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第五十五記録【フェロモン・バフと女帝の洗礼】



 

 五月十四日、月曜日。


 午前八時五十分。九条グローバル本社ビル、エレベーター。

 月曜日の朝特有の、湿り気を帯びた重たい空気が充満している。

 

 私は鏡の中の自分と目が合った。

 白のボートネックTシャツに、裾がふわりと広がるベージュのロングフレアスカート。


 いつもなら、コンシーラーで目の下のクマを消し、チークで無理やり血色を足すのがルーティンだ。

 でも今日は、その工程を飛ばした。


 肌の奥が熱い。鏡に映る輪郭が、少し滲んで見えるような錯覚。

 ファンデーションを薄く伸ばしただけの肌が、内側から発光しているように見えた。


 『へぇ……。何もつけてないのに、フェロモン香水ぶっかけたみたい』


 明菜が私の周りをふわふわと漂いながら、口笛を吹く。


 『アンタ、今なら歩くだけでMP回復できそうね。無敵モード突入?』


 朝から変なこと言わないで。

 心の中で毒づくが、否定しきれない自分がいる。

 

 レベルアップのファンファーレは鳴らなかった。

 けれど、ステータス画面の「魅力値」がバグっているような、奇妙な全能感があった。

 

 チーン。

 

 エレベーターが二十五階に到着する。

 扉が開く。


 広報ブランディング部のフロアに足を踏み入れた。


 カツ、カツ。


 ヒールの音が響く。

 以前のような焦燥感を含んだ音ではない。

 ゆったりと、落ち着いたリズム。


 フロアの空気が変わった。

 キーボードを叩く乾いた音が止み、視線が集まるのを感じる。


 給湯室から、きあらが出てきた。

 黒のトップスに、私と同じようなベージュのプリーツスカート。


 彼女は私を見た瞬間、視線をスカートに落とし、次に顔へ移動させた。

 目が細められる。

 「何か」を探るような、ねっとりとした視線。


 以前なら、この視線だけで胃が縮み上がっていただろう。

 でも今は、痛くも痒くもない。


 『ザコ敵のエンカウント音が聞こえないわね』


 明菜がケラケラと笑う。


 『レベル差がありすぎて、敵として認識されてないのかも』


 きあらが近づいてくる。

 甘ったるい香水の匂いが鼻を突く。


 「あ、茉莉子ちゃぁん、おはよぉ〜♡」


 猫撫で声。

 でも、その瞳の奥は笑っていない。


 「なんか今日、雰囲気ちがぁう。化粧変えたぁ?」


 探るような声色。

 私は自然と口角を上げ、微笑んだ。


 「おはようございます、黄倉さん。いえ、何も変えてませんよ」


 「へぇ〜……そうなんだぁ」


 彼女は面白くなさそうに鼻を鳴らした。


 その背後で、デスクに座ったままのセイラが、眼鏡の位置を中指で直した。

 冷ややかな一瞥。


 「……無駄口を叩いている暇はありませんよ。一条さん、緋色さん」


 氷のような声。

 ファイル棚の陰から、アカネちゃんが顔を出した。


 「茉莉子ちゃん、おはよう」


 小声の挨拶。

 私は彼女に「おはよう」と声をかけ、自分のデスクへ向かった。

 その時だった。

 

 ドサッ!


 鈍く、重い音が鼓膜を震わせた。

 デスクが振動し、伏せたスマホが少しズレる。


 目の前に、広辞苑よりも分厚い、黒いバインダーが鎮座していた。


 視線をゆっくりと上げる。

 目の前に、氷の壁が立っていた。

 青崎セイラだ。


 銀縁眼鏡の奥の瞳は、南極のクレバスよりも冷たい。


 「……余裕そうですね、一条さん」


 抑揚のない、絶対零度の声。

 私は反射的に背筋を伸ばし、作り笑いを貼り付けた。


 「お、おはようございます、チーフ」


 「その余りある『余裕』を、こちらの案件で発揮していただきましょう」


 セイラがバインダーを、白魚のような指でトントンと叩く。

 表紙には金色の文字でこう書かれていた。


 『九条グローバル・ブライダル事業部 新作ドレス発表会 June Pride 運営計画書』


 「……え?」


 「来月開催される、我が社のブライダル事業最大のイベントです。会場手配、メディア対応、モデル選定、当日の進行管理。……すべて、貴女と緋色さんに一任します」


 一任?

 丸投げの間違いでは?


 私はバインダーの厚みを見た。

 ざっと三百ページはある。これを、あと一ヶ月足らずで?


 脳内で警報音が鳴り響く。

 【警告:致死レベルのクエストが発生しました】

 【推奨パーティ人数:10人以上】


 「あの、チーフ。これは新人二人で回せる規模では……」


 「あらぁ〜! すごぉい! 茉莉子ちゃん、大抜擢じゃぁん!」


 甘ったるい声が横槍を入れる。

 きあらだ。

 彼女は手を叩きながら、満面の笑みで近づいてきた。


 「私たちがぁ、去年すっごく苦労した案件なんだけどぉ〜。茉莉子ちゃんなら優秀だから、きっと大丈夫だよねぇ? 期待してるよぉ〜♡」

 

 嘘つけ!

 その顔には「失敗して恥をかけ」「そして潰れろ」と書いてある。

 これは業務命令の皮を被った、公開処刑だ。


 きあらは私の肩越しにファイルを覗き込み、煌びやかなウエディングドレスの写真を見て、わざとらしい溜息をついた。


 「わぁ〜、素敵ぃ♡ 花嫁さんのイベントだねぇ。……茉莉子ちゃん、リアルじゃ一生縁がなさそうだからぁ、せめてお仕事で体験できてよかったねぇ〜! 疑似体験? ってやつぅ?」


 カチンとくる。

 でも、不思議と怒りは湧いてこなかった。

 むしろ、滑稽に見える。


 『あらあら、一生縁がないですって』


 明菜がバインダーの上に腰掛け、足を組んで笑う。


 『笑わせるわね。今のアンタ、世界で一番「花嫁」に近い場所にいるってのに』


 褒めてくださり……あざーす。こちとらリアルで『魔王の花嫁』修業中なんで。疑似体験どころか、予行演習だわ。


 私は殊勝な顔で頭を下げた。 


 「承知いたしました。精一杯務めさせていただきます」


 「予算は例年の半分で組んでください。コストカットは経営課題ですので。……では、期待していますよ」


 セイラは冷ややかに告げ、きあらと共に踵を返した。


 カツ、カツ、カツ。


 ヒールの音が、死刑宣告のカウントダウンのように遠ざかっていく。

 私はデスクに残された黒いバインダーを見下ろした。

 まるで墓石だ。

 


  

 午前十時。


 デスクには、嫌がらせのように積まれた「ジューンブライド」のキラキラした資料。

 画面を見つめるが、文字が滑って頭に入ってこない。


 集中しようとすればするほど、昨夜の記憶がフラッシュバックする。

 熱。吐息。肌の感触。

 耳元で囁かれた愛の言葉。


 ブブブッ。


 スマホが震えた。

 画面を見る。

 『ソ・ユンジン』の文字。


 心臓が大きく跳ねた。

 メッセージを開く。


 『腰、平気か? もし予定がないなら。一緒に食べたい……いつものテラスで待ってる』


 たった二行のメッセージ。

 でも、そこには昨夜のすべてが詰まっていた。


 カァァッ……。


 頬が一気に熱くなる。

 「腰、平気か?」

 その言葉が、誰にも見えない、けれど自分だけが知っている「痛み」という名の共有財産を突きつけてくる。


 私はスマホを伏せ、熱くなった頬を両手で包み込んだ。


 『あらら〜♡』


 明菜が私の耳元で囁く。


 『ココ・シャネルは言ったわ。「香水フェロモンをつけない女に未来はない」ってね。今のアンタは無敵よ』


 彼女はニヤリと笑い、きあらの背中を指差した。


 『女の価値は、ドレスを着ることじゃない。そのドレスを脱がせた男が、どんな顔でアンタを見るか……それで決まるのよ』


 私は顔を上げられなかった。

 ただ、自分の中に宿った、甘くて重い秘密を噛み締めていた。

 

【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.002

・氏名:九条茉莉子

・状態:覚醒(艶)と腰痛(愛の代償)


新規獲得アイテム

・【白Tとベージュスカート】:シンプルだからこそ際立つ、内側からの発光感。

・【ジューンブライドの企画書】:呪いのアイテムに見せかけた、ただの「予習教材」。

・【見えない首輪】:ユンジンからの過保護なメッセージ。


【明菜の分析ログ】

 

 「一生縁がない」なんて、きあらも随分と見当違いな悪口を言うものね。

 

 アンタはもう、あの男達のモノ。

 

 その事実は、どんな高価なドレスよりも、どんなブランドの香水よりも、女を美しくする最強の武装なのよ。

 ……ま、その武装が強すぎて、周りの女たちの嫉妬の炎に油を注いでる気もするけどね♡

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