第六十三記録【私と君かも知れないね】
七月五日、木曜日。
午前十時。
広報ブランディング部のフロアは、異様な緊張感に包まれていた。
普段はキーボードの打鍵音と電話の声が飛び交うこの場所が、今は水を打ったように静まり返っている。
「整列!」
セイラさんの鋭い号令が響く。
私たち部員は、廊下の両脇にズラリと並び、最敬礼の姿勢をとった。
まるで時代劇の「大奥」だ。将軍様のお通りである。
カツ、カツ、カツ。
重厚な革靴の音が近づいてくる。
自動ドアが開き、現れたのは九条壮一郎――我が社の社長であり、私のパパだ。
威厳たっぷりに髭を撫で、鷹のような鋭い眼光でフロアを見渡している。
その背後には、SPのように直立不動の直之と、記録係としてタブレットを持った凪が控えている。
「うむ」
パパは満足げに頷いた。
「今回の『ジューンブライド・新作ドレス発表会』、実に見事だった。メディアの反応も上々だ。我が社のブランドイメージを大きく向上させたと言えるだろう」
低く、よく通る声。
社員たちから「はっ!」という返事と、安堵の溜息が漏れる。
その瞬間だった。
「ありがとうございますぅ〜!」
甘ったるい声と共に、きあらが一歩前に出た。
パステルピンクのブラウスを翻し、これ以上ないほどの媚びた笑顔をパパに向ける。
「私たちぃ、チーム一丸となって頑張りましたぁ〜♡ 特にぃ、後輩の指導には力を入れてぇ〜、私が手取り足取り教えた甲斐がありましたぁ〜!」
……うっわ。
私は心の中で白目を剥いた。
出たよ、手柄横取り妖怪。
指導? 雑用押し付けただけだろ。あの山のようなコピーとコーヒー淹れが指導なら、私はバリスタになれるわ。
パパの視線が、チラリと私に向けられた。
威厳のある表情の下で、目がうるうると潤んでいる。
「まりちゃん偉い! パパ泣きそう! よく頑張ったねぇ!」
そんな心の声が聞こえてきそうだ。
「ゴホンッ!」
パパはわざとらしい咳払いで誤魔化し、視線を戻した。
ここで泣きそうになるなよ。あれから毎日、朝も夜も食事のたびに嬉し泣きしてんだろうがよ、このタヌキおやじ。
私は呆れつつ、視線をパパの後ろへ向けた。
凪だ。
彼は無表情でタブレットを操作しているが、その視線はきあらを氷のように冷たく見下ろしている。
絶対零度の瞳。
でも、私とは目を合わせようとしない。
なんで凪と目が合わないんだろう?
あっ、あれか。仕事中だもんね。秘書として徹してるんだ。
そう自分に言い聞かせる。
でも、どこか心がざらりとする。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感。
きあらは勝ち誇ったように胸を張っている。
このまま彼女の嘘がまかり通るのか。
悔しさで唇を噛んだ、その時だった。
「おや、黄倉さんでしたっけ?」
涼やかな声が、フロアの空気を切り裂いた。
エレベーターホールの方から、見知った顔ぶれが歩いてきた。
ユンジンと、レオ。
そして、なぜか作業着姿の大樹まで混ざっている。
「指導? 妙ですね」
ユンジンは腕を組み、切れ長の目を細めて冷ややかな視線をきあらに向けた。
口元には、嘲笑が浮かんでいる。
「ボクが受け取った完璧な予算案と進行表、作成者はすべて『一条茉莉子』でしたが。……メタデータを確認しましょうか?」
「えっ……」
きあらの笑顔が凍りつく。
「僕がメンズモデルを引き受けたのは、君の指導のおかげじゃないよ」
レオが優雅に歩み寄り、私の隣に立った。
甘い香水の香りが漂う。
「彼女が、一人で頭を下げに来たからだ。……彼女の『熱意』にほだされたんだよ」
彼は意味深に私を見て、ウインクをした。
「おっ! 茉莉子ちゃん!」
大樹がニカッと笑い、親指を立てた。
「お前が作った会場設営図、現場でも見やすくて好評だったぞ! さすがだ! あれのおかげで搬入がスムーズだったんだ!」
大樹、アンタに関してはそれはやってない。設営図書いたの業者さんだろ。……嘘つくなよ、ありがとうけど。
三方向からの援護射撃。
きあらの顔色が、ピンクから青、そして白へと変わっていく。
「あ、あれぇ〜? データ共有してたからぁ〜名前が間違っちゃったのかなぁ〜? テヘッ☆」
引きつった笑顔で苦しい言い訳をする。
メンタルがゴキブリ並みに強い。
「社長」
これまで沈黙を守っていたセイラさんが、一歩前に出た。
彼女はきあらを一瞥もせず、パパに向かって深く頭を下げた。
「今回の功労者は、間違いなく一条さんと緋色さんです」
淡々とした、事実のみを述べる声。
「彼女たちに過剰な業務量を課したのは事実です。私のマネジメント不足でした。……ですが、一条さんはそれを完璧にこなし、結果を出しました。私は、結果を評価します」
彼女はきあらを庇わなかった。
嘘偽りのない評価。
「うむ」
パパは満足げに頷き、私とアカネちゃんを見た。
「九条グローバルは実力主義だ。一条君、緋色君、よくやった」
「は、はいっ!」
私たちは声を揃えて返事をした。
パパはニッコリと笑い、踵を返して去っていった。
凪も一礼し、パパの後を追う。
きあらは真っ赤な顔で俯き、周囲の社員たちからの冷ややかな視線に晒されていた。
ざまぁみろ。
セイラさんが私の横を通り過ぎる際、足を止めた。
「見直しましたよ」
蚊の鳴くような小声。
「次は、一緒に仕事しましょう」
彼女はそれだけ言うと、ツンと顔を背けて自分のデスクへと戻っていった。
え、今のデレ?
あの鉄仮面が?
私は凪を追いかけて、廊下へ出た。
一言くらい、話したかった。
自動販売機コーナーに差し掛かった辺りで彼をみつけた。
「……っ!」
前方に、レオと凪の姿を見つけた。
レオが優雅に歩き、その後ろを凪が追いかけているような構図だ。
声をかけようとした瞬間、グイッと服の背中を引っ張られた。
『ストップ』
明菜だ。
彼女は私を自販機の影に引きずり込んだ。
ちょっと、明菜何すんのよ!
『いいから♪ いいから♪ 最高のイベント発生中よ』
明菜はニヤニヤしながら、紫色のメガホンを二つ取り出した。
『ほら! 早くアンタもこれで盗み聞きするのよ』
はぁ? 悪趣味……。
文句を言いながらも、好奇心には勝てず、メガホンを耳に当てる。
すると、二人の声がクリアに聞こえてきた。
「……レオさん」
凪の声だ。
秘書としての、感情を殺した冷徹なトーン。
「最近、広報部に顔を出しすぎじゃないですか? 業務の範疇を超えています」
レオが足を止め、ゆっくりと振り返る。
「おや、怖い顔」
レオの含み笑い。
「君こそ、飼い主気取りは良くないよ? 彼女はもう『子供』じゃないんだから」
ドクン。
心臓が跳ねた。
その言葉には、「彼女の女の部分を知っているのは僕だ」という、強烈な優越感が滲んでいた。
凪が黙り込む。
メガホン越しでも、空気が凍りつくのがわかる。
「……」
図星を突かれたのか、凪の呼吸が乱れた。
どす黒い焦燥感が、彼の中から溢れ出してくるようだ。
「……やっぱり、噛み跡をつけておくべきだったか」
凪の独り言。
ゾクリと背筋が震える。
噛み跡? 誰に? 私に?
凪はそのまま、足早に走り去っていった。
残されたレオが、ふっと息を吐く。
「心配しなくても、君だってシンデレラの毒牙にやられるよ」
彼はそう呟き、ポケットに手を入れて歩き出した。
私と明菜は顔を見合わせた。
明菜が床に転がり、お腹を抱えて大爆笑し始めた。
『毒牙って……クククク、アッハハハ! 茉莉子〜アンタとんでもないスキル持ちなのね! 無自覚に男を狂わせる毒牙! ヒィヒィ!』
う、うるしゃい!
私は真っ赤になって、明菜の頭をポカポカと叩いた。
毒牙ってなんなのさ! 私はただ、必死に生きてるだけなのに!
給湯室。
昼休みになり、私はアカネちゃんと二人きりでコーヒーを淹れていた。
「やったねアカネちゃん! 社長に褒められた!」
「うん! 茉莉子ちゃんのおかげだよ〜。あの黄倉さんの顔、見た? スカッとしちゃった」
アカネちゃんが満面の笑みでハイタッチを求めてくる。
パチン!
乾いた音が響く。
「お祝いに写真とろうよ!」
私はスマホを取り出し、カメラアプリを起動した。
コンコン。
ノックの音がして、ドアが開いた。
セイラさんだ。
「あ……コーヒーを淹れたいんだけど」
彼女は私たちを見て、少し困ったように立ち止まった。
私はとっさに、セイラさんの肩に腕を回した。
「セイラさんも撮ろうよ!」
「えっ! ちょ、ちょっと一条さん!?」
「アカネちゃんも入って入って!」
戸惑うセイラさんを真ん中に挟み、私たち三人はレンズに向かってピースをした。
カシャッ。
画面の中で、セイラさんが少しだけはにかんでいるように見えた。
『女の友情? って言うのかしら? なんだか気味が悪いわねー』
給湯室の隅で、明菜がやれやれと首を振る。
彼女の手元には、数枚のカードが展開されていた。
きあらを示すであろう逆位置の【THE EMPRESS(女帝)】と、複数の剣が突き刺さった【TEN of SWORDS(剣の10)】。
『あらあら、この子はこの子で憎悪に満ち溢れてるわねー。……ま、自業自得だけど』
彼女は冷ややかな目で、天井を見上げたのだった。
午後十一時。
自宅のベッドの上で、私は大の字になっていた。
天井のシミを数える。
はぁ……疲れた。
この数週間いや正しくは1ヶ月の激動。
ユンジンとの一夜。大樹との肉体関係。レオとの一線。
そして今日の、凪とレオの冷戦。
キャパオーバーだ。私の脳みそはもうショート寸前。
明後日は七月七日。七夕だ。
そして土曜日。
七夕かー。……誰と過ごすとかしちゃうと、喧嘩になっちゃうからなー。家で大人しくゲーマーしとこ。
それが一番平和だ。
短冊に書く願い事は「平穏無事」一択。
『カントは言ったわ』
明菜が枕元に座り込み、空中で紫色のマニキュアを爪塗りながら。
『「星空への畏敬と、我が内なる道徳律」……アンタには道徳律なんて欠片もないけど、星に願うくらいは許されるんじゃない?』
うるさいなー。道徳律はあるよ、一応。……五股してるだけで。
ブブッ。
枕元のスマホが震えた。
通知画面に表示された名前に、心臓が跳ねた。
『雨宮 凪』
「な、凪」
恐る恐るメッセージを開く。
いつもの可愛い猫のスタンプも、絵文字もない。
冷たいテキストだけが、そこにあった。
『明後日、話があります。空けておいてください。……大事な話です』
なにこれ。
怒ってる?
もしかして三人とそういう事したのバレた??
それとも、今日のレオとの会話を聞かれてた?
社長令嬢としての振る舞いがなってないって説教?
広報部での勝利の余韻が一瞬で吹き飛び、底知れぬ恐怖が襲ってくる。
胃がキリキリと痛む。
『あらあら』
明菜が手元のカードをくるりと回した。
【THE TOWER(塔)】。
崩壊と破滅のカードだ。
『彦星様は随分とお怒りのようね? ……天の川が決壊しなきゃいいけど』
彼女は楽しそうにクスクスと笑う。
楽しいのあんただけだって……。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:勝利の美酒からの、転落予報
現在のステータス
・魅力:SSR(九条家の最終兵器)
・メンタル:D(勝利で回復したが、凪の通知で急降下)
新規獲得アイテム
・【社長のお墨付き】:社内での評価UP。
・【凪の冷たいメッセージ】:恐怖の通知。既読スルー厳禁。
【明菜の分析ログ】
「勝って兜の緒を締めよ」とは言うけど……。
女の戦場(広報部)で勝っても、男の戦場(恋愛)は泥沼化する一方ね。
特にあの秘書君。
……あの子、一度スイッチが入るとブレーキ壊れるタイプよ?
明後日の七夕、願い事をしてる場合じゃなさそうね♡




