表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/151

第五十一記録【筋肉と熱帯夜、そして誤爆】



 午後九時。


「ハァ……ハァ……っ、んぐ」


 喉の奥から、絞り出すような声が漏れる。

 全身から噴き出す汗が止まらない。視界が白く霞み、足の感覚がもうなかった。


 「まだまだだ、茉莉子ちゃん。あとちょっと!」


 「も、もう無理ぃぃ……っ!」


 限界だ。

 私の体は重力に逆らえず、ぐらりと傾いた。

 世界が回転する。


 ドサッ。


 背中に冷たい感触。

 目の前には、星一つない東京の夜空が広がっていた。


 死ぬ。

 まだ走り始めて五分しか経ってないとか、嘘でしょ。絶対に時計が壊れてる。


 もうゲームオーバーでもいい……このまま直帰したいっす


 そんなへなちょこな私を見てやろうと視界の上から、カーキのナイロンジャケットを着た大樹が覗き込んできた。


 「へばるの早すぎだろ、準備運動にもなんねーぞ?」


 キリッとした眉に、少し眠たげな目。

 彼は涼しい顔で笑っている。額に浮いた汗すら、演出のように爽やかだ。

 同じ人間とは思えない心肺機能。


 「い、いや……五分も……ハァ……ハァ……走ったら十分……なんだけど……」


 ゼーハーとあえぐ私を見て、大樹はニカッと笑った。


 「しょうがねぇな」


 太い腕が伸びてくる。

 私の腕を掴むと、力任せに引き上げた。


 「わっ!?」


 勢い余って、彼の厚い胸板に飛び込んでしまう。

 ドン、と硬い衝撃。


 鼻先をくすぐる、爽やかなシトラス系の制汗剤の香りと、その奥にある微かな男の体温の匂い。


 やっば……いい匂い。

 それにこの胸板の厚み、あの日のプレハブ小屋と同じだ。


 至近距離にある、ぽてっとした口が色っぽい。

 不覚にも胸がトクリと跳ねた。


 「あ、ご、ごめん……」


 「茉莉子ちゃん軽いから全然大丈夫V」


 大樹は私の頭にポンと手を置き、白い歯を見せてピースサインを作った。


 「じゃあ、ランニングじゃなくて歩くか?」


 その優しさが、逆に私のちっぽけなプライドに火をつけた。

 ここで歩いたら、あの大奥の女たちに負けた気がする。


 「ううん、走る! なんか走りたいから!」


 私は大樹の腕をすり抜け、再び駆け出した。

 

 夜の公園は昼間とは違う雰囲気が漂う。

 左手には街灯がぼんやりと映る池、右手には森のように鬱蒼とした木々。

 タッタッタッ、とリズムよく走る大樹の隣で、私は必死に足を動かす。

 

 別に広報部が嫌いなわけじゃない。

 でも、働きづらい。みんな意地悪だし、私をめちゃくちゃ下に見ている気がする。

 悔しい。負けたくない。


 「ハァ、ハァ……!」


 ちらりと横を見ると、大樹は真剣な顔で前を見据えていた。

 横顔が、やけに大人びて見える。


 ドキリとした、その時。


 『広報ブランディング部がかなりストレスみたいね』


 私の左側から、紫のナイロンジャケットを着た明菜が、涼しい顔で並走してきた。


 『村上春樹は言ったわ。「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(選択可能)なものである」』


 彼女はニヤリと口角を上げた。


 『走って辛いのは肉体。でも、広報部で苦しんでるのはアンタのプライド。……どっちも、アンタ次第でどうにでもなるわよ?』


 そうだよ、めちゃくちゃストレスだよ!

 でもさー、その正論が今なんか一番腹立つんだけど。


 図星を突かれた私は、奥歯を強く噛み締め、悔し紛れに全速力でスパートをかけた。


 

 三十分後。

 公園の駐車場。


 大樹の愛車であるゴツいSUVの助士席に乗り込み、ドアを閉めた。

 バタン、と重厚な音が外界を遮断する。


 密室。

 一気に車内の湿度が上がった気がした。

 二人の熱気と、運動後の汗の匂いが充満している。


 「ふぅ……」


 私は助手席で、カシミヤタオルで汗を拭った。 


 「いきなり誘ってごめんね。……会えて、嬉しかった。ありがとう」


 運転席でスポーツドリンクを煽っていた大樹が、ブフッ! と盛大にむせた。


 「ゲホッ、ゲホッ! ……い、いや全然いいよ! 俺だって茉莉子ちゃんに会いたかったし!」


 彼は口元を拭いながら、照れくさそうに視線を逸らした。

 その反応が可愛くて、愛おしい。


 車内の空気が、甘く、重く変わっていく。

 なんだか今日は、大樹の単純な温かさに触れたい。


 私はセンターコンソールに手を置き、身を乗り出す。


 「ま、茉莉子ちゃん?」


 驚く大樹を無視して、私は運転席の彼の太ももの上に跨った。

 狭いし。熱い。

 けど彼の筋肉質な太もも越しに、体温が直接伝わってくる。


 「……キス、したい」


 上目遣いで告げる。

 大樹の喉仏がゴクリと動いた。


 彼は何も答えず、私の後頭部に大きな手を添え、唇を塞いだ。


 「ん……っ」


 触れるだけの優しいキスじゃない。

 互いの呼吸を奪い合うような、濃密な接触。


 彼のもう片方の手が、ウェアの上から私の腰を這い上がる。

 指先が背骨をなぞる感触が、くすぐったくて、どうしようもなく熱い。


 唇が離れると、大樹は荒い息のまま、私の瞳を覗き込んだ。


 「広報部で、嫌なことされてねぇの?」


 核心を突く問い。


 「されてないって言ったら嘘になる……でも、自分で解決してやるって思ってる……」


 私の強がりに、大樹は愛おしそうに目を細め、ぎゅーっと強く抱きしめてきた。

 骨がきしむほどの強さ。


 「茉莉子ちゃんは偉いな〜。最初に会ったときは何考えてるかわからなくて、ただの面倒くさがりな女の子だと思ってたけど……知り合っていくうちに、この子はとっても頑張り屋で素直な可愛い人なんだなと思ったよ」


 素直。

 その言葉が、胸に突き刺さった。

 私は、素直なんかじゃない。


 罪悪感が、熱に浮かれた頭を冷やす。

 今言わなきゃ。恭弥に言えたんだ、大樹にも言えるはず。


 私は身を離し、大樹の顔を両手で挟んで固定した。


 「……大樹、ごめん。黙ってたことがあるの」


 「ん? なんだ?」


 「私、本当は……九条社長の娘なの」


 車内に沈黙が落ちた。

 大樹は瞬きを数回繰り返し、ポカンと口を開けた。


 「……は? ……マジで? ……え、九条って、あの……?」


 徐々に思考が追いついてきたのか、彼の顔がみるみる青ざめていく。


 「そうか……九条社長が義理のお義父さんになるなら……挨拶はいつがいいかな……」


 「そこ!?」


 予想外の反応に、私は素っ頓狂な声を上げた。


 「うわっちゃ〜〜! どうしよう! 俺、スーツ一着しか持ってないぞ!? プロテイン何味持ってけばいい!? プレーンか!? それともココアか!?」


 「いやいや、ちょっち待って!」


 パニック状態で喋り続ける大樹の口を、私は慌てて手で塞いだ。


 「展開が急すぎない!?」


 大樹は私の手を優しく退けると、真剣な眼差しを向けてきた。


 「展開が急って……だって俺、茉莉子ちゃんのこと好きだから。付き合いたいと思ってるぜ?」


 どっひゃー。

 剛速球すぎる告白。


 確かにキスしてるし、今日も二回目だし。

 嬉しい。すっごく嬉しい。

 でも、ここで大樹と付き合ったら、他の四人がぁぁ!


 そのときタイミングよく視界の端、後部座席に奴が現れた。

 手にはホワイトボード。そこには『天下無双の悪女』と極太マジックで書かれている。


 『ニャハハ! こんな時に残りのメンズのこと考える余裕があるなんて、すんごい悪女ねぇ〜。地獄の釜もドン引きよ♡』


 高笑いする明菜に毒を吐こうとした瞬間、大樹が首を傾げた。


 「……もしかして、他に好きな奴とかいんの?」


 ギクリとする。

 いる。いるというか……君を含めて五人というか……これは「好き」で合ってるのか? ただの節操なし?


 自分へのツッコミが止まらない。

 でも、この真っ直ぐな瞳に嘘はつけない。


 「わ、私……そ、その実は……気になる人が、大樹だけじゃなくて、その……諸々……」


 言葉を濁し、視線を泳がせる。

 最低だ。ビンタされても文句は言えない。


 しかし。

 大樹の眉が、ふにゃりと曲がった。


 「ガハハ! なんだそれ!」


 彼は豪快に笑い飛ばした。


 「他に好きな奴もいるけど、俺のことも好きってことか! 欲張りだな〜!」


 「え……」


 「んじゃあ大丈夫! 最終的に俺が勝てばいいんだからな!」


 彼はニカリと笑い、私の頭をワシワシと撫でた。

 嫉妬、そんなもの微塵も感じさせない、圧倒的な自信とポジティブさ。


 あぁ、この人には敵わない……。


 私はへなへなと力が抜け、彼の胸に顔を埋めた。

 

 やっぱ早く決めなきゃダメなのかなー。

 でも今は、この汗臭くて温かい腕の中が、一番の安全地帯だった。

 

【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.002

・氏名:九条茉莉子(デトックス完了)

・状態:筋肉による加護(物理)


新規獲得アイテム

・【シトラスの香り】:青春の匂い。嗅ぐだけでHP回復。

・【脳筋の宣戦布告】:細かいことは気にしない。勝てば官軍。


【明菜の分析ログ】


 恭弥の次は大樹。

 アンタの振れ幅、ジェットコースター並みね。

 

 でも、正解よ。

 頭でっかちな悩みには、筋肉が一番効くの。

 ……ま、社長パパに挨拶に行く時の地獄絵図は、想像しただけで笑えるけど♡

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ