第六十一記録【摩天楼の檻】
午後八時。
ホテル・グランヴィア東京、大宴会場「飛天の間」。
煌びやかなシャンデリアの下、さっきまで純白のランウェイが輝いていた場所は、立食形式の打ち上げ会場へと様変わりしていた。
グラスが触れ合う軽やかな音。社員たちの笑い声。
成功の余韻に酔いしれる人々の喧騒が、BGMのジャズと溶け合っている。
私は会場の隅、控え室へと続く廊下の陰で、ようやく一息ついた。
ふぅ。終わった、終わった。
重厚なオートクチュールのドレスは、すでに脱ぎ捨てた。
ノースリーブの黒いリブニット、ボトムスは、くすんだブルーグレーのロングプリーツスカート。
やっと私服に着替えられて安堵安堵。
ていうか我ながら、なんでも似合うなー。……ほんとに罪な女だわ、私ってば。
脳内でニヤリと笑う。
SSRの余韻がまだ残っているのか、自意識過剰スキルが発動中だ。
『はいはい、調子に乗らない』
ふわりと、目の前にカードが舞う。
明菜だ。
彼女は無表情で、一枚のカードを私の鼻先に突きつけた。
【THE FOOL(愚者)】
カードのイラストは、いつもの崖っぷちの若者ではない。
ボサボサの髪で、芋ジャージを着て盛大に転んでいる私のイラストだった。
……何が言いたい! 何が言いたいんだよ、この悪魔!
『とても豆腐メンタルとは思えないなーと思って』
今日ぐらいは多めに見ろよ!
『いつも多めに見てる気がするんだけど〜』
明菜は背を向ける。
『まぁ、いいわ……アタシはもう少しアルコール摂取してくるわね』
そう言って姿を消した。
人混みの熱気に酔い、少し目眩がする。
壁にもたれて目を閉じた、その時だった。
スッ。
温かい手が、私の手首を掴んだ。
「主役がこんな所で油を売ってちゃダメだよ」
甘く、低い声。
目を開けると、そこにはレオがいた。
細めの襟の白シャツは第一ボタンまで開けられ、綺麗な鎖骨がチラリと覗いている。
ライトグレーのスーツ姿も素敵だったけれど、このラフな色気も反則級だ。
「いいの、いいの。今日はみんなが主役なんだからさ」
私は彼が持っていたグラスをひったくり、中身を一気にすすった。
喉が渇いていたのだ。
「……んあ?」
味がしない。
というか、炭酸水だ。
「これ、お酒じゃないの?」
「違うよ。今日は飲みたくないんだ」
レオは肩をすくめ、空になったグラスを受け取った。
「えー、もったいないよ〜。今日はタダ酒なんだから、飲まないと損だよ?」
私は酔いの勢いも借りて、彼の胸板を人差し指でツンと突いた。
すると、レオが私の手をギュッと握りしめた。
そのまま、自分の黒いスラックスの太もものあたりへと誘導する。
「……ねぇ」
彼の顔が近づく。
瞳が、妖しく光る。
「このまま二人で、抜け出さない?」
耳元で囁かれる甘い誘惑。
心臓がドキンと跳ねる。
「抜け出すって……だって、恭弥もまだいて……」
私は会場の中央へ視線を向けた。
そこでは、恭弥が開発部の社員たちに囲まれ、何やら「数値的根拠」について熱弁を振るっている姿が見えた。
彼は彼で、自分の世界に入り込んでいるようだ。
「恭弥なら楽しんでるし、ね?」
レオは私の視線を遮るように、顔を寄せた。
拒否権はない。
彼の瞳には、有無を言わせぬ支配的な色が宿っていた。
地下駐車場。
コンクリートの冷たい空気が、心地いい。
「乗って」
レオが銀色のスーパーカーの助手席を開けた。
私は大人しく乗り込む。
低いシートに身体が沈み込む。革の匂い。
エンジンが低く唸りを上げ、車は夜の街へと滑り出した。
流れる街灯の光が、レオの横顔を断続的に照らす。
彼は何も話さない。
ただ、ハンドルを握る指先が、いつもより強く白くなっている気がした。
三十分後。
車が到着したのは、いつもの港ではなかった。
都心のど真ん中。
見上げるような超高層ビル、外資系高級ホテルの車寄せだった。
「え……ここ……」
「お疲れ様会だよ。ゆっくりしたくてね」
レオはボーイに鍵を預け、私の手を取ってエントランスをくぐった。
慣れた足取りでエレベーターホールへ向かい、カードキーをかざして最上階のボタンを押す。
上昇する浮遊感。
耳がキーンとなる。
通されたのは、スイートルームだった。
広すぎるリビング。窓一面に広がる東京のパノラマ夜景。
宝石箱をひっくり返したような光の海が、眼下に広がっている。
「綺麗」
圧倒され、息を呑む。
しかし同時に、背筋が寒くなるような緊張感を覚えた。
ここは、天空の城なんかじゃない。
逃げ場のない「檻」だ。
カチャリ。
背後で重厚なドアがロックされる音が響いた。
「座って」
レオは冷蔵庫からシャンパンボトルを取り出し、二つのグラスに注いだ。
窓際のソファに座らされる。
グラスを渡されたが、彼は乾杯をしようとはしなかった。
グラスをローテーブルに置く。
カタン、という硬質な音が、静寂を際立たせる。
「……」
レオがゆっくりと近づいてきた。
逃げようと身を引くが、背もたれに阻まれる。
彼は私の両脇に手をつき、逃げ道を塞いだ。
「……レオ?」
見上げた彼の表情に、笑顔はなかった。
底冷えするような、真顔。
スッ。
彼の冷たい指先が伸びてきて、私の顎を持ち上げた。
逃げる視線を捕まえられる。
「『認知的不協和』って知ってる?」
唐突な問いかけ。
「知らない」
「人は矛盾する二つの認知を抱えると、不快感を覚えるんだ」
彼は淡々と、講義でもするかのような口調で語り出す。
「今日の君は、僕という『共犯者』がいながら、恭弥という『正義』の手も取った」
指先が顎から頬へ、そして唇へと滑る。
「矛盾してるよね」
「む、矛盾っていうか……私、実は恭弥とも……」
「知ってるよ。知ってる」
私の言葉を遮り、彼は短く肯定した。
「あのステージで、君は恭弥と笑い合ってた。……僕だけの『シンデレラ』だったはずなのに。誰にでもその顔を見せるんだね」
彼の指が、私の口内に侵入してきた。
濡れた舌を弄ばれる。
「……気に入らないな」
本音だ。
いつも余裕ぶっている王子様が、子供みたいに拗ねている。
でも、その瞳の奥にある独占欲は、冗談では済まされない熱を持っていた。
ドン!
視界が反転した。
私はソファに押し倒され、彼に見下ろされていた。
「っ……!」
彼の腕が私の背中に回る。
ノースリーブニットの背中にあるファスナーに、指がかかった。
「罰として、僕は今日君を抱くよ」
「ちょっと、待って! 抱くって……あの、抱く? ヤるってこと!?」
パニックになり、素っ頓狂な声が出る。
「そうだよ。……まさか初めてなの?」
彼は小首を傾げ、冷ややかな目で私を射抜いた。
「ち、違うけど……」
「……ふーん」
彼は興味深そうに目を細め、人差し指を私の目の前に突き出した。
「もしかして、恭弥と?」
「えっと〜」
中指を立て、二本にする。
「じゃあ、凪?」
「ど、どうかなー」
さらに薬指と小指を立てる。四本。
「ユンジンと、大樹とか?」
「どど、どうでしょうね〜」
ドクン!!
心臓が早鐘を打つ。
図星だ。言い当てられた。
「なるほど。やっぱそうなんだ、ユンジンと大樹か」
彼は確信したように頷いた。
「なんで……わかったの?」
震える声で尋ねる。
「だって、君の視線の動き、身体の距離感……全部『経験済み』の反応だったからね」
心理学的な分析。
一番バレたくない相手に、一番バレたくない事実を知られていた。
面倒くさい。面倒くさい!
「そんなこと、わかってたんだけどね……。僕も唾をつけてないってことぐらい」
彼の瞳に、昏い炎が灯った。
嫉妬。焦燥。そして、独占欲。
ジジッ……。
背中のファスナーが、ゆっくりと下ろされる音がした。
冷たい空気が露わになった背中に触れ、肌が粟立つ。
「……っ!」
彼の指が、背筋をなぞる。
そして、その跡を追うように、熱い唇が落とされた。
ちゅ……。
首筋、肩、そして背中へ。
執拗に吸い付き、痕を残していく。
痛みにも似た快感が走る。
「僕以外の男を見られないようにしてあげる」
耳元で囁かれた言葉は、甘い呪いのようだった。
「……泣いても許さないよ、シンデレラ♡」
窓の外の夜景が滲み、私たちの影が重なる。
逃げ場のない摩天楼の檻の中で、私は共犯者の甘い毒に堕ちていった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:共犯者の独占欲に捕縛
現在のステータス
・魅力:SSR(傾国の花嫁) ※自覚なしのフェロモン垂れ流し状態
・メンタル:A(仕事モード) → 測定不能(現在:レオにより溶解中)
新規獲得アイテム
・【スイートルームのカードキー】:逃走不可の牢獄の鍵。
・【背中のファスナー】:茉莉子の防御壁。レオによって解除済み。
【明菜の分析ログ】
「認知的不協和」なんて小難しい言葉で誤魔化してるけど、要は「僕だけを見てなくて寂しかった」ってことでしょ?
男の嫉妬ほど見苦しくて、愛おしいものはないわね。
さあ、覚悟を決めなさい。
知的なサディストの「お仕置き」は、甘くないわよ?




