第六十二記録【レモンキャディー】
ジジッ……。
背中のファスナーが完全に下ろされ、ノースリーブのニットが床に滑り落ちた。
空調の冷たい風が肌を撫でるのと同時に、レオの熱い視線が私の胸元に突き刺さる。
「……へぇ。黒なんだ」
彼は口元を片手で覆い、値踏みするように目を細めた。
露わになったのは、レースがあしらわれた黒のランジェリー。
白い肌とのコントラストが、嫌でも際立ってしまう。
「見ないでよ……恥ずかしい……」
私は両腕で胸元を隠し、身をよじった。
顔から火が出そうだ。こんな予定じゃなかったのに。
レオはふっと笑い、私の二の腕を優しく撫で下ろす。
「黒ってさ、心理的に『拒絶』や『秘密』を表す色なんだよ。……でも同時に、何にも染まらない『強さ』や、相手を支配したいという『欲求』の表れでもある」
講釈を垂れながら、彼の手がスカートのホックに掛かる。
「今日の茉莉子ちゃんは、どっちかな?」
「……っ」
カチャリ、と金具が外れる音がやけに大きく響いた。
今日のレオは、いつもと違いすぎる。
余裕たっぷりの王子様じゃない。
怖いというより……なんだか、ものすごく焦っているように見える。
『あらあら』
視界の隅、毛足の長い絨毯の上に、明菜がぺたん座り込んでいた。
彼女は床に頬杖をつき、面白そうにレオを見上げている。
『どうしてこんなに焦ってるんでしょうね? シェイクスピアは言ったわ。「愛は盲目であり、恋人たちは自分たちが犯す愚かな過ちが見えない」ってね』
(……何が言いたいんだよ、悪魔キューピッド! 解説してないで向こう行っててよ!)
明菜は『やれやれ』といった様子で肩をすくめ、立ち上がった。
艶やかな黒髪をさらりと手で払い、テラスへと続く窓の方へ歩き出す。
『はいはい、邪魔者は退散しますよーだ。……んじゃあ、お楽しみに〜♡』
彼女がガラス戸をすり抜けて消えた、その瞬間。
グイッ。
顎を強く掴まれ、正面に向き直された。
「どこ向いてんの?」
至近距離にあるレオの顔。
長い睫毛。通った鼻筋。少し潤んだ明るいブラウン色の瞳。
なんて甘美な顔面なんだろう。美しすぎて、息が止まる。
ちゅ。
首筋に、熱い口づけが落とされた。
ゾクリと背筋が震える。
レオは顔を上げ、私の手を握った。
「シャワー、浴びに行こうよ」
手を引かれ、広いリビングを横切る。
足音がカーペットに吸い込まれていく。
彼の大きな手が、私の手を包み込んでいる。その力強さに、拒否する気力なんてとっくに溶けてしまっていた。
バスルームの扉が開く。
「おぉ」
白を基調とした、大理石張りの広い空間。
ガラス張りのシャワーブースに、大人二人が余裕で入れるジャグジー。
素敵だなー。……ま、うちの実家の風呂よりは少し狭いけど。
なんて、場違いな令嬢基準の感想が頭をよぎる。
レオが先にガラス戸の向こうへ消えた。
私は黒い下着を外し、脱衣籠へ入れる。
鏡に映る自分は、上気して、とろんとした目をしていた。
……覚悟、決めなきゃ。
深呼吸をして、ガラス戸を開ける。
むわっとした湯気が視界を覆った。
真っ白で、一瞬どこにいるかわからない。
「レオ……?」
一歩踏み出した、その時。
バシャッ!!
「うわぁっ!?」
温かいシャワーのお湯が、顔面を直撃した。
鼻に水が入る。
「ちょっとレオ! 何すんのさー!」
手で顔を拭いながら抗議すると、湯気の向こうでレオがシャワーヘッドを持って笑っていた。
「アハハハ! 油断してるからだよ」
ケラケラと笑うその顔は、さっきまでの嫉妬に狂った男ではなく、ただの悪戯好きな少年のようだった。
張り詰めていた緊張が、ふっと緩む。
「もう……信じらんない」
私がむくれると、少し気まずくなったのか、レオが近づいてきた。
彼はボディーソープをプッシュし、泡立てた両手を差し出してくる。
「ごめんごめん。……ねぇ、僕の身体、洗って?」
甘えたような声。
私の手を取り、自分の胸板へと導く。
そして、チュッと唇を重ねてきた。
「……ずるい」
私は観念して、彼の身体に泡を滑らせた。
レモンキャンディーのような、甘酸っぱい香りがバスルームに充満する。
しっかりとした胸板。引き締まった腹筋。
泡越しに伝わる体温と、筋肉の硬さ。
綺麗な体。
私が背中に手を回すと、レオがビクッと反応し、私の耳元で小さく吐息を漏らした。
甘い毒に侵食されていくような感覚。
私たちは洗い合うのもほどほどに、タオルを掴んでバスルームを出た。
純白のシーツの上に、二人の影が重なる。
「んっ……」
重ねた唇から、甘い声が漏れた。
さっきの子供っぽいキスじゃない。
舌を絡ませ、互いの空気を奪い合うような、心地よい痛みを伴う大人のキス。
「君が……欲しくてたまらないんだ……。いい?」
レオが私を強く抱きしめる。
肋骨が軋むほどの強さ。
でも、そこには縋るような弱さも見え隠れしていた。
私は小さく頷いた。
彼は優しく私の後頭部に手を回し、ゆっくりとベッドに押し倒した。
視線が交わる。
ヘーゼル色の瞳が、トロリと熱を帯びて私を見つめている。
優しい愛撫。
指先が肌を滑るたびに、電流が走る。
「茉莉子ちゃん……アイシテル」
精一杯の、恥じらいを含んだ声。
いつもキザなセリフを吐く彼からは想像もできないほど、不器用で、飾り気のない言葉。
それが、彼の本心だと痛いほど分かった。
「他の男と関係を持ったとしても……最後は僕を選んでよ……。僕なら、君を世界一幸せにしてあげられるから」
懇願にも似た告白。
胸が締め付けられる。
「レ、レオ……私、レオのこと……」
言い終わる前に、彼が沈み込んできた。
「っ……!」
熱い塊が、私の中に侵入してくる。
隙間なんて一ミリも許さないように。
私のすべてを独り占めするように。
世界が揺れる。
毒が全身に回り、思考が溶けていく。
ただ、彼に満たされる感覚だけが鮮明に残る。
愛おしくて、切なくて、どうしようもなく気持ちいい。
私たちは何度も名前を呼び合い、確かめ合うように深く、深く繋がった。
嵐のような時間が過ぎ去り、静寂が戻ってきた。
乱れたシーツの上で、私たちは並んで寝転んでいた。
天井を見上げるレオの横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだ。
私はそっと手を伸ばし、彼の汗ばんだ金髪を撫でた。
「……さっき、言いかけたんだけど」
「うん?」
レオがこちらを向き、私の手を握る。
「好きって、言いたかったんだよね?」
見透かしたような笑み。
でも、私は視線を逸らさずに頷いた。
「そう。……でも、今この状況で『レオだけ』を選ぶって言えない……」
五人の男たち。
それぞれの魅力、それぞれの想い。
今の私には、まだ誰か一人に絞るなんてできない。
「……けど、好きなの。それだけはわかってほしい」
私の精一杯の言葉。
レオは一瞬だけ寂しそうに目を伏せたが、すぐにいつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「仕方ないね」
彼は私の指先にキスを落とした。
「じゃあ、いつか僕を選んでもらえるまで……愛し続けるよ。覚悟しててね?」
その瞳が、再び妖しく光った。
再び唇が塞がれる。
彼の腕が、また私を求めて動き出す。
今夜はきっと、彼に寝かせてもらえないだろう。
幸せな予感と、体力的な絶望を感じながら、私は再び彼の熱に身を委ねた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:甘い毒の中毒症状(末期)
新規獲得アイテム
・【レモンの香りの記憶】:甘酸っぱい初恋の味……じゃなくて、情事の香りね。
・【王子様の自信に満ちた笑み】:これ見せられたら落ちない女はいないわよ。
【明菜の分析ログ】
ユンジンも大樹も、そしてこの王子様も……。
「他の男と関係を持っててもいいから、最後は俺を選べ」ですって?
どんだけ心が広いのよ。
これが現代のポリアモリー的な? それとも単なるご都合主義?
ま、ツッコミどころは満載だけど……。
一人の女を巡って男たちが嫉妬に狂い、それでも愛を乞う姿。
アタシはそういう「業」の深い展開、大好物だから大いにアリなんだけど♡
せいぜい、全員骨抜きにしてやりなさいな、魔性の花嫁さん。




