第四十七記録【所有権の侵害】
直之が消えた広い空間に、重苦しい沈黙が降りていた。
カチャ、と食器の音がやけに響く。
「……おい」
「は、はい……」
「ボクが目を離した隙に、随分と安っぽいタグを付けられたもんだな」
ユンジンは無表情で、テーブルを指でコツ、コツ、と叩いている。
そのリズムが、私の寿命のカウントダウンに聞こえる。
私は慌てて手で首筋を隠した。
ヤバい。言い訳だ。言い訳を考えろ九条茉莉子!
ここで「凪につけられました」なんて言ったら、凪の査定がマイナスになり、最悪の場合、物理的に消されるかもしれない!
ピロン♪
【スキル・選択肢シミュレート発動!】
視界に、ゲームの選択肢ウィンドウが緊急ポップアップする。
【イベント発生:管理者ユンジンからの尋問! どう切り返す?】
▶ A: ネットで覚えたての韓国語で誤魔化す
(成功率:20% / 最近覚えた「なんでもないよ!」という意味のあの言葉を使う。異国語で煙に巻く作戦!)
▶ B: 正直に「部下の凪に噛まれました」と自白する
(成功率:0% / 凪のデッドエンド確定。私の首も飛ぶ)
▶ C: 「これは新型の蚊です」と言い張る
(成功率:5% / 5月にそんな吸血鬼みたいな蚊がいるわけない。論破されてゲームオーバー)
Bは論外。Cは無理がある。
なら、Aしかない! 最近ネットドラマでヒロインが言ってた、あの可愛い言葉を使う時が来たわ!
確か「平気だよ」とか「なんでもない」って意味だったはず!
私は震える指で【A】を連打した。
「えっと……そ、それは……」
ユンジンの視線が痛い。
ええい、ままよ!
「『オ……オットケ(どうしよう)……!』」
言った。言ってやった。
これで「なんでもないよ〜」って意味になるはず……!
しかし。
ユンジンの眉がピクリと跳ねた。
「は?」
あれ? 通じてない?
発音が悪かったのかな。それとも……。
ユンジンの瞳からハイライトが消えた。
「どうしよう……?」
低い声。
え、オットケって「どうしよう」って意味なの!?
じゃあ私、今……「ヤバいバレたどうしよう!」って自白しただけじゃん!
ガタッ!!
ユンジンが椅子を蹴って立ち上がった。
「……そうか。そんなに隠したい相手なのか」
「ち、違っ……!」
あ、これ選択肢ミスった。
バッドエンドルートだ。
私は逃げようとしたが、あっという間に手首を掴まれ、ソファに押し倒された。
背中に柔らかいクッションの感触。
上には、鬼の形相をしたユンジン。
「だ、誰だ……凪か? それとも他の男か?」
「ひっ……!」
ユンジンの指が、首筋のキスマークを強くなぞる。
痛いほど強く。
「汚ねぇ痕つけやがって。……ボクが手塩にかけて管理してるもんに、勝手に傷つけて」
「い、痛いよユンジン……!」
私が悲鳴を上げると、ユンジンの動きがピタリと止まった。
ハッとしたように、彼の手から力が抜ける。
「……くそっ」
彼は顔を歪めた。
それは怒りではない。
見ていて胸が痛くなるような、「情けなさ」だった。
「なんでボクは……」
彼は私の首筋に、力なく額を押し付けた。
「ボクが一番、マリコの近くにいたはずなのに。……管理不足だ」
「ユンジン……?」
「……ごめん。痛かったよな……ごめん」
さっきまでの氷のような威圧感は消え、弱々しい声が耳元で響く。
管理なんて言葉を使っているけれど、その声はまるで、大事な宝物を奪われた子供みたいだ。
「……」
彼が顔を上げた。
至近距離で見つめ合う。
その瞳は揺れていて、どこか切なげで。
彼は何かを言いかけて、飲み込み。
言葉の代わりに、彼の唇が重なった。
ん……。
優しいキス。
壊れ物を扱うような、慈しむような口づけ。
何度も角度を変え、唇を啄むように。
なにこれ。こんなの、ズルいじゃん。
言葉では「管理だ」とか「所有権だ」とか言ってるくせに。
キスはこんなに、縋るように優しいなんて。
彼の矛盾した感情が伝わってきて、私は抵抗できずに目を閉じた。
口うるさい同級生だと思ってたのに。
こんな顔、反則だ。
しばらくして、唇が離れた。
ユンジンは何も言わず、ただ切なげに私を見つめると、パッと身を離した。
「……すまん。帰る」
「えっ、ユンジン?」
彼は私と目を合わそうともせず、逃げるように家を出て行った。
バタン、とドアが閉まる音が、酷く寂しく響いた。
一時間後。
私は広い湯船に浸かり、ブクブクと口で泡を作っていた。
目の前には、明菜も裸で優雅に湯船に浸かっている。
『これで正式に5人とキスしたってわけね。流石よルシファー』
「私はルシファーじゃないし!」
私はお湯をバシャッと掛けたが、明菜の身体をすり抜けただけだった。
湯船の中で、5人とのキスをぼんやりと思い出す。
短期間でこれだけ詰め込まれるなんて、私の人生どうなってんの。乙女ゲーの主人公でも胃もたれするわ。
もうすでに毎日しんどい。
明菜が指を鳴らし、空中に5枚のタロットカードを浮かべた。
【太陽(凪)】
【棒の王(大樹)】
【金貨の騎士】
【剣(恭弥)】
【杯の騎士】
『さぁ格付けの時間よ……茉莉子がいま、もっとも一緒にいたい人を5位から順に選びなさい』
「えぇ……選べないよ……」
『選びなさい。これは予言に必要な儀式よ』
明菜の目は真剣だ。
私は観念して、ゆっくりとカードを指差していった。
「……5位は、大樹」
安心感はあるけど、今の私には熱すぎて火傷しそう。
「4位、レオ」
面白いけど、まだ何考えてるか読めなくて怖い。
「3位、凪」
可愛いけど、ヤンデレ化が進行しすぎてて生命の危機を感じる。
「2位、ユンジン」
今日のあの優しさと弱さは、正直刺さった。
「……1位は」
私は【剣】のカードを指差した。
「恭弥」
『プッ……!』
明菜が吹き出した。
『大樹は2位から最下位に脱落……そして、あの変人オタクが1位だなんて……アハハハ!』
明菜はお腹を抱えて笑っている。
『アンタも相当な好きものね……』
「だって! 一緒にいて一番気楽なんだもん! 趣味合うし!」
私がむくれると、明菜は笑いを収め、カードを払いのけた。
『ま、いいわ。男たちの攻略は順調そうね。……でも』
彼女は真顔になり、新たに3枚のカードを空中に浮かべた。
『次は、こうはいかないわよ』
そこには、見たこともない女性のシルエットが浮かび上がっていた。
1枚目。【女帝】の逆位置。
2枚目。【正義】の逆位置。
3枚目。【月】の正位置。
カードからは、甘い毒のような、冷たい氷のような、そして粘着質な泥のような気配が漂っている。
『明日からの会社……男たちより厄介な、現代の大奥が待ってるわ』
「ガチ……もうお腹いっぱいなんですけど」
私は再びお湯に潜り、ブクブクと泡を吐いた。
明日が来なければいいのに。
私のGWは、不穏な予感を残して終わりを告げた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子(語学力ゼロ)
・状態:自爆によりHP減少
新規獲得アイテム
・【間違った韓国語】:オットケ(どうしよう)。自白剤と同じ効果。
・【予言のカード】:大奥編突入。装備を整えよ。
【明菜の分析ログ】
男を落とすのは簡単よ。
弱さを見せた直後に、優しくして、たまに突き放せばいい。
でもね、女を相手にする時は違うわ。
笑顔の下にナイフを隠し持った猛獣たち……。
さぁ茉莉子、アンタの「猫被りスキル」がどこまで通用するか、見せてもらうわよ♡




