第五十一記録【筋肉と熱帯夜、そして誤爆】
午後九時。
「ハァ……ハァ……っ、んぐ」
喉の奥から、絞り出すような声が漏れる。
全身から噴き出す汗が止まらない。視界が白く霞み、足の感覚がもうなかった。
「まだまだだ、茉莉子ちゃん。あとちょっと!」
「も、もう無理ぃぃ……っ!」
限界だ。
私の体は重力に逆らえず、ぐらりと傾いた。
世界が回転する。
ドサッ。
背中に冷たい感触。
目の前には、星一つない東京の夜空が広がっていた。
死ぬ。
まだ走り始めて五分しか経ってないとか、嘘でしょ。絶対に時計が壊れてる。
もうゲームオーバーでもいい……このまま直帰したいっす
そんなへなちょこな私を見てやろうと視界の上から、カーキのナイロンジャケットを着た大樹が覗き込んできた。
「へばるの早すぎだろ、準備運動にもなんねーぞ?」
キリッとした眉に、少し眠たげな目。
彼は涼しい顔で笑っている。額に浮いた汗すら、演出のように爽やかだ。
同じ人間とは思えない心肺機能。
「い、いや……五分も……ハァ……ハァ……走ったら十分……なんだけど……」
ゼーハーとあえぐ私を見て、大樹はニカッと笑った。
「しょうがねぇな」
太い腕が伸びてくる。
私の腕を掴むと、力任せに引き上げた。
「わっ!?」
勢い余って、彼の厚い胸板に飛び込んでしまう。
ドン、と硬い衝撃。
鼻先をくすぐる、爽やかなシトラス系の制汗剤の香りと、その奥にある微かな男の体温の匂い。
やっば……いい匂い。
それにこの胸板の厚み、あの日のプレハブ小屋と同じだ。
至近距離にある、ぽてっとした口が色っぽい。
不覚にも胸がトクリと跳ねた。
「あ、ご、ごめん……」
「茉莉子ちゃん軽いから全然大丈夫V」
大樹は私の頭にポンと手を置き、白い歯を見せてピースサインを作った。
「じゃあ、ランニングじゃなくて歩くか?」
その優しさが、逆に私のちっぽけなプライドに火をつけた。
ここで歩いたら、あの大奥の女たちに負けた気がする。
「ううん、走る! なんか走りたいから!」
私は大樹の腕をすり抜け、再び駆け出した。
夜の公園は昼間とは違う雰囲気が漂う。
左手には街灯がぼんやりと映る池、右手には森のように鬱蒼とした木々。
タッタッタッ、とリズムよく走る大樹の隣で、私は必死に足を動かす。
別に広報部が嫌いなわけじゃない。
でも、働きづらい。みんな意地悪だし、私をめちゃくちゃ下に見ている気がする。
悔しい。負けたくない。
「ハァ、ハァ……!」
ちらりと横を見ると、大樹は真剣な顔で前を見据えていた。
横顔が、やけに大人びて見える。
ドキリとした、その時。
『広報ブランディング部がかなりストレスみたいね』
私の左側から、紫のナイロンジャケットを着た明菜が、涼しい顔で並走してきた。
『村上春樹は言ったわ。「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(選択可能)なものである」』
彼女はニヤリと口角を上げた。
『走って辛いのは肉体。でも、広報部で苦しんでるのはアンタのプライド。……どっちも、アンタ次第でどうにでもなるわよ?』
そうだよ、めちゃくちゃストレスだよ!
でもさー、その正論が今なんか一番腹立つんだけど。
図星を突かれた私は、奥歯を強く噛み締め、悔し紛れに全速力でスパートをかけた。
三十分後。
公園の駐車場。
大樹の愛車であるゴツいSUVの助士席に乗り込み、ドアを閉めた。
バタン、と重厚な音が外界を遮断する。
密室。
一気に車内の湿度が上がった気がした。
二人の熱気と、運動後の汗の匂いが充満している。
「ふぅ……」
私は助手席で、カシミヤタオルで汗を拭った。
「いきなり誘ってごめんね。……会えて、嬉しかった。ありがとう」
運転席でスポーツドリンクを煽っていた大樹が、ブフッ! と盛大にむせた。
「ゲホッ、ゲホッ! ……い、いや全然いいよ! 俺だって茉莉子ちゃんに会いたかったし!」
彼は口元を拭いながら、照れくさそうに視線を逸らした。
その反応が可愛くて、愛おしい。
車内の空気が、甘く、重く変わっていく。
なんだか今日は、大樹の単純な温かさに触れたい。
私はセンターコンソールに手を置き、身を乗り出す。
「ま、茉莉子ちゃん?」
驚く大樹を無視して、私は運転席の彼の太ももの上に跨った。
狭いし。熱い。
けど彼の筋肉質な太もも越しに、体温が直接伝わってくる。
「……キス、したい」
上目遣いで告げる。
大樹の喉仏がゴクリと動いた。
彼は何も答えず、私の後頭部に大きな手を添え、唇を塞いだ。
「ん……っ」
触れるだけの優しいキスじゃない。
互いの呼吸を奪い合うような、濃密な接触。
彼のもう片方の手が、ウェアの上から私の腰を這い上がる。
指先が背骨をなぞる感触が、くすぐったくて、どうしようもなく熱い。
唇が離れると、大樹は荒い息のまま、私の瞳を覗き込んだ。
「広報部で、嫌なことされてねぇの?」
核心を突く問い。
「されてないって言ったら嘘になる……でも、自分で解決してやるって思ってる……」
私の強がりに、大樹は愛おしそうに目を細め、ぎゅーっと強く抱きしめてきた。
骨がきしむほどの強さ。
「茉莉子ちゃんは偉いな〜。最初に会ったときは何考えてるかわからなくて、ただの面倒くさがりな女の子だと思ってたけど……知り合っていくうちに、この子はとっても頑張り屋で素直な可愛い人なんだなと思ったよ」
素直。
その言葉が、胸に突き刺さった。
私は、素直なんかじゃない。
罪悪感が、熱に浮かれた頭を冷やす。
今言わなきゃ。恭弥に言えたんだ、大樹にも言えるはず。
私は身を離し、大樹の顔を両手で挟んで固定した。
「……大樹、ごめん。黙ってたことがあるの」
「ん? なんだ?」
「私、本当は……九条社長の娘なの」
車内に沈黙が落ちた。
大樹は瞬きを数回繰り返し、ポカンと口を開けた。
「……は? ……マジで? ……え、九条って、あの……?」
徐々に思考が追いついてきたのか、彼の顔がみるみる青ざめていく。
「そうか……九条社長が義理のお義父さんになるなら……挨拶はいつがいいかな……」
「そこ!?」
予想外の反応に、私は素っ頓狂な声を上げた。
「うわっちゃ〜〜! どうしよう! 俺、スーツ一着しか持ってないぞ!? プロテイン何味持ってけばいい!? プレーンか!? それともココアか!?」
「いやいや、ちょっち待って!」
パニック状態で喋り続ける大樹の口を、私は慌てて手で塞いだ。
「展開が急すぎない!?」
大樹は私の手を優しく退けると、真剣な眼差しを向けてきた。
「展開が急って……だって俺、茉莉子ちゃんのこと好きだから。付き合いたいと思ってるぜ?」
どっひゃー。
剛速球すぎる告白。
確かにキスしてるし、今日も二回目だし。
嬉しい。すっごく嬉しい。
でも、ここで大樹と付き合ったら、他の四人がぁぁ!
そのときタイミングよく視界の端、後部座席に奴が現れた。
手にはホワイトボード。そこには『天下無双の悪女』と極太マジックで書かれている。
『ニャハハ! こんな時に残りのメンズのこと考える余裕があるなんて、すんごい悪女ねぇ〜。地獄の釜もドン引きよ♡』
高笑いする明菜に毒を吐こうとした瞬間、大樹が首を傾げた。
「……もしかして、他に好きな奴とかいんの?」
ギクリとする。
いる。いるというか……君を含めて五人というか……これは「好き」で合ってるのか? ただの節操なし?
自分へのツッコミが止まらない。
でも、この真っ直ぐな瞳に嘘はつけない。
「わ、私……そ、その実は……気になる人が、大樹だけじゃなくて、その……諸々……」
言葉を濁し、視線を泳がせる。
最低だ。ビンタされても文句は言えない。
しかし。
大樹の眉が、ふにゃりと曲がった。
「ガハハ! なんだそれ!」
彼は豪快に笑い飛ばした。
「他に好きな奴もいるけど、俺のことも好きってことか! 欲張りだな〜!」
「え……」
「んじゃあ大丈夫! 最終的に俺が勝てばいいんだからな!」
彼はニカリと笑い、私の頭をワシワシと撫でた。
嫉妬、そんなもの微塵も感じさせない、圧倒的な自信とポジティブさ。
あぁ、この人には敵わない……。
私はへなへなと力が抜け、彼の胸に顔を埋めた。
やっぱ早く決めなきゃダメなのかなー。
でも今は、この汗臭くて温かい腕の中が、一番の安全地帯だった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(デトックス完了)
・状態:筋肉による加護(物理)
新規獲得アイテム
・【シトラスの香り】:青春の匂い。嗅ぐだけでHP回復。
・【脳筋の宣戦布告】:細かいことは気にしない。勝てば官軍。
【明菜の分析ログ】
恭弥の次は大樹。
アンタの振れ幅、ジェットコースター並みね。
でも、正解よ。
頭でっかちな悩みには、筋肉が一番効くの。
……ま、社長に挨拶に行く時の地獄絵図は、想像しただけで笑えるけど♡




