第五十四記録【甘いのよ果実って】
午後六時過ぎ。
大半の照明が落ちた薄暗いオフィスで、私のモニターだけが青白く顔を照らしている。
誰もいないフロアに、エンターキーを叩く『ッターン!』という乾いた音が響いた。
「終わったー!」
私は椅子に深くもたれかかり、大げさに天井を仰いだ。
背骨がパキパキと鳴る。
遠くで警備員の巡回の足音が聞こえる以外は、完全な静寂だ。
ブブブッ。
デスクの上のスマホが短く震えた。
反射的に眉を寄せる。また仕事の追加? 勘弁してよ。
画面を覗き込み、私は動きを止めた。
『ソ・ユンジン』
出たな。
通知名を見た瞬間、喉がゴクリと鳴った。
この時間に経営戦略室のコンサルタント様から連絡なんて、ろくなことじゃない。説教? まさか始末書?
恐る恐るメッセージを開く。
『お疲れ。今日予定がないなら遊びにおいで。宅飲みでもしよう』
……は?
『住所は港区〇〇……タクシー手配した』
「……へ?」
業務命令かと思ったら、まさかのお誘い。
しかも宅飲み? あの堅物が?
『あらあら、いいじゃない〜』
いつの間にか、明菜がデスクの横に座って足を組んでいた。
『引きこもりニートの重課金者のお姫様を誘うなんて罪深い男、アンタがお仕置きしてあげなさいよ♡』
「お仕置きってなんのことだ」
私が小声で返すと、明菜は口元に手を添え、オホホホと高笑いした。
『さ、行きなさい。タクシー代ぐらいはパパのカードで切ってやりなさい♡』
私は呆れながらもバッグを掴み、エレベーターホールへ向かった。
足取りが少しだけ軽いのは、金曜日の開放感のせいだけじゃない気がした。
タクシーの窓を流れるネオンサインが、断続的に車内を照らしている。
直之には「友達と飲んでくる」とメッセージを入れておいた。嘘ではない。ユンジンは同い年の……まぁ、友達みたいなものだ。たぶん。
タクシーが止まったのは、見上げるほど高い超高級マンションの前だった。
「うわぁ……いいとこ住んでんなー……」
私はエントランスの巨大な自動ドアをくぐった。
エレベーターに乗り込むと、凄まじい速度で上昇していく。
Gがかかり、足の裏が床に押し付けられる感覚。
最上階。
降りた瞬間、静寂に包まれた。
ホテルのような内廊下には、埃ひとつ落ちていない。
重厚なドアの前で立ち止まる。
ふと、隣にいた明菜がふわりと宙に浮いた。
『じゃ、アタシはここまで』
彼女は悪戯っぽくウインクをした。
『ここから先は二人だけの世界だもんね〜。ごゆっくり〜♡』
言うが早いか、煙のように消滅してしまった。
「ちょ、待ってよ……!」
伸ばした手は空気を掴んだだけ。
一人残された廊下で、私は呆然とした。
急に心細くなる。
ゲームに例えるならチクチク攻撃してくるタイプのボス戦前みたいだ。
でも、私は勇者だ。負けないぞ。
深呼吸をして、インターホンを押した。
扉が開いた瞬間、漂ってきたのは家庭的な香りだった。
赤ワインと牛肉をじっくり煮込んだ、芳醇な匂い。
「いらっしゃい」
出てきたユンジンを見て、私は目を丸くした。
「え……」
いつものきっちり分けたセンターパートの前髪が下ろされ、少し幼く見える。
でも服装は、黒のスラックスに白のワイシャツ。袖をまくった腕が、やけに男らしい。
「カバン、預かるよ」
彼が手を伸ばし、私のバッグを受け取る。
指先が一瞬触れた。
ビクリと電気が走ったみたいに、お互いが手を引っ込める。
気まずい沈黙。
ユンジンは少し耳を赤くして、背を向けた。
リビングに通されると、そこはモデルルームのように生活感がなかった。
無駄なものが一切ない空間。
窓一面に広がる東京のパノラマ夜景だけが、この部屋の主役だ。
「座って。すぐ準備する」
ことり、と目の前に皿が置かれた。
湯気を立てるビーフシチュー。ゴロリとした牛肉の塊と、鮮やかな人参のオレンジ色が食欲をそそる。
私は銀色のスプーンを手に取った。ずしりと重い。
ふう、と息を吹きかけ、熱々のシチューを口に運ぶ。
「んっ!」
舌の上で、牛肉がほろりと崩れた。
野菜の甘みと、赤ワインの深いコク。
私は目を見開き、まじまじとユンジンを見た。
「美味しい……! やっぱユンジンの料理好き……」
「独り身が長いと、こうなるんだよ。……ほら、食え食え」
彼はふっと笑い、自分のグラスを傾けた。
前髪を下ろした彼は、いつもの「上司」というより、同い年の男の子に見える。
でも、ふとした瞬間に覗くダークブラウンの瞳は、やっぱり底知れない色気を孕んでいた。
食事と会話が進むにつれ、ワインボトルが空いていく。
最初は緊張していた私も、アルコールが回ってふわふわとした気分になってきた。
「よく耐えたな。セイラもきあらも、性格が捻じ曲がってるからな」
ユンジンの言葉に、私はグラスを揺らしながら頷いた。
「ほんとだよー。私だから耐えられたんだからねー」
「ああ、わかってる。マリコは偉いよ」
彼が優しく微笑んだ。
その笑顔に、胸の奥がキュンと鳴る。
なんだろう、この空気。甘くて、熱くて、くすぐったい。
美味しく食べ終えた私達はリビングのソファに移動していた。
照明が落とされ、キャンドルの炎だけが揺れている。
私たちは並んで座っている。距離が近い。
ユンジンが背もたれに腕を回し、私を囲い込むような体勢になった。
逃げ場がない。
でも、逃げたくない。
「……マリコ」
彼が顔を近づけてくる。
アルコールの甘い匂いと、彼の体温が混ざり合う。
「今週のご褒美、欲しいか?」
低く、余裕ぶった声。
耳元で囁かれ、ゾクリと背筋が震えた。
カチンときた。
なにその上から目線。
私は酔いの勢いも借りて、とろんとした目で彼を見上げた。
九条茉莉子は女優志望だ。小悪魔なんてお手の物。
「……んふふ♡」
私は彼のワイシャツの胸元に、指を這わせた。
鎖骨をなぞり、第一ボタンに手をかける。
「ユンジンのほうが、欲しそうなんだけど?」
挑発的に微笑む。
ユンジンの瞳が揺れた。
理性的だった光が消え、熱を帯びた「オス」の色が浮かぶ。
ゴクリ。
彼の喉仏が大きく動くのが見えた。
プチッ。
私がボタンを弾いた、その瞬間。
ガシッ!
ユンジンが私の手首を掴んだ。
痛いほどの強い力。
「!!」
視界がぐるりと回転した。
気がつくと、私はソファに押し倒され、彼に見下ろされていた。
「欲しいよ。……マリコが」
余裕なんて微塵もない、切迫した声。
彼の顔が覆いかぶさる。
唇が重なった。
深く、長く、息ができないほどのキス。
頭の中が真っ白になる。
彼の手が私のブラウスのボタンを外し、肌に触れる。
熱い。火傷しそう。
私も彼に応えるように、彼の手が及ばないボタンを外した。
「んっ……」
抵抗する力なんて残っていない。
私の腕はだらりと力を失い、されるがままに彼を受け入れていた。
視界が涙と熱で滲む。
天井のダウンライトが、ぐるぐると回っている。
「マリコ」
名前を呼ばれるたびに、体が震えた。
いつものユンジンなんかどこにもいない。
目の前にいるのは、ただの男だ。
あぁ、私、ついに初めて迎えちゃうんだー……。
どこか他人事のように思った。
長かったな……ん? 長かったか?
いや、普通だよね?
ダメだ、そんなこと考えてる場合じゃない。
「んっ……ふ……っ!」
唇が塞がれ、思考が白く染まっていく。
彼のキスは、最初は優しく、次第に貪るように激しくなった。
呼吸をする隙間さえ与えられない。
「ちょ……っ、ユンジン……!」
唇が離れた瞬間、銀色の糸が引いた。
彼の熱い手が、ブラウスの裾から入り込んでくる。
素肌に触れる指先が、火傷しそうなほど熱い。
「あっ、だめ……そこ……」
敏感な場所を執拗に愛撫され、私の背中が弓なりに反る。
「綺麗だよ」
ユンジンの瞳が、熱っぽく私を見下ろしている。
そこにはもう、理性なんて欠片も残っていなかった。
彼が私のスカートのファスナーを下ろす。
下着越しに触れられただけで、腰がビクンと跳ねた。
「待っ……ユンジン、待って」
私は荒い息を吐きながら、彼の胸を押した。
焦らしているわけじゃない。
これは、言っておかなきゃいけない。
後で「知らなかった」なんて言われたら、癪だから。
「な、なに……?」
ユンジンが動きを止め、切なげな顔で私を見る。
私は潤んだ瞳で彼を見つめ返し、上気した頬をさらに赤く染めた。
酔いのせいにしてしまえ。
私は九条茉莉子。可愛く、健気に、おねだりするの。
「私……初めて、だから……」
蚊の鳴くような声。
でも、静寂に包まれた部屋では、十分すぎるほど響いた。
「優しくしてね……?」
小首を傾げて、精一杯の甘え声を出す。
その瞬間。
ユンジンの動きがピタリと止まった。
「……は?」
彼は信じられないものを見るように目を見開き、それから――。
見たこともないほど、狂おしいほど嬉しそうな顔で、歪んだ。
「……ああ、くそ。可愛すぎるよ、お前」
彼は私の首筋に顔を埋め、唸るように言った。
抱きしめる腕の力が強くなる。
「優しくなんて、できる自信がない。……でも、愛してるよ。誰よりも」
「んっ……!」
再び唇が重なる。
今度は、逃げることさえ許さないような、深いキスだった。
初めては痛い。想像以上に痛い。
「ごめん、マリコ……力、抜いて……」
ユンジンが汗ばんだ額で私の涙を拭いながら、動きを止めてくれる。
彼の楔が、私の中に侵入していた。
異物感。圧迫感。
でも、それが彼の一部だと思うと、不思議と嫌じゃない。
「だい、じょうぶ……続けて……」
私が小さく頷くと、彼は再び動き出した。
ゆっくりと、少しずつ。
私を傷つけないように、でも確実に奥へと。
痛みは次第に、熱い快楽へと塗り替えられていく。
熟れた果実が弾けるように、私の中で何かが壊れ、そして満たされていく感覚。
名前を呼ばれるたびに、体が震えた。
全部混ざっちゃえ。溶けたチョコレートみたいに、ドロドロに。
私は彼の首に腕を回し、しがみついた。
彼の汗と私の汗が混じり合う。
波にのまれるような感覚。
私たちは二人だけの世界で、何度も確かめ合うように溺れていった。
時間にして長かったようなけどあっという間だったと思う。
けだるい空気が漂うリビング。
私たちは乱れた服のまま、ソファで抱き合っていた。
私の体は彼の上に預けられ、心臓の音が直接伝わってくる。
ドクン、ドクンと、力強いリズム。
ユンジンが、汗で額に張り付いた私の髪を優しく払い、キスを落とした。
「大好きだよ」
独占欲たっぷりの低い声。
でも、その声には今まで聞いたことがないほどの甘さが混じっていた。
「……うん」
私は彼の胸に顔を埋め、小さく頷いた。
あーあ……ホントに大人になっちゃった。
窓の外の夜景が、涙のせいか、それとも恋のせいか、キラキラと滲んで見えた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(開花)
・状態:少女卒業。おめでとう♡
新規獲得アイテム
・【管理者の合鍵】:いつでもこの聖域に入れるパスポート。
・【大人の階段】:三段飛ばしで駆け上がっちゃったわね。
【明菜の分析ログ】
あらあら。
「ご褒美」なんて可愛い餌に釣られるフリして、逆に飼い主を骨抜きにしちゃったわね。
同い年っていうのは厄介よ。
遠慮がない分、一度火がついたら止まらない。
……ま、あの堅物くんが、理性を飛ばして獣になる瞬間。
悪くなかったわよ。
これでアンタも、立派な「愛人」……かしら?
ふふっ、楽しみが増えたわね♡




