第五十九記録【花嫁消失バグと、起死回生の衣装】
六月二十日、水曜日。
午後十二時。
ホテル・グランヴィア東京、大宴会場「飛天の間」。
視界を埋め尽くすのは、暴力的なまでの白だった。
天井高十メートルを超える巨大空間に、幾重にも重なるクリスタルのシャンデリア。
中央には純白のランウェイが一直線に伸び、その周囲を数百本のカサブランカが取り囲んでいる。
むせ返るような百合の甘い芳香。
華やかすぎて、深呼吸するだけで肺が焼けそうだ。
「照明チェックOK! 音響、BGMキュー出し確認! 開始まで六十分!」
スタッフの怒号とインカムのノイズが、BGMのクラシックと不協和音を奏でている。
私はバインダーを抱え、ランウェイの先端に立った。
眩しい。スポットライトの熱が、肌をジリジリと焼く。
(……ここまで来た。本当に、形になった)
足の震えを隠すように、ヒールで床をコツンと鳴らす。
予算半減、期間一ヶ月。
広報部の女帝たちから押し付けられた、無理ゲーとしか思えなかったこのデスマーチ。
でも、今のこの景色は――悪くない。
中学の演劇部で主役を降ろされて以来、スポットライトなんて浴びることはないと思っていたけれど。
裏方としてこの舞台を作る高揚感は、ネトゲで初見のレイドボスを倒した瞬間に似ている。
『お疲れ様、マドモアゼル』
ふわりと、視界の端に紫色の影が揺れた。
明菜だ。
彼女は誰もいないVIP席の背もたれに優雅に腰掛け、手にはどこから調達したのか、ピンク色の液体が注がれたグラスを持っている。
『正直、アンタがここまでやるとは思わなかったわ。……流石、あの父親の娘ね。乾杯』
彼女はグラスを掲げ、悪戯っぽくウインクをした。
「アハハ、ありがと。……って、それ絶対、来賓用のロゼでしょ。飲むな飲むな」
私は苦笑しながら、彼女の手の甲をペチリと叩く仕草をした。
明菜は『あら、ケチねぇ』と肩をすくめ、グラスの中身を一気に煽るフリをする。
「よし……最終チェック完了。あとはモデルさんたちが着替えて、ここを歩くだけ」
完璧な布陣だ。
あとは開戦の合図を待つのみ。
その時だった。
ザザッ――!
耳元のインカムが、耳障りなノイズを吐き出した。
『――チーフ! トラブルです! 緊急事態発生!』
悲鳴に近いスタッフの声。
嫌な予感が、背筋を冷たく駆け上がる。
『第3モデル班が到着しません! 連絡もつかない! 完全に……飛びました!』
第3班。
今回のショーの目玉、メインのウエディングドレスを担当するトップモデルだ。
「……は?」
思考がフリーズする。
血の気が引く音が聞こえた気がした。
私はバインダーを抱え直し、スカートを翻してバックステージへと全力疾走した。
表の華やかさとは対照的に、バックヤードの通路は薄暗く、埃と整髪料の匂いが混ざり合った独特の空気に満ちていた。
控室の前には、すでに人だかりができている。
「どういうことですか!」
人垣をかき分けて前に出る。
そこには、担当スタッフが蒼白な顔で立ち尽くし、その前で二人の女が立っていた。
セイラさんと、きあら。
「モデル事務所と連絡がつきません……。完全にドタキャンです……」
スタッフが泣きそうな声で報告する。
ありえない。前日の最終確認では「楽しみにしています」と返信があったはずだ。
人為的なミスじゃない。
これは――悪意ある妨害工作(トロール行為)だ。
セイラさんがゆっくりとこちらを向いた。
濃紺のパンツスーツ。隙のないまとめ髪。
その表情は能面のように冷徹だが、書類を持つ指先が白くなるほど力を込めている。
「……リスク管理が甘かったようですね、一条さん」
抑揚のない、絶対零度の声。
しかし、彼女の鋭い視線は私を射抜いた後、一瞬だけ隣のきあらに逸れた。
眉間に刻まれた、微かな皺。
対して隣のきあらは、上機嫌だった。
フリルのついたパステルピンクのワンピース。場違いに甘ったるい香水の匂い。
彼女は派手な扇子で口元を隠し、三日月のように目を細めている。
「やだぁ〜、どうしよぉ〜? 衣装はあるのに着る人がいなぁい♡」
猫撫で声が、神経を逆撫でする。
「代役なんて今から見つからないよねぇ〜? せっかくのドレスがもったいなぁい♡」
隠しきれない愉悦。
ショーの成功よりも、私が泥をかぶる姿を見たいという歪んだ欲望が透けて見える。
……クソすぎ!
私は奥歯を噛み締めた。
25歳のぶりっ子モンスターと、27歳の鉄仮面魔女め!
全体責任という言葉を盾にして、私の努力を、アカネちゃんの涙を、全部踏みにじる気か。
「一部の欠落は、ショー全体の失敗を意味します。……責任問題ですね」
セイラが冷ややかに告げる。
絶体絶命。
今から代役を探す時間なんて、一秒もない。
「クエスト失敗」の文字が目の前で点滅する。
その時。
重苦しい沈黙を破ったのは、鈴を転がすような静かな声だった。
「……サイズが合う人が、一人だけいるじゃない」
アカネちゃんだ。
彼女はいつものふんわりとした笑顔のまま、スッと手を挙げた。
その瞳は、きあら達に向けられたものではなく、ただ純粋な解決策を見つけた子供のように輝いている。
「え?」
「茉莉子ちゃん。……スタイル、すごくいいよね?」
彼女の細い指先が、真っ直ぐに私を指していた。
全員の視線が、私に集中する。
値踏みするようなセイラの目。
「はぁ?」と露骨に顔を歪めるきあらの目。
「わ、私が……?」
「身長も近いし、茉莉子ちゃんなら絶対に着こなせると思うな」
アカネちゃんは、悪気のない無邪気な笑顔を私に向けた。
その目は、一点の曇りもなく私を信じている――ように見えた。
私は自分の体を見下ろした。
……ま、まぁ確かに?
自分でも顔面とスタイルは「上の中」よりちょい上だとは自負してたけどさ……
『謙遜しないことはいいことだけど、口に出すと刺されるからやめときなさいねー』
明菜が私の耳元で呆れたように囁く。
でも、他に手はない。
このままショーを失敗させて、彼女たちの高笑いを聞くなんて死んでも御免だ。
私は顔を上げた。腹を括る。
「……私が着ます」
セイラさんが少し意外そうに目を見開いた。
しかし、すぐに腕時計に視線を落とし、冷徹な業務モードに戻る。
「時間はあと三十分です。急ぎなさい」
更衣室の鏡前。
女優ライトの中、私は椅子に座らされていた。
「時間がないわ! 急いで! ベースメイクは活かすから、ポイントメイクだけ濃くして!」
スタイリストたちの怒号が飛び交う。
ドライヤーの轟音。ヘアスプレーのむせるような霧。
セミロングの髪が、プロの手によって編み込まれ、ふわりとしたカールを描くハーフアップへと変貌していく。
パールの髪飾りが添えられ、顔周りが一気に華やぐ。
「リップは赤すぎず、でも血色感を出して!」
「ハイライト足します!」
鏡の中の自分が、みるみるうちに別人になっていく。
そして。
目の前に運ばれてきたのは、純白のオートクチュール・ウエディングドレス。
最高級のシルクとレースをふんだんに使い、繊細な刺繍が施された、この世で一番美しい戦闘服。
「足、通しますよ!」
促され、袖を通す。
シルクの冷たい感触が肌を滑る。
重い。
物理的な重さだけでなく、このドレスにかかった「責任」の重さがのしかかる。
「背中、閉めます。息吸ってください」
ジジジッ……。
ファスナーが上がり、コルセットがギュウギュウに締め上げられる。
肋骨が軋む。息が苦しい。
でも、その圧迫感が強制的に背筋を伸ばし、私の覚悟を固定する。
「……完成です」
スタイリストたちが一歩下がり、鏡の前が開けた。
そこに映っていたのは。
普段の想像もつかない、完璧な「花嫁」だった。
肌は内側から発光しているように白く、潤んだ瞳は期待と不安に揺れている。
「……これ、私?」
自分の姿に見惚れてしまう。
これ、完全にSSRじゃん。
課金アバターも真っ青だわ。パパが見たら泣いて喜ぶぞこれ。
『マリー・アントワネットは言ったわ』
鏡越しに、明菜が満足げに頷く。
彼女は私の肩に手を置き、鏡の中の私と目を合わせた。
『「ドレスは女の戦闘服」だってね。……さあ、戦場へ行きなさい』
私は重たいドレスの裾を両手で持ち上げ、更衣室を出た。
廊下で待っていたアカネちゃんが、私を見て目を見開いた。
「わぁ……! 茉莉子ちゃん、綺麗……!」
彼女は口元を押さえ、うっとりとした表情を浮かべた。
私も少し照れくさくて、「えへへ、似合うかな?」と笑おうとした、その時。
ハッとした。
血の気が引いていくのがわかった。
完璧な装備に浮かれて、重大な「バグ」を見落としていた。
「……忘れてた」
私の足が止まる。
「同じ事務所で、メンズモデルも頼んでたんだった……」
そうだ。
今回のメインは、新郎新婦のペアでのランウェイだ。
私が代役を務めても、隣を歩く新郎がいなければ、このショーは成立しない。
花嫁一人でのランウェイなんて、ただの置き去りにされた女だ。
「ど、どうしよう……今から急遽来てもらえる新郎役、当たってみるね!」
アカネちゃんが慌ててタブレットを取り出すが、指が震えてパスコードすらまともに打てていない。
開演まであと十分もない。
間に合うわけがない。
終わった……
絶望が胸を覆う。
やっぱり、無理だったのか。
SSRのドレスを着ても、中身はただのコミュ障。
一人で数千人の前に立つなんて、絶対に無理だ。
カツ、カツ。
その時。
バックヤードの通路の奥から、自信に満ちた二つの足音が響いてきた。
重厚で規則正しい音と、優雅で軽やかな音。
逆光の中、二つの長い影が伸びる。
「とっても綺麗だね、シンデレラ」
甘く、溶けるような声。
ゆるふわブロンドヘアーをかき上げ、キザに笑う男。
「レ、レオ!? どうしてここに……それに恭弥までなんで」
私の喉から、引きつった声が漏れた。
どうしてここに。
「オレとレオは視察に来たんだ。まーちゃんの頑張ったプロジェクトをこの目で見ようとな」
理知的で冷静な声。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳をキリリとさせ、右口角だけをニヤリと上げる男。
二人は私の前で立ち止まった。
スポットライトを背負った彼らは、まさに物語の中から飛び出してきた騎士そのものだった。
絶望的な戦況を覆すために現れた、最強の援軍。
レオが優雅に一礼し、恭弥が眼鏡の位置を直す。
二人は同時に手を差し出した。
「良ければ、手伝うよ?」
重なる二つの声。
その瞬間。
私の絶望だらけだった視界に、眩いばかりの光が差し込んだ気がした。
ドレスの裾を握りしめていた私の手が、微かに震えた。
これは、恐怖の震えじゃない。
これから始まる、大逆転劇への武者震いだ。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:SSR花嫁(新郎不在→解決)
新規獲得アイテム
・【純白のオートクチュールドレス】:防御力ゼロ、魅力値カンストの最強装備。
・【二人の騎士】:絶望を覆すジョーカー。
【明菜の分析ログ】
ピンチはチャンス?
いいえ、ピンチは「演出」よ。
主役が遅れてやってくるように、最高の男たちは最悪のタイミングで現れるものなの。
さあ、選びなさい。
右の天才科学者か、左の虚無王子か。
……どっちを選んでも、波乱の予感しかしないけどね♡




