い痛みが走った。
犬歯が食い込み、肌が破れそうなほどの強さで。
マーキングだ。
消えない痕をつけようとしている。
他の男に、私を見せつけないように。
……痛い。
でも。
その痛みさえも、私の罪を許してくれる罰のように思えて。
どうしようもなく心地よかった。
私は天井を見上げた。
プラネタリウムが映し出す、いつまでも変わらない偽物の星空。
その美しい光景とは対照的に、私は畳の上で獣に貪られ、彼の熱に溺れ続けていた。
私はいつまでも輝く星を眺めながら、彼の熱に抱かれ続けた。
七月八日、日曜日。
午前十時。
高円寺、純情商店街。
快晴の青空の下、私たちは手を繋いで歩いていた。
昨夜の湿っぽい空気とは打って変わって、商店街は活気に満ちている。
古着屋の軒先には派手なシャツが並び、焼き鳥屋からは香ばしい煙が漂っている。
どこか懐かしくて、雑多で、温かい雰囲気。
「なんか、いい雰囲気だね」
私はキョロキョロと周りを見渡した。
お嬢様育ちの私には、この下町感が新鮮でたまらない。
私たちは自然と恋人繋ぎをしていた。
『昨日は情けなくてびぇぇぇぇんって泣いてたのに、抱かれたらケロッとしちゃって……』
私の空いている左手を誰かが握った。
明菜だ。
彼女は呆れたように私を見上げている。
『もうホントにびっくりしすぎて……ニーチェも言ってるわ。「女は愛においてのみ、人間以上のものになるか、それ以下のものになる」ってね。アンタはどっちかしら?』
うるさい! 泣き真似するな!
私は明菜の手を振り払った。
彼女は『うぅ〜こわーい』と肩をすくめ、そのまま空に消えていった。
「茉莉子さん? 茉莉子さん?」
「あぁ! ごめん……ボーッとしてた」
凪が心配そうに顔を覗き込んでいた。
左手にはタバコを持ち、紫煙を燻らせている。
「俺がこの街を気に入るのもわかるでしょ」
「わかる、わかる」
私は大きく頷いた。
気取らなくて、ありのままの自分でいられる場所。
凪がここを愛する理由がわかる気がした。
さらに歩いてると肉屋の店先で、揚げたてのコロッケが売られているのを見つけた。
おじちゃんが、威勢のいい声で呼び込みをしている。
「俺のオススメなんだけど」
「食べる食べる! いこ!!」
私たちは一つずつ買って、ハフハフと言いながらかぶりついた。
「んー! 熱っ! でも美味しい!」
サクサクの衣と、ホクホクのじゃがいも。
素朴だけど、最高のご馳走だ。
「ここのコロッケ、最高なんだよね」
「また食べたいって思える味だ……。専属のシェフとして雇おうかな」
「いやいや、茉莉子さん、アンタが言うと冗談に聞こえないって」
凪が呆れたように笑う。
その時、足元に銀色の毛並みをした猫がすり寄ってきた。
商店街の野良猫だろうか。人懐っこく、私の足にスリスリしてくる。
「わぁ、可愛い〜。野良猫かな?」
私はしゃがみ込み、猫の頭を撫でた。
ゴロゴロと喉を鳴らす感触が、掌に伝わる。
カシャリ。
シャッター音がした。
顔を上げると、凪が一眼レフを構えていた。
ファインダー越しに、彼と目が合う。
撮るなら撮るって言ってよ。なんか恥ずかしいじゃん。
「また来てよ」
凪がカメラを下ろし、少し照れくさそうに言った。
頬が微かに赤い。
「……次は、パジャマ用意しとくから」
昨夜の狼とは違う、年相応の少年の笑顔。
ドキッとして、私は言葉に詰まった。
この子は、一体いくつの顔を持っているんだろう。
その後、私は凪のスクーターの後ろに乗り、自宅まで送ってもらった。
午後三時。
九条家、リビング。
帰宅直後、私は仁王立ちのパパに待ち構えられていた。
「おかえりまりちゃん! 朝帰りについては後でじっくり泣きながら聞くとして! 今は緊急事態だ!」
「なに?」
パパの剣幕に、私は後ずさりした。
後ろでは明菜が楽しそうにステップを踏んでいる。
嫌な予感しかしない。
パパが大型モニターの前に立ち、直之に顎で合図を送った。
直之がリモコンを操作すると、画面にデカデカと文字が表示された。
『九条サマー・ロボットフェスティバル』
「……ロボットフェスティバル?」
フェスティバルってなに?
ロボット同士で賭け事とか?
「実行委員長の遠藤さんが倒れてしまったんだ!」
「そうなんだ。それはそれは不運だね」
他人事のように答える。
私には関係ない話だ。
「それでね、この実行委員長は……まりちゃん! 君に任命する!」
パパがビシッと私を指差した。
「は?」
思考がフリーズする。
私が? 実行委員長?
意味がわからない。
「詳しいことは明日メールで送るから確認しといて♡ パパはこれからシャチョさん達とゴルフに行ってくるから〜♡ 愛してるよ! まりちゃーん!」
言うだけ言って、パパは嵐のように去っていった。
ドアがバタンと閉まる音だけが残る。
ロボット……って、恭弥がいるところじゃん。恭弥と一緒に仕事するってこと?
「言ってたことが違うじゃんね、あのタヌキ」
私は思わず毒づいた。
『あらあら♡ ついにパパからもお仕事頼まれるなんて〜。やるじゃなーい、茉莉子』
明菜が私の肩に肘を置く。
「特別監視室でゴロゴロしながら婿探ししていいって言ったの、あのタヌキじゃん!」
「お嬢様……そう怒らなくても……あっ! 直之がお嬢様のために買ってきた、お嬢様の大好きなケーキ屋さんでシュークリームが……」
直之が何かを言い残し、逃げるようにその場を離れていった。
『ドンマイ、悪魔令嬢さん』
明菜も姿を消す。
「こんな仕事、やめてやるーー!」
リビングに、私の絶叫だけが虚しく響いた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:朝帰りからの緊急ミッション
新規獲得アイテム
・【高円寺のコロッケ】:下町の味。リピート確定。
・【ロボットフェス実行委員長の座】:新たな地獄への片道切符。
【明菜の分析ログ】
年下君との甘い夜も束の間、次は理系男子との共同作業ですか。
ロボットフェスティバルねぇ……。
恋の回路もショートしなきゃいいけど。
ま、せいぜい頑張りなさいな。
アンタの周りは、いつだってトラブルの花盛りなんだから♡




