第六十四記録【下町アパートと七夕のプラネタリウム】
七月七日、土曜日。
午前十一時。
キングサイズのベッドの上で、私はモゾモゾと芋虫のように蠢いた。
天蓋のレース越しに、ぼんやりとした日差しが差し込んでいる。
「ん〜……よく寝たぁ」
大きく伸びをして、サイドテーブルのスマホを手に取る。
画面には『11:00』の表示と、七月七日の日付。
あー、今日って七夕じゃん。
織姫と彦星が年に一度だけ会える日。
ロマンチックな日だ。
でも、私の脳裏に浮かんだのは、一昨日届いたあの冷たいメッセージだった。
『明後日、話があります』
……そう言えば、夕方から凪と会うんだよねー。
胃が少し重くなるのを感じながら、私はむくりと起き上がった。
憂鬱な気分を吹き飛ばすには、朝風呂に限る。
大理石張りのバスルーム。
ジャグジーの泡に沈み込む。
「あぁー……いい湯だなぁー」
温かいお湯が、凝り固まった筋肉をほぐしてくれる。
防水スマホでSNSをチェックしていると、視界の端で何かが動いた。
『いよいよ、あの人狼くんとね』
頭に白いタオルを乗せ、明菜が私の隣で優雅に湯船に浸かっていた。
彼女は濡れた手で、一枚のカードをマジシャンのようにくるりと出現させた。
【THE TOWER(塔)】
雷に打たれて崩れ落ちる塔の絵柄。
彼女はニヤニヤしながら、そのカードを私の鼻先でヒラヒラさせた。
「ニヤけないでよ、悪女」
私はバシャリとお湯をかけようとした。
その瞬間。
バーン!!
「まりちゃーん♡ お風呂上がったらとっても美味しいジェラート買ってきたんだー! 食べよう♡」
ノックもせずに扉が開いた。
パパだ。
満面の笑みで、バケツサイズのジェラートを抱えている。
「キャーッ!!」
私はすかさず左腕で胸を隠し、右手で近くにあった純金の洗面器を掴んだ。
「ノックもしないで開けないでよ! この、タヌキ!!」
カポッ。
洗面器がパパの顔面にクリーンヒットした。
「ぶべらっ!」
自室に戻り、バケツから直接スプーンでジェラートを掬いながら、私は溜息をついた。
パパのおかげで目は覚めたけど、凪との約束の時間は刻一刻と迫っている。
「とりあえず準備だけして、ゲームしますか」
重い腰を上げ、クローゼットを開ける。
七夕デート……というよりは、呼び出しだ。
あんまり気合を入れすぎるのも変だし、かといってラフすぎるのも失礼だし。
選んだのは、カーキ色のタンクトップに、黒のショートパンツ。
少しミリタリーテイストで、強そうな感じを出してみた。
靴は……これだったら迷彩柄のショートブーツがあったはず。
よし、これでいいや。
ブブッ。
スマホが震えた。
凪からだ。
『近くに着きました』
うわっ、もう来た!
私は慌てて階段を駆け下りた。
広い玄関でブーツの紐を結んでいると、背後に気配がした。
「お嬢様、今晩の夕食は?」
直之だ。
黒スーツの上に、ファンシーな花柄のエプロンという、いつものアンバランスな出で立ち。
スキンヘッドが照明を反射して輝いている。
「夕食はいいや。食べてくるかも」
「わかりました。では、よい七夕を」
彼は深く一礼した。
その表情はいつも通り無表情だったが、どこか「行ってらっしゃいませ」以上の意味が含まれている気がした。
重厚な門扉を開ける。
夕暮れの風が髪を撫でた。
門の右端。
いつものクリーム色のスクーターに跨り、凪がタバコを吸っていた。
煙が空に溶けていく。
私に気づくと、彼はタバコを携帯灰皿にしまい、ヘルメットを手に取った。
「こんばんは、茉莉子さん」
「こ、こんばんは」
「行きましょうか」
「うん」
行き先も告げられず、私は彼に渡されたヘルメットを被り、後ろに乗った。
彼の背中に手を回す。
温かい。でも、筋肉が強張っているのが伝わってくる。
スクーターが走り出す。
風を切る音だけが、私たちの間の沈黙を埋めていた。
三十分後。
スクーターが止まったのは、高級レストランでもなくむしろとっても庶民的な雰囲気のある――
高円寺。
古着屋やライブハウスが立ち並ぶ、若者とサブカルチャーの街。
その路地裏にある、築年数の古そうな木造アパートの前だった。
「……ここ?」
「うん。ここ、俺の家なんだ」
凪が指差したのは、二階の角部屋。
塗装が剥げかけた鉄階段と、錆びついた手すり。
昭和の香りが色濃く残る建物だ。
「えぇ!? パパにもしかして無給で働かされてんの!?」
社長秘書がこんな所に?
まさか、ブラック企業?
凪は犬歯を見せてニッと笑った。
「違うよ。給料は十分もらってる。……ただ、ここが一番落ち着くんだよ。……社長には内緒ですよ、あの人も絶対心配してくるから」
彼は、カンカンと音を立てて鉄階段を上り始めた。
私は恐る恐る彼についていく。
すごい。こんなところの中なんて、昭和の資料館ぐらいでしか見たことない……。実際に存在したんだ。
ポカリ。
何かが頭を叩いた。
「痛っ!」
振り返ると、明菜が宙に浮き、ピコピコハンマーを持っていた。
『世間知らずな発言してたら、次は心臓を突き刺されて死ぬわよ』
ピコッ。
もう一度、頭を叩かれる。
うっとうしいな! わかってるよ〜だ!
ハエを払うように手を振っていると、鍵を開けていた凪が振り返った。
「そこに何かいるの?」
「えっ! あ、ううん! なんでもない! 蚊がいてさ!」
私はとっさに誤魔化し、凪の背中をグイグイと押して部屋の中に入った。
部屋は七畳ほどのワンルーム。
意外と綺麗に片付いている。
玄関近くには使い込まれたカメラバッグが無造作に置かれ、壁には彼が自分で撮ったであろうモノクロ写真が、黒いマスキングテープで幾何学的に貼られていた。
殺風景だけど、彼の美意識が詰まった不思議な空間。
「ビールしかないんだけど、飲む?」
凪が小さな冷蔵庫を開けた。
「うん、いただこうかな」
プシュッ。
缶ビールを開ける音が響く。
「お疲れ様」
「お疲れ……様」
缶を軽く合わせる。
凪が手際よく作った野菜炒めをつまみに、私たちは黙々とビールを流し込んだ。
なんか、空気が重い。
会話が続かない。
凪は時折私を見るけれど、すぐに視線を逸らしてしまう。
何を考えているのか、全く読めない。
『茉莉子のこと、助けてあげる』
不意に、明菜の声がした。
彼女は私の隣に座り込み、ニヤリと笑っている。
マジ!? 助かる〜! 何してくれるの?
『ふふん♪ 見てなさい』
明菜は立ち上がり、空中の何もないところを指で摘んだ。
スキル:【心の隙間】発動。
ジジジジッ……。
空間にジッパーを開けるような音がして、黒い裂け目ができた。
そこから、白い封筒が一通、ポトリと落ちてくる。
……なにこれ? 手紙?
『これはね、凪が今どう思ってるかが綴られた手紙よ』
すっげぇぇ! チートじゃん!
『ただし、一人につき一日一回よ』
彼女は得意げにウインクをした。
早く見せて見せて!
『んもう、せっかちな女ね』
明菜が手紙を広げ、私に見えるように向けた。
【雨宮凪の心の声】
『はぁ……俺なにやってんだろ。嫉妬にかまけて茉莉子さんを呼んだのはいいけど、どう切り出せばいいかわっかんねぇ……。なにから話せばいい? レオさんのこと? それとも聞き出すことなんかしないで、自分の心の奥深くに置いとけばいいのか? ……無理だ。とにかく動こう』
彼も迷っていたんだ。
私を責めるつもりじゃなくて、ただどうしていいかわからなくて。
その時、凪が動いた。
立ち上がらず、膝立ちのまま、床をごそごそと移動し始めた。
「な、凪? 何してんの?」
彼は部屋の隅にある棚を探っている。
「どこかな……確かここらへんに……あった」
彼が取り出したのは、黒い球体のような機械だった。
「家庭用プラネタリウム?」
「うん。今日七夕なのに曇りで天の川見れないからさ。……これで星でも見ようよ」
彼は少し照れくさそうに微笑んだ。
その笑顔を見たら、私の緊張も少し解けた気がした。
「うん、そうしよっか」
部屋の電気を消す。
スイッチを入れると、天井一面に満天の星空が広がった。
安っぽい機械だけど、六畳一間のアパートが、一瞬で宇宙になったみたいだ。
私たちは床に並んで寝転び、天井を見上げた。
肩が触れ合う距離。
「あれが夏の大三角形ですね。茉莉子さん、知ってた?」
凪が指差す。
「失敬な。夏三ぐらいは知ってますとも」
「そうなんだ……。じゃあ」
彼は別の星々を指差した。
「あの星達は何座になるでしょうか?」
「えー、あれなんだろう? 蟹座とか?」
「ブー。あれは『恋の星座』なんだよ」
「恋の星座? そんなのあったっけ?」
私が真顔で返すと、凪が吹き出した。
「プッ……! ないよ、そんな星座。……ククク、茉莉子さん面白い」
「はぁ!? 騙したってわけ!?」
「だって、星とかあんまり知らなそうだなと思って」
「そうですよーだ。私、星なんてあんまり興味ないもんー……だ」
むくれて顔を背けると、ふと目が合った。
暗闇の中で、彼の瞳が潤んで光っている。
すごく、色気のある目元。
ドキリとした。
星空よりも、彼の瞳に吸い込まれそうだ。
「……茉莉子さん」
凪の声が、静寂に溶ける。
「今年の短冊には、何を書きましたか?」
「えっ、えっとー……」
「平穏無事」なんて、とても言えない雰囲気だった。
彼の視線が、私の答えを待っている。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:星空の下の事情聴取(任意同行)
現在のステータス
・庶民への順応性:A(缶ビールと野菜炒め、意外といける口)
・ガード(防御力):D-(星空の雰囲気で溶解中)
新規獲得アイテム
・【凪の心の声(手紙)】:攻略のヒントアイテム。
・【家庭用プラネタリウム】:安上がりだけど効果絶大のロマンチック装置。
【明菜の分析ログ】
古いアパートに、家庭用プラネタリウム。
……やるじゃない、秘書君。
高級レストランより、こういう「手作り感」の方が女心に刺さるってこと、無意識にわかってるのかしら?
でも、星空に見惚れて油断しちゃダメよ。
この男の「心の声」は、まだ迷ってる。
迷ってる男が一番、何をしでかすかわからないんだから♡




