第五十二記録【秘書の完全犯罪(サボり)】
五月十日、木曜日。
午後一時。広報ブランディング部。
蛍光灯の白い光が容赦なく頭上を照らし、昼休み明けの気だるい空気が部屋を支配している。
私のデスクでは、セイラによる定例の説教タイムが開催中だった。
「一条さん。この企画書のフォント、明朝体ではなくゴシック体でと申し上げましたよね? 視認性が0.3秒遅れます」
セイラさんの声は、針で刺すように冷たい。
「……はい、申し訳ありません」
頭を下げるフリをして、心の中で毒づく。
細か! 己は姑か! 0.3秒とか誤差だろ! 瞬き一回分にも満たないわ!
助けを求めてアカネちゃんを見ると、オロオロと視線を泳がせている。遠くの席では、きあらが楽しそうにこちらを見てニヤニヤしていた。
くそっ、四面楚歌……!
その時だった。
コンコン。
扉をノックする音が響いた。
オフィスの空気が、ピタリと止まる。
「失礼します」
凛とした声。
入り口に立っていたのは、完璧なグレーのスーツを着こなした凪だった。
彼はまっすぐセイラさんに向かって歩き、一礼する。
「青崎チーフ、申し訳ありません。社長より特命です。過去の資料照合のため、一条さんを至急お借りしたいと」
完璧な秘書スマイル。有無を言わせぬオーラ。
セイラさんの眉がピクリと動いた。
「……社長命令ですか。なら、仕方ありませんね」
彼女は短くため息をつき、私に顎をしゃくった。
「早く行きなさい」
「はいっ!」
私は弾かれたように立ち上がった。
凪が私の腕を取り、早足でオフィスを出る。
廊下に出た瞬間、背中にかかっていた重圧が嘘のように消えた。
空調の音だけが、静かに響いている。
凪は私の腕を掴んだまま、エレベーターホールへ向かう。
彼の手は温かくて、少しだけ湿っていた。
エレベーターのボタンを押す。
チーン、という電子音とともに、扉が開く。
私たちは乗り込み、「閉」ボタンを押した。
扉が閉まり、密室になった瞬間。
凪の表情がふにゃりと崩れた。
「あのおばさん、騙しやすいね」
クスクスと笑う声には、先ほどまでの緊張感は微塵もない。
私は両腕をだらりと垂らし、安堵の息を吐いた。
「ほんとに助かった、マジでありがとう……。寿命が縮むかと思った……いやもう縮んでるけど」
凪は人差し指を立て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ねぇ、茉莉子さん。このまま二人で、サボっちゃおうか?」
「はぁ!?」
すっとんきょんな声が出た。
「サボるって、そんなことパパにバレたら……!」
「大丈夫。今日は社長、友達の社長さん達とゴルフに行ってるから」
彼は犬歯を見せて笑い、私の髪をサラリと撫でた。
指先が耳に触れ、ゾクリとした。
「俺、会社の近くで待ってるから。着替えて来てよ。逃避行、二人でしよ?」
エレベーターが地下一階に到着する。
扉が開き、凪は私の手を離した。
「じゃあ、30分後に本社の玄関前で」
彼はウインクして、廊下を去っていく。
白いワイシャツの背中が、角を曲がって見えなくなった。
私は一人、エレベーターの中で呆然と立ち尽くす。
心臓がドクドクと煩い。
サボり。
デート。
背徳感。
この三つの単語が、頭の中でグルグルと回っている。
特別監視室。
私は簡易クローゼットの前で腕組みをしていた。
「あのスクーターに乗るんだから、動きやすいほうがいいよねー……」
サボりデートのコーデ。重要任務だ。
ゲーミングチェアに座った明菜が、複数のアルカナカードを展開してニヤニヤしている。
【THE MAGICIAN(魔術師)】、【THE LOVERS(恋人)】の逆位置、そして【WHEEL of FORTUNE(運命の輪)】。
『サボり……なんて素敵な言葉♡ 不謹慎だけどー。ま、アンタの運命の輪がどっちに転ぶか、見ものだわ』
よく分からないけど、ロクなことじゃないのは確かだ。
私は直感で服を選んだ。
黒のキャミソールに、薄手の黒カーディガン。ボトムスは黒のスキニーパンツで、足元は黒の厚底スニーカー。仕上げにシルバーのアクセサリーをじゃら付け。
名付けて、「黒多めのクール系ガール」コーデ!
鏡で全身をチェックする。
うん、完璧。ロック系のお姉さんっぽくて好き。
よし、これで行こう!
私は特別監視室を出て、廊下を早足で歩く。
厚底スニーカーが床を叩く音が、やけに大きく響いた。
エレベーターに乗り、1階のボタンを押す。
上昇する感覚。胃がふわりと浮く。
「バレたらどうしよう……」
心臓がドクドクと煩い。でも、それ以上に期待がある。
凪とのサボりデート。背徳感が、体をじんわりと熱くする。
チーン。
エレベーターが1階に到着した。
扉が開き、明るいロビーが視界に飛び込んでくる。
受付嬢が笑顔で会釈してきた。
私も愛想笑いを返し、玄関へ向かう。
自動ドアが開く。
五月の陽光が眩しくて、思わず目を細めた。
本社の玄関前。道路沿い。
「歩きにくいなー……」
慣れない厚底に苦戦しながら歩いていると、クリーム色のレトロなスクーターに跨る人影を見つけた。
凪だ。
白Tシャツに、薄色のデニムジャケット。黒のワイドパンツに、白いスニーカー。
スーツ姿とは打って変わって、やんちゃな大学生みたいな私服にドキリとする。
彼は気だるげにタバコを吸っていたが、私と目が合うと、表情を崩して笑った。
「相変わらず、お姉さんの服の趣味いい感じで好きだなー」
当たり前でしょ! 超大金持ちの九条茉莉子だよ! センスも金で買えるの!
心の中でドヤ顔をしつつ、表面上は謙虚に笑う。
「あ、ありがとう〜。で、どこいくの?」
凪はタバコの煙を細く吐き出した。
紫煙が風に流れ、甘いタバコの匂いが鼻をくすぐる。
「少し走ったところに資料館があるんだよ。そこに行きたくて」
「へ? 資料館?」
「うん。茉莉子さんの分も半休申請しといたから、心配しないで」
彼は予備のヘルメットを私に渡した。
黒い光沢のあるヘルメット。意外と重い。
「さ、行きましょう。デートに」
私はおっかなびっくりスクーターの後ろに跨った。
凪の背中から、ワックスの甘い匂いが漂ってくる。なんか、エロい。
「しっかり捕まってね。振り落とされても知らないよう?」
彼の細い腰に腕を回す。
背中から伝わる体温。華奢に見えて、意外としっかりした男の子の背中。
ブロロロ……。
エンジンがかかり、スクーターが動き出した。
信号が青に変わり、加速する。
五月の風が頬を撫で、髪が激しくなびく。
アクセサリーがシャラシャラと鳴った。
都心のビル群が流れていく。
スクーターの振動が心地よくて、凪の背中にもたれかかった。
会社をサボっているという背徳感が、最高のスパイスだ。
風が強くなり、私は凪の腰にギュッとしがみついた。
彼の体温が、腕を通して伝わってくる。
スクーターは幹線道路を抜け、やがて閑静な住宅街へ入った。
景色がゆっくりと流れ、スピードが落ちる。
15分ほど走った頃。
凪がスクーターを減速させ、古びた建物の前で止まった。
看板には『レトロ自販機と昭和玩具の博物館』の文字。
入場料500円。客は疎らで、館内は薄暗い。
空調の効いた冷たい空気が、汗ばんだ肌に心地よい。
「うわぁ! 何これ! 激レアなアーケード筐体あるじゃん! テンション上がる!」
私のオタクスイッチが入った。
色褪せたポスター、ブリキのおもちゃ、見たこともない古いゲーム機。ここは天国か。
私は興奮して、ガラスケースに顔を近づけた。
「これ、初代ファミコンのカセット! しかも箱付き!」
凪が微笑みながら、私の隣に立つ。
彼の肩が、私の肩に軽く触れた。
「茉莉子さん、そんなに好きなんだ」
「うん! こういうレトロなゲームって、今のゲームにはない温かみがあるからね!」
私は力説する。
凪はクスクスと笑いながら、スマホを向けてきた。
「可愛い」
シャッター音はしない。
「撮らないでよ〜」
とりあえず可愛く否定したけど、シャッター音ぐらいつけろよ! 盗撮だからそれ!
『懐かしいわねぇ……』
隣で明菜が、壊れたジュークボックスに触れる。
彼女の手が、筐体をゆっくりと撫でた。
『アタシって悪魔キューピットだから、アンタ以外にも取り憑いたことあるのよ』
その度に、女とか男とか関係なく悪に染めてるのか! この悪魔! キューピットとか名乗るな!
私の毒づきなど意に介さず、明菜は笑った。
『昭和の女にも取り憑いてやったこともあるわ〜♡ その女、不倫相手と結婚までしたけどね〜。アハハ!』
ロクなことしてない!
私が明菜に何か言い返そうとした瞬間、ポン、と肩を叩かれた。
「茉莉子さん、なんで何もない壁見てるんですか?」
凪が不思議そうに私を覗き込んでいる。
フォレストグリーンの瞳が、至近距離で私を見つめていた。
「あ、えっと! なんでもないよー! アハハハ! なんか疲れてるみたーい!」
私は慌てて凪の両肩を掴み、強引に前を向かせた。
私たちは館内をゆっくりと歩く。
古い資料を見たり、色褪せたブリキのおもちゃを触ったり。
「これ、昭和30年代のブリキロボットだって。すごくない!?」
「へぇ、茉莉子さん詳しいんだね」
「まあね! オタクだから!あっやべ……」
オタクは内緒にしてたのについこんなところに来るんもんだから。
けれど彼はずっと、はしゃぐ私を見つめていた。
「茉莉子さんって、こういうの好きなんだね。……ふふ、可愛い」
30分ほど館内を回った頃、お腹が鳴った。
グゥゥゥ……。
凪がクスリと笑う。
「お腹空いたね」
「うっ……」
時計を見ると、もう午後三時を回っている。
博物館の隅に、昭和レトロな自販機が並んでいた。
「うどん……自販機で売ってるの!?」
私は目を輝かせた。
凪が財布から100円玉を取り出し、ボタンを押す。
ガコン、という機械音とともに、プラスチック容器に入ったうどんが出てきた。
「これ、本当に食べられるの?」
「さあ……? でも、面白そうじゃん」
私たちは休憩スペースに座り、恐る恐る蓋を開けた。
湯気が立ち上り、出汁の香りが漂ってくる。
意外と美味しそう。
「……で、どうですか? 大奥は」
唐突に、凪が切り出した。
「え……まぁ、大変だけど……」
凪は割り箸をパキリと割りながら、ニコリと笑った。
「青崎チーフのパソコン、ウイルス感染させましょうか? それとも、黄倉さんのSNSの裏垢、社内メールで誤爆させましょうか?」
内容が具体的すぎて怖い。目が笑っていない。
「や、やめて! 犯罪だから!」
凪はスッと真顔になり、私の頬に触れた。
暖かい指先。少しだけ湿っている。
「冗談ですよ。……まぁ、茉莉子さんが『壊して』って言えば、本当にやりますけど」
その瞳は、底なしに暗く、そして甘かった。
「俺にとって、世界で一番大事なのは社長でも会社でもない。……貴女ですから」
ゾクッとするような愛の告白。
凪お前もかぁぁぁぁ! ちょっとここ数日男達からの求愛に心が死ぬぅぅ! 私のキャパシティはもう限界!
夕暮れ。午後五時。
博物館を出ると、空はオレンジ色に染まっていた。
五月の風が、少しだけ冷たくなっている。
スクーターの前で、私はヘルメットを凪に渡した。
「あ、そうそう。あの『虫刺され』……もう消えました?」
凪が私の首筋を見て言った。
「あれのせいで大変だったんだからねー!」
「大変って?」
「え、あっいや……その……」
やべっ。ユンジンに尋問されたこと、言えない……!
「なんで隠すの?」
「隠してるというかー……」
私はキョロキョロと視線を泳がせた。凪の目が見れない。
完全にやっちまった。
「ふーん」
不服そうな声。
凪が一歩近づき、私の耳元で囁いた。
彼の吐息が、耳たぶに触れる。
「次は、もっと見えにくい場所にしますね♡」
ボンッ!
私の顔面が沸騰した。
「それじゃあ! 広報部頑張って!」
彼は犬歯を見せてニカッと笑うと、スクーターに跨り、颯爽と去っていった。
クリーム色のスクーターが、夕暮れの道路を走り去る。
エンジン音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
なんなのよ、もう。全員、私のことどうしたいわけ!?
私は熱を持った頬を押さえながら、夕暮れの街に一人、立ち尽くした。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(背徳感によりストレス軽減)
・状態:ヤンデレのマーキング対象
新規獲得アイテム
・【午後半休】:最高の贅沢。使いすぎ注意。
・【秘書の愛(狂気)】:取扱説明書をよく読むこと。用法用量を誤ると社会的に死にます。
【明菜の分析ログ】
嘘も方便、権力乱用も才能のうち。
あの秘書くん、なかなかいい性格してるじゃない?
昭和の女も言ってたわ。
「男の愛は、時に法律よりも重い」ってね。
……ま、アンタが「壊して」って言ったら、本当に世界が一つ二つ壊れそうだけど♡
せいぜい気をつけることね、子猫ちゃん。




