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第五十七記録【雨と筋肉と格ゲーと】





 六月十二日、火曜日。


 午後四時半。

 デスクに突っ伏し、私は完全に燃え尽きていた。


 灰だ。真っ白な灰になった。


 この一ヶ月、凪に頼み込んで資料を集めさせ、パパには予算の根回しをさせ、果ては明菜にまでアイデアを出させて完成させた、血と汗の結晶。


 『ジューンブライド・新作発表会 運営計画書(完全版)』


 隣の席では、アカネちゃんがティッシュで目元を拭いながら、鼻をすすっている。


 「うぅ……茉莉子ちゃんばっかり動いてて……私、全然力になれなくてごめんねぇ」


 「そんなことないよ! アカネちゃんだって、当日のケータリングの手配とか、モデルの控え室の確保とか、完璧だったじゃん!」


 私はむくりと起き上がり、彼女の肩をバンバン叩いて励ました。

 実際、アカネちゃんは優秀なサポート役だった。私が前線で敵(予算折衝)と戦っている間、後方支援を完璧にこなしてくれたのだ。


 「よし……行くか」


 壁時計を見る。四時半過ぎ。

 セイラさんが帰る前に決着をつけなければならない。


 私は分厚いファイルを抱え、立ち上がった。

 ずしりと重い。これが私たちの「一ヶ月」の重みだ。


 「アカネちゃん、行こう」


 「う、うん……!」


 私たちは並んで、オフィスの奥にある「氷雪の玉座」こと、セイラさんのデスクへ向かった。

 近づくにつれ、空気がひんやりと冷たくなる気がする。


 セイラさんは完璧な姿勢でパソコンに向かっていたが、私たちの気配を感じて手を止めた。


 「……何かしら」


 銀縁眼鏡の奥の瞳が、冷ややかに私たちを見上げる。

 私は大きく息を吸い込み、ファイルを差し出した。


 「できました! 確認お願いします!」


 ドン! とデスクに置く。

 セイラさんは眉一つ動かさず、ファイルを手に取った。


 パラリ。


 ページをめくる乾いた音が、静まり返ったフロアに響く。

 パラリ。パラリ。


 一文字一文字、シラミ潰しにするような、ゆっくりとした動作。

 私はごくりと唾を飲み込んだ。


 隣のアカネちゃんが、私のスカートの裾をぎゅっと握りしめている。私も彼女の手を握り返した。手汗がすごい。


 遠くの席で、きあらが頬杖をつきながら、面白くなさそうにこちらを見ているのが視界の端に映る。

 失敗しろ、失敗しろって顔してやがる……!

 

 セイラさんの手が止まった。

 最後のページだ。


 彼女はファイルを閉じ、眼鏡を中指で押し上げ――


 「……はぁ」


 深く、重い溜息をついた。


 ――終わった。


 私の脳内で「GAME OVER」の文字が点滅した。

 ダメだったのか。あんなに頑張ったのに。予算も完璧に合わせたのに。


 セイラさんが顔を上げた。


 「……自信満々ね」


 「は、はい……!」


 声が裏返る。

 彼女はふっと視線を外し、またファイルに目を落とした。


 「よくあの少ない経費で、ここまで形にしましたね。お見事です」


 パチ、パチ。


 彼女は表情を変えずに、小さく二回だけ手を叩いた。

 それは、彼女なりの最大限の賛辞だった。


 「……え?」


 「へ?」


 私とアカネちゃんは顔を見合わせた。

 一拍置いて、喜びが爆発する。


 「や、やったぁぁぁぁ!!」


 「流石茉莉子ちゃん……! すごいよぉ!」


 アカネちゃんが抱きついてくる。

 周囲の社員たちからも、「おお……」と感嘆の声が漏れた。あの鉄壁のセイラさんを唸らせたのだ。ざわつきが広がる。


 「で、デヘヘ……」


 私は鼻の下を擦りながら、照れ笑いを浮かべた。


 勝った。

 私たちは勝ったんだ!


 『やるじゃない』


 ふわりと、デスクの上に明菜が現れた。

 彼女は満足げに腕を組み、きあらの方を見下ろす。


 『カエサルは言ったわ。「来た、見た、勝った」ってね。……これで大奥の下女は卒業かしら? あの女たちに一泡吹かせてやったわね』


 明菜のニヤリとした笑みに、私もガッツポーズを返した。


 「それでは、明日から本格的な手配に入ってください」


 「はいっ!」


 私たちはウキウキとした足取りで、自分のデスクへ戻った。

 足取りが軽い。重力が半分になったみたいだ。


 「今日はもう上がっていいわよね? よし、帰ってゲームするぞー! 明日は特別監視室にこもってサボってやるんだから!」


 私は鼻歌交じりに鞄へ荷物を詰め込んだ。

 最後にスマホを手に取る。


 その瞬間、ふと手が止まった。


 「……あ」


 一ヶ月前の、トイレの前での会話が蘇る。

 『ごめんね、時間が空いたら連絡するから』


 あれから、怒涛の忙しさにかまけて、大樹に一度も連絡していなかった。

 今日、時間あるかな。

 連絡してみようかな。


 『連絡じゃなくて、直接会いに行けば?』


 明菜がスマホの画面を覗き込み、一枚のカードを掲げる。

 【KING of WANDS(棒の王)】。

 情熱と行動力のカードだ。


 『あっちもそろそろ仕事終わる時間でしょ? 現場なら、すぐ裏じゃない』


 そうだね。

 私は頷き、スマホをポケットにしまった。

 一ヶ月待たせたお詫びも兼ねて、顔を見せに行こう。

 

 オフィスを出ると、湿った風が頬を撫でた。

 空は鉛色。梅雨特有の、今にも泣き出しそうな空模様だ。


 本社の裏手にある、広大な資材置き場へ足を向ける。

 オフィス街の排気ガスの匂いが薄れ、土とコンクリートの匂いが濃くなっていく。


 フェンス越しに中を覗くと、作業員たちが片付けをしていた。

 その中で一際目立つ、筋肉隆々の背中を見つけた。


 大樹だ。


 他の作業員が一袋ずつ運んでいるセメント袋を、彼は両手に二袋ずつ、計四袋も抱えている。

 腕の筋肉が盛り上がり、汗で光っている。


 「リーダー、流石っすね!」


 「おう! これ片付けたら上がりだ! 明日も頼むな!」


 野太い声が響く。

 二十四歳にして、現場を束ねるリーダー。

 改めて見ると、やっぱり凄い。私より一つ上なだけなのに、あの背中はもっと大きく見える。


 ……って、あのTシャツなに?


 作業着を脱いだ彼のTシャツには、ポップなフォントで『BANANA』という文字と、ファンキーなサングラスをかけたおサルのイラストがプリントされていた。

 ダサい。いや、一周回って可愛いのか?


 彼は作業員たちを見送り、タオルで汗を拭っていた。

 私は深呼吸をして、フェンスの入り口から声をかけた。


 「お疲れ様ー!」


 大樹がビクッと肩を震わせ、振り返った。

 私を見つけ、目を丸くする。


 「うおっ!? ま、茉莉子ちゃん!」


 彼は慌ててタオルで顔を隠し、また覗き込んだ。幻覚じゃないか確認しているみたいだ。


 「時間できたから。今日、空いてる?」


 私が小首を傾げて尋ねると、彼はタオルを下ろし、パァっと顔を輝かせた。


 「空いてるけど……疲れてんじゃねぇの?」


 「うっ……疲れてるけど、大樹と約束したもん」


 私が言うと、彼は「……ニャハハ! そっか!」と照れくさそうに笑い、鼻の下を指で擦った。

 そして、大きくゴツい手を、私に差し出してきた。


 掌はマメだらけで、少し土で汚れていたけれど、温かそうだった。


 「なに? この手」


 「手ぇ繋いで帰ろうぜ」


 彼はニカッと白い歯を見せて笑った。

 小学生か!


 「バカ……他の人に見られたら殺されるでしょ!」


 私は彼の手をパチンと叩いた。


 「痛っ! ……ちぇっ、じゃあ捕まえてやるー!」


 「やめろー!」


 大樹がワザとらしく両手を広げて追いかけてくる。

 私は笑い声を上げながら駆け出した。


 重い荷物も、仕事の疲れも忘れて。

 私たちは子供みたいに笑い合いながら、鉛色の空の下を駆け抜けた。

 

 

 大樹のマンションは、会社から徒歩圏内の場所にあった。

 ドアを開けると、意外にも部屋は整理整頓されていた。


 男の一人暮らし特有の匂いと、制汗スプレーの清涼感。

 リビングには、大量のスポーツ雑誌と、部屋の主のような巨大なベンチプレスが鎮座している。


 そしてテレビの前には、最新のゲーム機。


 「ゲームはあんま詳しくねぇけど、格ゲーなら好きなんだよなー」


 大樹はあぐらをかき、コントローラーを握って余裕の表情を浮かべた。

 画面には懐かしの2D格闘ゲームのキャラクター選択画面。


 「女の子ってゲーム弱いよな? 手加減するからやろうぜ」


 彼はニヤニヤしながら、私にサブのコントローラーを渡してきた。


 カチン。


 私の脳内で何かのスイッチが入った。

 ……手加減? ナメるなよ。こちとら『九条ネギ』のギルマスぞ?


 私の目が、スッと細まった。

 死んだ魚のような、本気のゲーマーの目だ。

 格ゲーのフレーム単位の攻防は基礎教養。慈悲はない。K.O.の文字を見るまでが遠足です。


 「本気出すから」


 私は不敵に笑い、キャラを選択した。

 一番使い慣れた、スピードタイプの女性キャラ。


 ROUND 1, FIGHT!


 試合開始のアナウンスと共に、私の指が高速で動いた。

 カチャカチャカチャッ!


 「うおっ! 早っ!?」


 大樹のキャラが動く前に、私のキャラが懐に飛び込む。

 下段キックからの浮かせ技、そこからの空中コンボ。

 正確無比なコマンド入力。


 「えっ、ちょ、ま、動けねぇ! 落ちねぇ!」


 大樹が焦ってボタンを連打するが、無駄だ。

 私のコンボは途切れない。

 そのまま画面端まで追い詰め、超必殺技を叩き込む。


 『K.O.!!』


 「PERFECT」の文字が画面に躍る。


 「……つっよ!?」


 大樹は口をポカーンと開けて呆然としていた。

 私は「ふぅ」と前髪を払い、ドヤ顔を決めた。


 「言ったでしょ、本気出すって」


 「くっそー! マジかよ! もう一回! もう一回頼む!」


 彼は悔しがるどころか、目をキラキラさせて身を乗り出してきた。

 負けて腐るどころか、強敵を見つけて喜ぶ少年みたいだ。


 「いいよ。何回でも相手になってあげる」


 それから私たちは、何戦も何戦も戦った。

 大樹も飲み込みが早く、後半はいい勝負になったけれど、やっぱり私の圧勝だった。


 「はーっ! 負けたー! 茉莉子ちゃん強すぎ!」


 大樹は大の字になって床に寝転がった。

 汗ばんだ額を拭いながら、天井を見上げて笑う。


 「でも、お前といると楽しいわ! マジで!」


 屈託のない笑顔。

 その言葉に、私の胸がキュンと鳴った。

 ゲームに勝った優越感なんてどうでもよくなるくらい、彼の笑顔が眩しい。


 「……なに言い出すのよ」


 顔が熱くなる。

 私は手で顔を仰いだ。


 「暑い……」


 ゴムを外し、髪をファサッと解く。

 その瞬間、シャンプーの香りがふわりと漂った。


 大樹の表情が、ふっと真顔に変わった。

 

 空気が変わったのがわかった。

 彼がむくりと起き上がり、私に近づいてくる。


 琥珀色の瞳が、獲物を狙うように細められた。

 彼は鼻を鳴らし、私の髪の匂いを嗅ぐように顔を寄せた。


 「……茉莉子ちゃん、なんか雰囲気変わった?」


 ドキリとした。

 ユンジンとの一件以来、私の纏う空気が変わったことは、明菜にも指摘されていた。

 まさか、こんな鈍感そうな大樹にまでバレるなんて。


 「え、そ、そうかな? シャンプー変えたからかも……」


 誤魔化そうとして、私は視線を逸らした。

 しかし、逃げられなかった。


 太い腕が伸びてきて、私をその中に閉じ込める。

 熱い体温。


 「もしかして、ユンジン?」


 直球だった。

 心臓が早鐘を打つ。

 嘘をつこうとしたけれど、彼の真っ直ぐな瞳の前では、どんな言葉も無力だった。


 「……えっと……」


 「正直に言っていいよ」


 彼の声は低く、優しかった。


 「……あー、実はそう……ユンジンと、その」


 私は観念して小さく頷いた。

 大樹は「やっぱそうかー」と天井を仰ぎ、大きく息を吐いた。


 終わった。

 軽蔑されたかもしれない。


 けれど、彼はすぐに視線を戻した。

 そこには、諦めの色なんて微塵もなかった。

 強く、熱い、雄の光。

 

 「でも、付き合ってるわけじゃないから」


 私が言い訳のように付け足すと、彼はニヤリと笑った。


 「んじゃあ、俺にもチャンスあるってことだ」


 「へ?」

 

 ザァァァァァッ!!


 その時、窓の外で激しい雨音が響き始めた。

 叩きつけるような豪雨。

 あの日、プレハブ小屋で彼と初めてキスをした日の記憶がフラッシュバックする。

 

 「俺、晴れ男なんだけどな」


 「私だって晴れ女だよ……多分」


 「じゃあなんでいつも雨降るんだろうな」


 彼は私の腰に手を回し、引き寄せた。


 「そんなの知ら……きゃあ!」


 視界が回転する。

 私は軽々とお姫様抱っこされていた。

 抵抗する間もなく、そのまま隣の部屋――寝室へと運ばれる。

 

 ドサリ。


 ベッドに落とされた。

 スプリングが軋む音。


 覆いかぶさってくる大樹の影。

 見上げた彼の瞳は、さっきの無邪気なゲーム少年ではなかった。

 欲望を剥き出しにした、一人の男の顔。


 「俺だって、茉莉子ちゃんが欲しい」


 低く唸るような声が、雨音にかき消されることなく、私の鼓膜を震わせた。

 逃げ場はない。

 私は覚悟を決めるように、静かに目を閉じた。

 

 

【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.002

・氏名:九条茉莉子

・状態:勝利した獲物(マウント状態)


新規獲得アイテム

・【おサルのTシャツ】:大樹の勝負服(?)。ダサかわ。

・【格ゲーのコントローラー】:茉莉子の真の実力を証明した武器。


【明菜の分析ログ】


 ゲームで勝っても、勝負で負ける。それが女の人生よ。

 ユンジンとのことがバレても引かないなんて、このゴリラ、思ったよりメンタル強いわね。

 

 『チャンスがある』?

 ……いいえ、こっちはこっちで、もう詰んでる気がするけど?

 

 ま、雨の日は古傷が痛むっていうし……恋の傷も疼くのかしらね♡

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