第四十九記録【アメとムチと王子様】
五月八日、火曜日。
九条邸のダイニングルームには、今日も無駄に優雅な朝が訪れていた。
クリスタルガラスの器に盛られたアサイーボウル。その横には、高級オリーブオイルが回しかけられた色鮮やかなサラダ。
私の目の前では、直之が大道芸人のような手つきで、リンゴの皮を剥いている。シュルシュルと長く繋がった皮が、芸術的に皿の上に落ちていく。
「パパぁ〜」
私はスプーンをくわえたまま、向かいに座る父・壮一郎に抗議の声を上げた。
「広報なんちゃらに行きたくなーい。あそこ空気が悪いよ、酸素濃度が薄い」
「なんだい? まりちゃん♡」
パパは新聞から顔を上げ、ニコニコと笑った。
「えぇ!? まりちゃんなら上手くやってると思ってたのにー。パパの自慢の娘だぞ?」
彼はそうおどけながら、シャキシャキとサラダを頬張っている。
「なわけ! ないでしょ! 娘の苦労も知らないでさ〜、このタヌキ!!」
私は首にかけられた紙の前掛けを、ビリィッ! と引きちぎった。
「もういい! 次のガチャも全部完凸してやるんだから! パパのカードで!覚えとけよー!」
「えっ、まりちゃん!?」
「行ってきます!」
バッタン!
私はダイニングの扉を勢いよく閉め、戦場へと向かった。
残された父が、ポツリと呟いたことなど知らずに。
「……次も、って。毎回なんじゃ?」
午前十時。広報ブランディング部。
「一条さん。これを全て入力しておいてください」
ドンッ。
私のデスクに、広辞苑くらいの厚さがある書類の束が置かれた。
チーフの青崎セイラが華麗に登場。
彼女は冷ややかなアイスブルーの瞳で、腕時計をチラリと見た。
「効率的にやれば、定時までには終わるわよね? 無能でなければ、の話ですが」
「……は、はい。努力します」
私は引きつった笑顔で答えるしかなかった。
はぁぁぁ!? ふざけんなよこの銀縁眼鏡! なにが効率的によ! 聖徳太子でも無理だわ! お前の前世はあれか? ピラミッド建設現場の監督か? 鞭で叩けば石が動くと思ってんのか!?
心の中で精一杯の毒を吐き捨て、彼女の背中を睨みつける。
しかし、セイラさんは私の悪態などつゆ知らず、艶やかなブルーブラックの髪をさらりとなびかせ、優雅にその場を離れていった。
『あらあら〜。【正義】を振りかざす独裁者にいびられて、可哀想な下女〜』
明菜が私のデスクに現れ、一枚のカードをヒラヒラと見せつけてきた。
【JUSTICE(正義)】の逆位置。
不公平、偏見、厳しさ。まさにあの女だ。
『オホホホ!』
明菜は口元に手を添え、高笑いしている。
笑ってないで手伝えよ悪魔!
正午。
私は「別件の打ち合わせ」という名目で、使われていない会議室に呼び出されていた。
呼び出した主は、まだ来ていない。
「人のこと呼び出しといて来てないとか、社会人失格なんですけどー。減給だ減給」
私がブツブツと独り言を言っていると、ドアが開いた。
「……納期は厳守させてください。ええ、失礼します」
ユンジンだ。
彼はスマホで流暢なビジネス会話をしながら入室し、私を見ると通話を切った。
「遅い」
私が文句を言おうとすると、彼はドアを閉めた途端に深い溜息をついた。
「……ひどい顔だ」
「誰のせいだと……」
彼は私の言葉を無視し、スーツのポケットから無造作に何かを取り出した。
コトン、とテーブルに置かれる。
タウリン3000mg配合の最強栄養ドリンクと、一粒千円はする高級ショコラ。
「食え」
「え……」
「あと、首のコンシーラー、浮いてきてるぞ」
彼は私の首筋を指差した。
「直してから行けよ。……一応、九条の令嬢なんだからな」
それだけ言うと、彼は「行くぞ」と短く告げ、さっさと会議室を出て行ってしまった。
甘い言葉なんて一つもない。
でも。
「なんだよそれ」
残された私は、高級チョコを手に取り、熱くなる頬を押さえた。
昨日の「情けない姿」を見せた翌日に、この完璧な仕事モード。
そのギャップに、少しだけ胸が跳ねてしまった。悔しい。
午後五時半。
指が痙攣しそうになりながらも、私は驚異的な集中力(ゲーマー特有の単純作業耐性)で、データ入力を終わらせようとしていた。
よし……! あと一行! これでセイラさんの鼻を明かしてやる!
エンターキーを押そうとした、その時。
ブツン。
目の前のモニターが真っ暗になった。
「え?」
「あ〜ん! ごめぇ〜ん!」
背後から、甘ったるい声が聞こえた。
振り返ると、黄倉きあらが、私のPCの電源コードのそばに立っていた。足元には、抜けたプラグ。
「電源コード引っ掛けちゃったぁ♡ 私ってばドジ〜!」
時が止まった。
未保存のデータ。数千行の数字。私の、私の血と汗と涙の結晶が……。
あぁぁ! Fu〇k y〇u! 殺すぞ! このぶりっ子女ぁぁぁ! わざとだろ! 絶対わざとだろぉぉぉ!
「茉莉子ちゃん、まさか保存してなかったのぉ? うっそぉ〜、ドジっ子だねぇ〜」
きあらは悪びれる様子もなく、クスクスと笑いながら去っていった。
帰りに階段から滑って全身骨折しろ!
カツ、カツ、カツ。
優雅な足音に合わせて、明菜が現れる。
『まんまとハメられたのね、可哀想な下女〜♡』
彼女が掲げたカードは、【THE EMPRESS(女帝)】の逆位置。
嫉妬、虚栄、わがまま。
私は絶望で、突っ伏す気力さえ失った。
しんどいて……。
午後十時。
結局、残業してデータを復旧させ、私はゾンビのような足取りで会社を出た。
もう歩きたくない。早く直之の所に……。
地下駐車場に向かうと、そこには見知った銀色のガルウィング・スーパーカーが停まっていた。
ボンネットに寄りかかり、優雅に手を振る男。
「お疲れ、シンデレラ」
レオだ。
夜の駐車場でも発光しているかのような美貌。
「……レオ」
「いじめっ子に泣かされた顔だね」
彼は哀れむような瞳で、私の頬を親指でそっと撫でた。
その優しい指の感触に、張り詰めていた糸が切れそうになる。
「送ってくれるの?」
「そのために待ってたよ」
「……じゃあ、直之に連絡しとく」
スーパーカーの助手席は、外界から遮断された宇宙船のようだった。
心地よいエンジン音と、流れる夜景。
私はぼーっと窓の外を見ていた。
「ちょっとおしゃべりしようよ」
彼が連れてきたのは、人気のない、真っ暗な海沿いの埠頭。
波の音だけが聞こえる。
いや、話すって言ったじゃん……。
「んっ……♡」
ちゅ、ちゅぷ……。
甘い水音。
話すと言いつつ、それは濃厚な「ちゅうちゅうイチャイチャ」タイムの始まりだった。
「ん、ちょっと……レオ、やめ……激し……」
私が息継ぎのために顔を背けようとすると、彼は逃がさなかった。
「なんで? 嫌?」
「嫌じゃ、ないけど……」
「女の子って、嫌じゃないのにやめてとか言っちゃうんだもん。……全然可愛くない」
彼は悪戯っぽく笑い、また私の唇を塞いだ。
今度は深く、舌を絡ませて。
首筋、耳の裏、鎖骨。
雨のように降るキス。
カサカサに乾いていた心が、彼の熱と甘さで潤されていく。
今日の嫌なこと――セイラさんの冷たい目も、きあらの嘲笑も、全部彼が上書きして消していく。
一通りキスが終わり、レオは満足そうに私の頭を撫でた。
「……ねぇ、茉莉子ちゃん」
「なぁに……」
私はとろんとした目で彼を見上げた。
「君をいじめた奴ら、僕が消してあげようか?」
「え……」
彼の瞳は笑っていたが、声のトーンは冗談に聞こえなかった。
本気だ。この人は、やる。
「そんなこと、しなくていいよ」
「どうして? 僕はお姫様が悲しいと、僕も悲しいんだけど」
「大丈夫、ほんとに……自分でなんとかするから」
強がり半分とこれ以上、レオという危険な劇薬に依存してはいけないという自制心が半分。
そんな私の言葉を聞いて、レオはふわりと笑い、私の胸に顔を埋めた。
「……強くなったね、シンデレラ」
「そんなこと……」
言い返すよりも早く、また唇を塞がれた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(疲労困憊 → 糖分過多)
・状態:アメとムチの波状攻撃により思考停止
新規獲得アイテム
・【管理者の差し入れ】:不器用な愛の結晶。食べるとHP小回復、胸キュン効果付与。
・【レオの甘い毒】:劇薬。用法用量を守らないと、身も心も溶かされます。
【明菜の分析ログ】
地獄(昼)と天国(夜)の寒暖差で風邪ひきそうね。
……あ、忠告しておくけど。
王子様の「消してあげようか」って言葉。
あれ、比喩じゃないわよ?
甘いキスに隠されてるけど、彼が一番「取り扱い注意」な劇薬かもね。




