第五十六記録【ランチタイム・ウォー】
午後十二時五分。
胃がキリキリと痛む午前の業務を終え、私は逃げるように社員食堂へ辿り着いた。
自動ドアを抜けると、カレーのスパイシーな香りと、揚げ油の重たい匂いが混ざり合った熱気が押し寄せてくる。
五千人の社員がひしめくランチタイムは、まさに戦場だ。
トレイを両手で抱え、人混みを縫うように歩く。
目指すは、窓際の開放的なテラス席。
あそこなら、オフィスの淀んだ空気も少しは薄れているはず。
日差しが降り注ぐテーブルの一角に、見慣れた黒いポロシャツの後ろ姿を見つけた。
ユンジンだ。
彼はタブレットを操作していた手を止め、こちらに気づくと涼しい顔で小さく手を振った。
あ、よかった。知ってる顔がいる安心感。
私は吸い寄せられるように、彼の隣の空席へ向かう。
「お疲れ」
「お疲れ、マリコ」
彼が隣の席を示す。
トレイを置こうと、腰を少し落とした、その瞬間だった。
ドォォォン!!
「よう! 茉莉子ちゃん!」
地響きのような振動と共に、私の左側の席に巨大な影が落下してきた。
問答無用の相席。
土と鉄、そして男の汗の匂いが、ふわりと鼻をかすめる。
「……大樹?」
目を白黒させる私の視界を、ネイビーの作業着が埋め尽くす。
泥だらけの袖。ヘルメットでぺちゃんこになった髪。
大山田大樹が、太陽みたいにニカッと笑っていた。
「奇遇だな! ここ空いてんだろ? 一緒に食おうぜ!」
「え、あ、うん……」
拒否権はないらしい。
私は右にKスター、左に筋肉ダルマという、前代未聞のサンドイッチ状態で着席することになった。
椅子に座ろうとする。
ズン。
腰の奥に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「っ……」
「どうした、マリコ。座り心地が悪いか?」
右から、ユンジンが面白そうに覗き込んでくる。
彼は自前の弁当を広げた。
中身は、レバーの甘辛煮と、ほうれん草のナムル。茶色と緑のコントラストが目に痛い。
「ほら、口開けて。あーん」
彼は箸でレバーをつまみ、私の口元へ突き出した。
「えっ、ちょっ……みんな見てるし……」
「いいから食え。レバーだ。……一昨日の今日だろ? お前には鉄分とビタミンB群が必要だ」
彼は周囲には聞こえないような低い声で、けれどはっきりと「一昨日の今日」を強調した。
口元の笑みは余裕綽々だが、その目は笑っていない。
左の大樹をチラリと見下すような、知的なマウントを含んだ視線。
『激務』の後のケアをする、所有者気取りの顔だ。
カァァッ……。
頬が熱くなる。このうつけ者モデル!
「一昨日? 激務ってなんだよ激務って!」
左側から、大音量の抗議が飛んできた。
彼はテーブルが軋むほどの勢いで、巨大なタッパーを広げた。
中には、茶色い肉の山脈がそびえ立っている。
「疲れてんなら肉だろ肉! 俺の特製スタミナ焼肉だ! これ食えば一発で元気になるぞ!」
彼はカレー用の巨大スプーンで肉の山をすくい上げ、反対側から私の口元へ迫ってきた。
「ほら茉莉子ちゃん! 食え! デカくなれ!」
「ちょ、大樹まで……!」
右からレバー。左から焼肉。
逃げ場がない。
私は両側から突きつけられた愛に挟まれ、身動きが取れなくなった。
何この状況……。
プレス機にかけられている気分だ。
平和なランチタイムは、開始五秒で消滅した。
「あ、あの二人とも……。ここ会社だし、目立つから……。楽しく食べようよ……ね? アハハ……」
引きつった笑顔で仲裁を試みる。
しかし、火花は止まらない。
ユンジンは鼻で笑い、大樹のタッパーを冷ややかに見下ろした。
「大山田。キミのその茶色い物体はなんだ? 脂質の塊か? マリコの胃腸は繊細なんだ。デリカシーのない男はこれだから困る」
「なんだと細っちょ! 男は黙って肉! 筋肉がすべてを解決するんだよ! お前のその草みたいな弁当より百倍マシだろ!」
「なんて言い草……。栄養学を無視した暴論だな」
バチバチと視線が交錯する。
私はその間で、小さくなってサラダを咀嚼した。
十五分後。
どうにかこうにか、二人の「あーん」攻撃をかわしつつ、自分のランチを胃に流し込んだ。
これ以上ここにいたら、胃に穴が開くか、噂の的になるかだ。
「ご、ごちそうさま! 私、仕事あるから!」
ガタッと席を立つ。
早口で告げ、トレイを持って逃げるようにその場を離れた。
「あっ、おいマリコ!」
「ちょ、待てよ茉莉子ちゃん!」
背後で二人の声が重なる。
私は振り返らず、返却口へトレイを滑り込ませ、競歩のような速さで食堂を出た。
食堂前の長い廊下。
窓から午後の日差しが差し込み、埃がキラキラと舞っている。
食堂の喧騒が遠のき、静寂が戻ってきたことに安堵の息を吐く。
カツ、カツ、カツ。
ヒールを鳴らして、女子トイレへ急ぐ。
早く個室というシェルターに逃げ込みたい。
その時。
背後から、ドタドタという重い足音が近づいてきた。
熱気。
ふっと体温が上がるような気配を感じた瞬間。
ガシッ。
二の腕を、大きくゴツい手に掴まれた。
火傷しそうなほどの熱量が、シャツ越しに伝わってくる。
「……っ!」
驚いて振り返ると、そこには少し息を切らした大樹が立っていた。
逆光で、彼のシルエットが大きく見える。
土と汗の混じった、男臭い匂いが鼻をかすめた。
「大樹……?」
怒鳴られるかと思った。
でも、彼の表情を見て、言葉が詰まる。
さっきまでの勢いはどこへやら。
彼は少し眉を下げ、不安そうな顔で私を覗き込んでいた。
掴んでいた手の力がふっと緩み、壊れ物を扱うように、優しく二の腕を撫でる。
「……なぁ」
低い声。
琥珀色の瞳が揺れている。
いつもの自信満々な輝きはない。まるで、虫歯治療を怖がる子供のような、無防備で弱気な目。
「なんか、ユンジンとあったのか?」
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
バレてる?
この筋肉バカ、こういう時だけ勘が鋭すぎる。野生の直感ってやつか。
私は動揺を隠すように、視線を逸らした。
彼の真剣な瞳に射抜かれ、可愛いと思ってしまった自分に気づいてしまったからだ。
「えっ……べ、別に? 何もないよ? ただ仕事が忙しかっただけ」
「……」
大樹は納得いかないように、口を「んー」と尖らせた。
しばらくじっと私を見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「……そっか。……ならいいけど」
彼は無理に追及しようとはしなかった。
ただ、その大きな手で、私の頭をポンと撫でた。
「……今日、俺ん家来いよ」
唐突な誘い。
でも、下心というよりは、ただ心配してくれているような響きだった。
行きたい。
彼の大きな背中に隠れて、何もかも忘れて甘えたい。
でも、私のデスクには「ジューンブライド」という名の爆弾が積まれている。
「ごめんね大樹。今日はダメ。これから新しいプロジェクトの準備しなきゃいけないから……」
「……わかった」
彼は寂しそうに眉を下げ、パッと手を離した。
名残惜しそうに、でも無理強いはせずに一歩下がる。
ずるい。そんな顔されたら。
雨の日に捨てられた大型犬みたいだ。
罪悪感で胸がチクリと痛む。
「ごめんね、時間が空いたら連絡するから」
「おう! 無理すんなよ!」
彼は無理やり作った笑顔で、大きく手を振った。
私は逃げるようにトイレのドアに手をかけた。
閉まる直前、隙間から見えた彼は、まだそこに立って手を振っていた。
カチャリ。
個室の鍵をかけ、便座の蓋の上に座り込む。
はぁ、と深く重い溜息が出た。
鏡を見るまでもない。顔が熱い。
さっきの大樹の、あんなに不安そうな顔。
そして、食堂でのユンジンの、余裕綽々なマウント。
二人の男に振り回されている自分。
でも、嫌じゃない。むしろ、胸の奥がじんわりと温かい。
「時間が空いたら連絡する」なんて、まるで手慣れた女のセリフだ。
『あらあら〜♡ 二股かけてる悪い女みたいね?』
ふわりと、紫色の煙と共に明菜が現れた。
彼女は私の肩に腰掛け、手元で三枚のタロットカードを扇のように広げて見せる。
【THE LOVERS(恋人たち)】の逆位置。
【THE DEVIL(悪魔)】の正位置。
【THE MOON(月)】の正位置。
『恋人は不誠実、悪魔は誘惑、月は隠された真実……。今のアンタにぴったりじゃない?』
明菜は楽しそうにカードを空中に放り投げた。
カードは光の粒子となって消えていく。
うるさい……。二股じゃないし。
私は膝に顔を埋め、くぐもった声で反論した。
『そうね。五股だもんね〜♡』
明菜が私の耳元でクスクスと笑う。
『アンタはもう立派な魔性の女だもんね。自信持ちなさいな』
魔性の女、か。
ただのコミュ障ゲーマーだった私が、随分と遠いところまで来てしまったものだ。
あの不器用な大型犬の不安を、いつかちゃんと解消してあげたい。
そんなことを考えている自分に、私は苦笑した。
「……仕事、しなきゃ」
小さく呟き、私は立ち上がった。
戦場(広報部)へ戻る覚悟を決めて。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:板挟みな令嬢(サンドイッチ状態)
新規獲得アイテム
・【大樹の不安】:普段強気な男が見せる弱さは、最強の武器。
・【ユンジンのマウント】:知的で陰湿なマーキング。
【明菜の分析ログ】
あらあら、モテる女は辛いわねぇ。
栄養管理されたり、筋肉自慢されたり。
でも、あの大樹って男。バカ正直だけど、勘は鋭いわよ。
『ユンジンと何かあった』って気づいてる。
……アンタ、このまま逃げ切れると思ってる?
でも大丈夫か!
結局、最後は尻尾振ってついてくる、おバカな大型犬だもんね。
ワンワン♡




