第四十八記録【大奥の開門】
五月七日、月曜日。
午前九時。
九条グローバル本社、二十五階『広報ブランディング部』。
自動ドアが開いた瞬間、私の肌に突き刺さるような「圧」が襲いかかってきた。
濃厚なフローラル系の香水の匂い。
カツ、カツ、と響く鋭利なヒールの音。
社員たちは全員、最新のオフィスカジュアルで武装しているが、私の目にはそれが『豪華絢爛な打ち掛け』に見える。
な、なにここ……。令和のオフィスじゃない。時空歪んでる? 江戸城の『大奥』に迷い込んだ!?
すれ違う女性社員たちの流し目が、完全に「御目見得以下の下女」を見る目だ。
怖い。怖すぎる。
「一条さん。……おはようございます」
部屋の奥から、氷の女王が現れた。
チーフの青崎セイラ。
艶のあるブルーブラックのロングヘア。定規で引いたような一直線のストレートに、冷ややかなアイスブルーの瞳。
こ、怖い……怖いよぉぉ、ママぁぁ!
彼女の背後には、只者ではないオーラが漂っている。
「お、おはようございま……」
「ストップ。動かないで」
セイラは銀縁眼鏡の奥から、私を頭のてっぺんからつま先までスキャンした。
「髪の巻き方が左右非対称。ブラウスのシワが1.5センチ。それに……そのファンデーション、肌の色と半トーン合っていませんね。首との境目が見苦しいです」
「へっ……?」
「広報は会社の『顔』です。基礎化粧品から見直し、出直していただけますか? ……視覚的ノイズですので」
うぐっ……! 初手からクリティカルヒット……! HPが半分消し飛んだ……!
セイラおばさ……ゲフン!ゲフン!に猛攻撃を食らった下女の私は、これ以上被害が及ばないように従うことにした。
午前中の業務は、使われていない会議室で「過去5年分のプレスリリースを紙で出力し、ホッチキスで留める」という謎の単純作業だった。
誰からも話しかけられない。PCも与えられない。完全な放置プレイ。
ガチャン、ガチャン。
びぇぇぇぇん! なにこれ! いじめ!? 新手のパワハラ!? 帰りたい、お布団に帰りたいよぉぉぉ!
心中で号泣しながら、機械的に手を動かす。
ガチャン、ガチャン。
隣で、明菜が私のデスクに腰掛け、一緒にホッチキスを留めていた。
『ちょっと、あんな女に言われたくらいでびぃびぃ泣かないでよ。うるさいわねー』
彼女は足を組み直し、退屈そうに頬杖をついた。
『ファンデの色が合ってないのは事実じゃない。……ま、あの眼鏡女の性格が歪んでるのも事実だけど』
慰めになってない!悪魔なら呪ってよ! あの眼鏡割ってよ!
『お断りよ。自分の敵くらい自分で倒しなさい』
やっとこさ十二時。ランチタイム。
「茉莉子ちゃぁ〜ん! お仕事お疲れ様ぁ〜♡」
レモン色の可愛いパステルカラーのカーディガンを揺らして、先輩の黄倉きあらが近づいてきた。
「私たちこれからランチ行くんだけどぉ、茉莉子ちゃんも行くぅ〜?」
「え、あ、うん! 行く!」
救いの神だ!
ふわふわに巻いた、明るいミルクティーベージュのボブのイケ好かん女だと思ってごめんなさい!
私は嬉々として立ち上がろうとした。
その瞬間。
「あ〜っ! ごめぇ〜ん! お店予約してたんだけどぉ、人数制限あったかもぉ〜! やっぱ無理だわぁ〜♡ テヘッ☆」
彼女は取り巻きの女子社員たちと顔を見合わせ、「プッ」と笑った。
「じゃ、行ってきまぁ〜す! お留守番よろしくねぇ〜」
私は立ったまま石化した。
……え、何今の?
新手のいじめ? それともコント?
呆然とする私の元に、一人の女性がおずおずと近づいてきた。
同期の緋色アカネちゃんだ。
「……あの、茉莉子ちゃん」
彼女はコンビニの袋を提げていた。
「ごめんね、私お弁当だから……。もしよかったら、ここで一緒に食べていい?」
「う、うん……! もちろん!」
女神……! この魔窟に唯一の女神がいた……!
なんとか女神のおかげでランチタイムを乗り越えた私。
午後からなにしたかと言うとだな?
フッ……午後からもホッチキス地獄さ。
ようやく定時を迎え、アカネちゃんと一緒に休憩スペースの自販機へ向かう途中。
「あぁぁーやっと終わったー」
私は首をボキボキと鳴らした。
「初日お疲れ様でした」
アカネちゃんが女神の笑顔を向けてくれる。
「アカネちゃんがいてほんとによかったよー」
「そ、そう? そうだと嬉しいなぁ……」
その時。
廊下の向こうから、ユンジンが歩いてきた。
あ、ユンジン! ……助けて、慰めて!
私はすがるような目を向けた。
昨日の優しいキスを思い出す。彼なら、きっと一言くらい労ってくれるはず。
しかし。
ユンジンは足を止めなかった。
すれ違いざま、私の憔悴しきった顔を見て、眉をひそめただけ。
「……顔色が悪いぞ。自己管理も仕事のうちだ」
冷たく言い捨て、そのまま歩き去っていく。
……鬼! 悪魔! 昨日のキスの優しさは何だったのよぉぉぉ!
私は心の中で絶叫し、その場に崩れ落ちそうになった。
『あらあら、見る目がないわねぇ』
明菜がパッと現れた。
服装は紫のミニスカスーツに、黒の網タイツという妖艶なスタイル。
彼女は去っていくユンジンの背中に向けて、空中でパチンと指を鳴らした。
『ほら、よーく見なさい』
私の視界、ユンジンの顔の左側に、半透明のウィンドウがポップアップした。
【ソ・ユンジンのステータス】
保護欲: 爆発寸前
余裕度: 皆無・カツカツ
『……ね? 余裕なくてパンパンじゃない。不器用な男ねぇ♡』
……え、そうなの?
彼の背中が、少しだけ小さく、そして必死に見えた。
少しだけ気になったけれど……。
それよりも、今は自分のことで精一杯だ。
「もういい……帰ろう……」
私は泥のように重い体を引きずり、会社を後にした。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(HP赤ゲージ)
・状態:大奥の洗礼
新規獲得アイテム
・【ホッチキス】:武器にはならない。
・【女神の弁当】:HP微回復。
【明菜の分析ログ】
ようこそ、現代の大奥へ。
ここでは「弱さ」は罪、「地味」は悪よ。
でも、面白かったでしょ? ユンジンのステータス。
顔は氷のように冷たいのに、心の中はアンタへの過保護でパンク寸前。
男の「我慢」って、時として最大の愛情表現になるのよ。
……ま、アンタには伝わりにくいでしょうけど♡




