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第五十記録【コックがオーブンで死ぬなんてよ 】



 五月九日、水曜日。


 午前八時三十分。

 私は特別監視室の隅にある縦鏡の前に立っていた。


 今日のコーデは、ライトグレーのニットに、ミントグリーンのタイトスカート。

 

 ふふん。タイトスカートで大人っぽさをキープしつつ、グレー×ミントは清潔感と透明感が出る最強の組み合わせ!

 これでセイラおばさ……じゃない、チーフの小言も少しは減るはず!


 仕上げに、お気に入りの青みピンクのリップを取り出した。

 この絶妙なツヤ感が勝負の鍵……。

 

 ぬっ。


 横から白い手が伸びてきた。

 明菜だ。


 彼女は私の手からリップをひったくると、自分の唇に塗りたくった。


「あー! 私の高いリップが!」


 明菜は妖艶に唇を舐めながら、空いている手でタロットカードを数枚展開した。


 【THE EMPRESS(女帝)】と、【SWORD(剣)】の逆位置。

 そして【PAGE of CUPS(杯の小姓)】。


 女帝と剣はわかるけど、そのカードは誰?

 は! まさか私か、小アルカナかよ! 小物って言いたいのか!!


 『あら、いい色。……でも気をつけなさい。女帝きあらに、その剣(恭弥)を引き抜かれちゃうかもねー』


 「話し聞けよ悪魔!」


 『ペチャクチャとうるさいわねー、だから未熟なのよ』


 彼女は茶化すようにカードを弄んだ。

 ていうか引き抜かれるってどういう意味?


 『別にー』


  ……まぁいいや、そろそろ行かないとチーフに殺される。

 


 

 広報ブランディング部。


 私のデスクでは、セイラさんによる無慈悲な赤ペン先生が行われていた。


 「ここの『てにをは』がおかしい。読点が多すぎます。あと、このフォントサイズ、規定より0.5ポイント小さいですが?」


 終わらない修正。

 私の原稿はすでに真っ赤だ。


 黙ってたらすっごい美人なのに。なんでこの人、常に何かに怒ってるの? カルシウム不足? 煮干し贈ろうかな?

 

 助けを求めて、隣の席のアカネちゃんをチラリと見た。

 しかし、アカネちゃんは気まずそうに苦笑いし、スッと目を逸らしてしまった。


 女神ぃ……見捨てないで……。


 「一条さん!」


 ビクッとする。


 「ちゃんと聞いてるの!? あなたの為を思って言っているんですよ?」


 「は、はい! 聞いてます!」


 嘘です。右から左へ受け流してました。無の心で乗り切ります。

 

 

 

 ランチタイム。


 特別監視室に戻り、直之特製のヘルシーランチを食べ終えた私は、ベッドにダイブした。

 壁時計を見ると、もうすぐ休憩が終わる。


 「帰りたくない……あんな地獄に……。お布団が恋人……」


 ベッドの縁に明菜が座り、優しく私の頭を撫でた。


 『よしよし……可哀想なまりちゃん』


 明菜……! なんだかんだ言って優しいじゃん……癒される……。


 パッ。


 明菜が頭から手をどけ、ベッドから飛び上がった。

 宙に浮きながら、巨大なロングボウを召喚し、ギリリ……と私の眉間に狙いを定めた。


 『勘違いしないでちょうだい。優しくしてないの。アンタがメソメソしてる姿が、最高にアタシにとっての媚薬なの! もっと泣きなさい! 絶望しなさい! アハハハ!』


 ヒィッ! サイコパス!

 矢が放たれる前に、私は慌てて部屋を飛び出した。

 

 デスクに戻ると、あのぶりっ子女・黄倉きあらが立っていた。


 「あっ! いたいた! 茉莉子ちゃ〜ん♡」


 「黄倉さん、お疲れ様です」


 茉莉子ちゃんだと……。

 私はコイツと仲良くなったつもりないんだけど? 鳥肌立つわ。

 

 きあらはパステルカラーのカーディガンを揺らして近づいてきた。


 「午後はねぇ、きあらと一緒に開発部にいくよー♡ ロボットの取材だってぇ〜、難しそぉ〜」

 

 じゃあ来んなよ。

 私は心の内で大きく舌打ちをして、荷物を手に持ちきあらと一緒に開発部に向った。

 

 

 開発部の重たい扉を開けると、ツンとした油とハンダの匂いが鼻を突いた。

 

 「おっ、きあらちゃんだ!」「今日も可愛いねぇ!」


 殺風景な部屋が一変する。

 モニターに向かっていた男だらけのエンジニアたちが、きあらの登場に色めき立ち、椅子を回転させて一斉にこちらを見た。


 「えへへ〜♡ 皆さんお疲れ様でぇす♡」


 きあらはアイドルのように、顔の横で小さく手を振った。

 その横で、明菜も全く同じ角度で手を振りながら、毒々しい笑みを浮かべた。


 『シェイクスピアは言ったわ。「虚栄は、自分自身を欺くことから始まる」……中身スカスカの風船ほど、派手に飛ぶものね』

 

 その時、部屋の奥にあるサーバー室の扉が開いた。

 冷気と共に、白衣を纏った男が姿を現す。

 剣崎恭弥だ。


 きあらの目が、獲物を見つけた獣のように光った。


 「恭弥さぁ〜ん♡ 今日はよろしくお願いしまーす♡」


 彼女はパタパタと小走りで駆け寄り、恭弥の目の前で上目遣いを作る。

 完璧な角度。完璧な声色。


 しかし、恭弥は視線すら合わせない。


 「……あぁ」


 手元のスマホをいじりながら、空返事をしただけだ。

 興味なし。ゼロ。

 

 ざまぁみろ。

 私は咳払いを一つして、仕事モードに切り替えた。


 「えっと、今回は『夜間警備ロボット』の取材ということで……」


 その言葉に、恭弥のスイッチが入った。

 彼はスマホをポケットに突っ込み、バッと顔を上げた。


 「これはただの警備ロボットじゃない。赤外線サーモグラフィと歩容認証AIを統合し、女性の悲鳴の周波数を0.1秒で検知して自律走行で駆けつける。つまり、夜道の『不安』という概念を物理的に削除するデバイスだ」


 眼鏡の奥の瞳がギラついている。

 熱い。早口だ。


 「なるほど……すごい。安心を買うロボットなんですね」


 私が感心してメモを取っていると、横から甘ったるい声が割り込んだ。


 「すごぉい! 全然わかんないけどぉ、恭弥さんって天才なんですねぇ〜♡ カッコいい〜♡」


 きあらだ。

 両手を合わせて、恭弥を見上げている。


 ピタリ、と恭弥の手が止まった。

 部屋の空気が凍りつく。


 彼はゆっくりと首を動かし、きあらを見下ろした。

 その目は、バグだらけのコードを見るような、冷徹な光を宿していた。


 「……お前の音は、高周波の雑音だ」


 「えっ……?」


 きあらの笑顔が引きつる。


 「内容のない賛辞は、酸素の無駄遣いだと言っている。……出て行け」


 氷のような拒絶。

 きあらは口をパクパクとさせ、顔を真っ赤にした。


 「そ、そんなぁ〜ひどぉい……」


 恭弥はもう彼女を見ていなかった。

 彼はくるりと私の方へ向き直ると、声のトーンをワントーン上げて言った。


 「まーちゃん、これを見ろ」


 デレデレした顔で、開発中のモニターを指差してくる。

 温度差!!


 きあらのプライドはズタズタだ。

 彼女は涙目で私を睨みつけると、ヒールをカツカツと鳴らして出口へ向かった。


 「……先に戻るから!」


 捨て台詞を残し、彼女は赤っ恥で逃げていった。

 心の中でガッツポーズ! ナイス恭弥!

 

 開発部に、本来の静寂が戻った。

 機械の駆動音だけが響いている。


 「……黄倉さんにあんな態度とって、ダメだったんじゃないの?」


 私はニヤける顔を隠しきれずに聞いた。

 

 恭弥は眼鏡をクイッと上げた。


 「オレは、まーちゃん以外に興味ない」


 「ぶっ……!」


 「? どうした」


 きょとんとしている。

 

 こ、この男……無意識がすぎんだろぉぉ! ついこの前も論文で告白してきたし、今回もほぼ告白じゃんそれ!


 ふわり、と視界の端で明菜が動いた。

 

 彼女はさっきの【女帝】のカードをゴミのようにポイッと捨て、私に指を差した。


 『さぁ、今よ。……選択肢シミュレートを発動しなさーい』


 そ、そうだね。こんなに真っ直ぐな人に、嘘ついたままは失礼だよね。

 胸の奥にある罪悪感と、彼なら受け入れてくれるという信頼が、私の背中を押した。


 ピロン♪


 【スキル・選択肢シミュレート発動!】


 私の視界に、ゲームのような半透明のウィンドウが表示された。


【正体露見のチャンス! 恭弥に真実を話す?】


▶ A: 素直に「実は九条茉莉子です」と告げる

 (成功率:70% / 恭弥なら受け入れてくれるはず。でも嫌われるかも……)


▶ B: やっぱりまだ言えない

 (成功率:100% / 現状維持。ただし罪悪感で胃が死ぬ)


▶ C: 「実は二条ニジョウ茉莉子です」と言う

 (成功率:5% / 謎の嘘をついて余計に混乱させる。意味不明)


 私は迷わず【A】を選択した。


 「あのね、恭弥。……私、一条じゃないの」


 「あん?」


 彼がキーボードを叩く手を止めた。


 「本当は……九条茉莉子。ここの社長の娘なの。ずっと黙っててごめん」


 言った。言ってしまった。

 静寂が重い。


 恭弥は瞬きもせず、じっと私を見つめている。

 嫌われた? 怒った?


 「……そうか」


 彼は短く呟くと、またモニターに視線を戻した。

 キーボードを叩く音が再開する。


 「一条だろうと九条だろうと、俺は『まーちゃん』という存在が面白いから、何も変わらん」


 早口で、ボソボソと。


 「え……」


 「……言っただろ。興味があるのは中身データだ」


 彼の耳が、ほんの少しだけ赤くなっているのが見えた。


 「ほら、もういいだろ。……早く戻れ。仕事の邪魔だ」


 彼は手をシッシッとして、私に背中を向けた。

 その背中は、いつもより少しだけ頼もしく見えた。


 「……うん! ありがとう、恭弥!」


 私は何も言わず、恭弥の不器用なデレを噛み締めながら、大奥へと戻っていった。

 足取りは、来る時よりもずっと軽かった。

 

 

【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.002

・氏名:九条茉莉子(ストレス軽減)

・状態:天才のご加護あり


新規獲得アイテム

・【天才のデレ】:効果絶大。どんな嫌がらせも「ノイズ」として処理可能。

・【真実の告白】:心の重荷を下ろす鍵。


【明菜の分析ログ】

 

 女の敵を撃退するのは、いつしか「空気を読まない男」ね。

 

 きあらの媚びなんて、彼にとってはただの雑音。

 でも、アンタの声だけはちゃんと届いてる。

 

 ……ま、これであのオタク男も、正式にアンタの「騎士ナイト」に昇格かしらね♡

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